山麓の町を出て
カデナの町を出るまでレナは物も言わずにズンズンと速足で歩き続けた。
橋を渡り町からは大分遠ざかり、人より大きい岩がごろごろとしている場所をレナは歩いている。
「ルィン、一体どういうこと? さっき、私の身体を操ったよね?」
速度を緩め、レナはルィンへ尋ねた。なぜ今頃そんなことを言うのかと言えば、レナは領主の息子の前でルィンを手にした時からかなりな興奮状態にあったのだ。
ルィンを領主の息子へ投げつける前、ルィンを握っている間に感情が高ぶりかけていた。
その後、ルィンを再び握った途端、一気に全身が痺れたようになった。その時の不思議な感覚は、今もまだ残っているような気がする。
自分の身体をルィンが動かしているんだろうとは思った。
ルィンを握って領主の息子へ歩きだす時、レナはそこにいながら、そこにはいない存在だった。
レナの意識が身体に留まっていなかったのだ。そういう風にレナが感じただけで、実際には留まっていたのだろうが。それは途方もない解放感に満ちていた。
肉体に縛られず、そこに存在するものとしてのレナは、完全な自由であり、しかし自由であるがゆえに世界に溶けてしまいそうでもあった。
ルィンが手から離れた時あっという間に元に戻ったが、レナの感覚はまだあの浮遊感というか解放感を覚えていた。
レナは一見冷静に行動していたようだがひどく興奮しており、今ようやく普段の自分を取り戻しつつあったのだ。
『操ったわけではないぞ。ちょっと身体を借りただけだ』
ルィンの声はやや上ずっているようで、少々後ろめたいらしい。それもそのはず、実際にルィンはレナの身体を操ったのだから。言葉で誤魔化そうとしているが。
「どっちも一緒だと思う」
すぐさまレナがそう答えると、ルィンも観念したのかレナの意見を認めた。
『うーん、そうかもしれんな』
レナは半目でルィンを見下ろす。
ルィンは、そんな冷たい視線で無言の抗議をするレナへあわてて反論した。
『仕方ないではないか。わしの声は奴には届かないのだ。少々、声くらい貸してくれてもよかろう?』
ルィンは開き直った。完全に開き直って、レナに訴えた。
『どうしても奴にもう一度来て欲しかったのだ。あぁ、早く追ってこんかなぁ』
そうして、ルィンはカデナの町へ未練を残しまくっていた。何度も何度も振り返るように、さざ波のように行きつ帰りつしながらレナについて来ているのだった。
それをため息交じりにレナは見下ろしている。
領主の息子は、もうこないと思うな。しみじみとそうレナは思う。だが、ルィンはそれを認めたくないようだった。
『そんなことはない。奴は必ず、必ず追ってくるはずだ。そうに違いないっ』
ルィンはものすごい願望を込め、そう断言した。
追ってこいっ、そのルィンの切なる願いは、きっと彼には届かないだろう。レナはそう思った。レナでなくとも、そう思うだろう。
あの男、町ではとても嫌われているようだったのに、ルィンにこんなに好かれるとは。
「なんでそんなに追ってきて欲しいわけ?」
理由は想像できたのだが、レナは一応ルィンに聞いてみた。
『奴なら何度でもわしを受け止めてくれるからだ』
だいぶ違うと思うな、それ。
レナは領主の息子の姿を思い返してみる。ルィンを眉間にくらって後ろへ倒れた一回目。そして、鼻に受けて吹っ飛んだ二回目。
どちらの場合も直後に白目をむいて後ろ向きに倒れていった。
あれは、打撃をくらって気絶しているのであって、受け止めてはいないだろう。
ルィンを投げつけられると知ってて向かってきていたわけではない。
「でも、ルィン。なんであの人? 他にも人はたくさんいるし、もう一人ルィンをぶつけて気絶した人いたよね」
『そうだな。レナが奴になら、わしを投げようとするからだ。もう一人も来ればレナは投げるのか?』
ルィンの期待感が湧き上がっているようだが、レナはそれを否定するように答えた。
「駄目だよ。悪いことをする人にはぶつけてもいいかなって思ったけど、基本的に人にものを投げるのはいけないよね」
『よくわからんが、わしの楽しみはない、と言いたいんだな?』
ルィンが機嫌を損ねてしまったようである。レナは意地悪だなっとでも言いたげにレナのまわりをうろついて、つーんとルィンは一直線に道の先へと転がって行った。
だってしょうがないじゃない、人に石を投げるのは本当はよくないことなんだから。
レナは困った顔で、前方を行くルィンを見つめていた。
ふとレナが動くものを視界にとらえた。ルィンではない。
辺りは、カデナの町へ入る前の風景と同じ様相であり、何度も誘惑を感じたあの動物が簡単に見つかる環境であったのだ。
レナが視界にとらえたのは、茶色い毛皮の耳でか動物だった。
あの動物に、ルィンを投げたら仕留められる?
レナの頭には領主の息子が吹っ飛んだように動物が吹っ飛ぶ様子が想像される。
いやいや、そんなことにルィンを利用しては駄目。
レナは先に浮かんだ考えを否定した。ルィンを利用しようなんて、失礼なことしてはいけない。自分なら、そんな風に使われるのは嫌だし。
でも、すでにルィンを利用して男を気絶させたんだった。
レナは自分の中で葛藤しながらも、ルィンに対して反省することになった。
『別に、あの動物相手に投げてもいいぞ?』
ルィンはうんうんと悩んでいるレナに向かってさらりと言った。さらりと。
だが、完全には気持ちを隠しきれず、声の調子には少しばかりの期待が滲んでいる。
レナは困ったような顔でルィンを見つめた。
耳でか動物相手に、投げてもいい。
レナは投げたい。
そして、ルィンは投げられたい。
……意見の一致。
しかし、いいのかな?
