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金曜日の夜の泥酔者たち

 スーツはやっぱり息苦しいし、ネクタイは首を絞めつける荒縄のようで落ち着かない。僕は神楽坂の安い居酒屋で飲んでいるのであって、富士の樹海で人生を止めてしまった訳ではないのだ。上司がネクタイを額に巻くのとほとんど同時に(そんな人が実際にいるなんてその時まで知らなかった)、僕は音を立ててブルーの横縞のネクタイをほどいた。同期のやつが僕を肘で軽くつついたが気にしない。僕は飲んでいるのだ。

「それで先輩、その後はどうなさったんですか? まさかそれで終わりではありませんよね」

 僕は続きをせかした。言い終わると同時に上司は僕の肩辺りを殴って「いいからお前等もやれ」と凄んだので仕方なく巻いた。豆縛りで巻こうとしたがそれは違うらしい。僕は二十六年間生きてきて初めて額にネクタイを巻く時の正しいやり方を知った。

「それでよう、まず軍手をはめるんだよ。それで、指の先を、こう……」

 上司の話はそれきりで終わってしまった。誰が余計な気を利かせたのか知らないが、愛想の悪い店員が伝票を王手飛車取りでもするみたいに堂々とテーブルに叩きつけたので、我々は仕方なく解散となった。女の子達の言葉の端々には悪意と軽蔑が込められていて、僕と上司と同期のやつ(田中という)は耳を塞ぎながら逃げるようにタクシーに乗った。夜の外堀通りは相変わらずの様子で、田中と上司が二次会の場所を決めている間、僕は後輩の由紀ちゃんに手を振っていた。彼女は四文字分だけ大げさに口を動かしてからにっこり笑って行ってしまった。それはサヨナラではなくセクハラなんだろう。彼女が見えなくなっても、そのまま行き交う人々の酔い模様を眺めていた。ハンチングを被った男に背負われた女の子が頭から勢い良く落ちたのが見えた。

「水道橋で構わないか? 行ったことのあるバーがあるんだ」

「けっ。何がおバーだよ。これだから女持ちは嫌なんだ」

 僕は額のネクタイを更にきつく締め直した。それから財布を開いて水道橋までのタクシー代の一人分を渡した。ここで飲めば簡単じゃないかという独り言は、誰にも聞き取られること無く飯田橋の喧騒に揉み消されてしまう。我々は駅西口の通りに面するバーに入り、僕と上司は良く分からないカクテルを飲んだ。

「なかなか美味いな」

 一杯目を流し込んでから僕は呟いた。

「コーラをポカリスエットで割ったような味だ。子供の頃によくやったよ」

 カウンターの向こうで若いバーテンが顔を上げるのが見えた。

「馬鹿を言うな。お前はこういうものの味が分からんのか。ビールじゃないんだからもっと味わって飲めよ」

「味わってる。お前のちゃちなファーストキスよりよっぽど丁寧にやったさ。先輩、こいつのそういう話はご存知ですか?」

 田中は目に見えて動揺する。やめろやめろと言いながら席を立って便所に行った。噂して欲しいのかも知れない。

「あいつ、本当にここに来たことがあるのか?」

「先輩も思われましたか? なんだか怪しいですね。注文頼む時にもまごついていましたし」

「おかしいなぁと思ったんだ。いつもの赤ちょうちんに行こうって俺が言ったら、お勧めの店があるって言い出すんだ」

「どうせ我々をだしに使ってデートの下調べでもしているんでしょう」

「……なるほど。あいつは妙な所で気が小さいからな。不器用だし」

「初めての彼女ってことで、浮かれている所もあるんでしょうかね」

 上司もかき氷のシロップみたいなカクテルを飲みきったので、僕はメニューを開いてビールを三杯頼んだ。九百円もするプレミアムモルツだ。こういうものこそ味わって飲まなければならない。

 僕は窓の外に目をやる。通りには赤とか青の電飾が引っ掛かっている。あと何日かで雪が降る季節になる。僕の好きな秋はいつの間にか終わってしまっていた。奥多摩の紅葉を撮るつもりで買ったニコンの一眼レフも、狭いワンルームの壁や床や机の上を写しただけで終わってしまった。



 改札まで来た所で田中が忘れ物をしたと言い出した。

「どうして鞄を置き忘れるんだよ」

「お前が余計な注文をするから頭が回らなくなったんだ」

 上司には先に帰ってもらって、僕は田中の後に続いて来た道を引き返す。パチンコ屋の電光看板とイルミネーションが通りを照らしていた。息を吐くと白かった。僕は何だか疲れてしまって、さっきのバーに上がる階段で座り込んだ。

「おいおい、飲み過ぎなんじゃないか。二人で何杯飲んだんだ?」

「飲んでない奴に言われたくないね」

 そう言ってから深呼吸する。吐き出された息はアルコールの臭いで一杯なんだろうか。また大きく息を吸い込み、そして吐き出す。デジタル表示の腕時計はその間も時を刻み続ける。

 僕は煙草が吸いたくなって鞄を漁った。けれど煙草は出てこない。書類に紛れて下らない物ばかりが出てくる。所々ページの折られたクーポン雑誌とか、横浜開国博のマスコットキャラの縫い包みとか。僕はようやくそれが自分の鞄でないことに気が付いた。

「田中、おい」

 田中はいない。今頃は店の中を探し回っているのかも知れない。カウンターの奥では、あの若いバーテンがフォー・ローズを三ツ矢サイダーで割った時の黄金比を見つけるべく奮闘しているんだろう。何処かのおかしな女の子に、おいしいと笑ってもらえる日を夢見ているんだろう。

 僕は田中が出てくるのを待った。煙草が吸いたくて堪らなかった。


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[一言] どうじょうするぶぶん ありありです なんてひだああ
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