レナはなおも躊躇した。それは、なぜか? 自分の得のためにルィンを利用することになるから。
では、ルィンを利用するのではなく、ルィンが楽しめるなら?
そもそもルィンが投げられたいだけなら的はなくてもいいのではないのか。レナはそう考えついた。
「ルィンは、ただ投げられるだけでは楽しくないの?」
レナはルィンに尋ねた。
『ただ投げられる? どうするのだ?』
レナの言葉に、ルィンはそわそわとし始める。レナの考えていることがルィンには今一つ理解できてないのだが、ルィンが楽しいと思うことをレナが実現しようとしていることは確かだった。
「例えば、何もないところへ向けて私がルィンを投げる。この辺りの岩だらけの場所なら、誰かに当たったりしないし」
『わしを投げるのか? どこでも構わんぞっ。本当は的がある方が集中するから面白いのだが。的がなくても、まあよいぞ。できれば、うんと高く投げてみてくれ』
ルィンはレナの足元をぐるぐると回転しながらそう言った。相変わらず歩みを止めないレナの足元をうろついているものだから、レナの足がルィンを踏みつけてしまいそうだ。
もちろん、本当に踏まれるようなルィンではない。
「じゃあ、そのあたりで投げてみようか?」
『いいぞっ。高くなっ!』
ルィンはいつでもレナの手に取れるよう、レナのそばをコロコロと転がっている。
レナは見下ろしながら、いつ見てもルィンの転げ具合はなめらかだなと思う。
「ルィンは弾んだり、飛んだりできないの?」
レナが投げたときには方向転換や速度調節などいろいろしているようなので、飛ぶこともできるのではないかと思ったのだ。
弾むくらいは、あの転がり速度では簡単に実現できそうである。
『うむ、この姿は実体とは違うのでな。重すぎて、そう簡単に浮くことはできん』
ルィンはそう答えた。
レナの頭の中には疑問符が山のように出現し脳内を埋め尽くした。
実体とは違う? レナが握れるのに?
重すぎる? レナが手に取れるのに?
その脳内いっぱいのものをレナは強制的に撤去した。つまり、ルィンの言葉に対して抱いた疑問はすべて忘れることにしたのである。
だいたい、ルィンの存在がすでに不思議そのものなのだから、深く考えてもわかるはずがない。わからなくてもいい存在なのだ。
そう結論付け、ルィンは自分で宙に浮くことはできない、という認識だけをレナの頭の中におさめた。
「さて、そろそろ投げてみようか」
道を外れ、草地の岩の一つに上がり、周囲を見渡してレナはそう言った。
とりあえず道に人や馬車の姿は見当たらない。
カデナの町からかなり離れ、丘をいくつも越えているので、家などの建物もなさそうである。
この道の先に森があり、手前には草と岩ばかりの光景が一面に広がっているからルィンを投げるには丁度よさそうな場所だ。
あちこちにいそうな耳でか動物には悪いなと思ったけれど、当たれば私の食事にしよう。
レナは一応色々と考えた上で、ルィンに声をかけたのだった。
『いつでもよいぞっ!』
ルィンの期待感は膨らみまくっているようだ。
レナの目にもルィンはピカピカと光りを放っているかのように見えるのだ。いつもより真っ赤さが違い、照り輝いているかのように。
腰をかがめてルィンを手に取ると、レナはルィンを思いっきり高く空中へと投げ上げた。
『うははーーーーーーっ』
ルィンは声を上げて空高く上がっていった。赤い丸い姿は、見る見るうちに点になりレナの視界ではとらえられなくなった。
ほんの少しルィンを握っただけだったので、レナは不思議な感覚にとらわれることはなかった。
あのくらい短ければ問題ないのかぁと思いながら、消えゆく赤い石の行方を見ていた。
しばらくの後。
ドオオオオオオオォッ。
低い地鳴りのような音があたりに響き渡ると同時に、地面が揺れた。ほんの短い時間だったが、岩の上のレナは一瞬うろたえた。
揺れはすぐに収まったが、あたりの様子がおかしい。大騒ぎが起きているのだ。
バサバサバサバサバサッ。
ギャッギャッギャッ、ドドドドドドドドッ。
森から煙がもうもうと湧き立ち膨れ上がり、森の上から横から溢れ出ている。
鳥たちが一斉に声を上げて飛び立つ。
頭に二本の角をもつ馬の小さいやつのような動物や牛達が群れなして森から四方へと駆け出ていく。
岩の陰にいた耳でか動物や、丸っこい小動物たちも、森とは逆方向へむけて走って逃げている。
一面にいたのだろう小さな羽根のある虫たちも飛び空中を移動している。
レナは岩の上からこの風景を眺め見ていた。茫然と。他にしようがない。
ルィンのせいで引き起こされたのだということは、当然、レナにはわかっている。
これは、まずい。
茫然と見つめた後、レナが思ったのは、そんな言葉だった。
陽が傾いてきたので食事にしよう。
レナは非日常のことを忘れて、日常を平静を取り戻そうとした。現実逃避を選択したのであった。
レナは、黙々と鞄から肉塊と、道中で拾った食用葉茎を取り出す。
肉塊をナイフで削ぎ葉で肉と茎を包んで口にほおばった。非常に美味しい。
レナはもぐもぐと咀嚼しながら、どこか感覚が鈍くなっており、味覚が半減しているのが残念だった。
ふと考え事をしそうになる自分をレナは頭をふって考えを中断し、ひたすら食事に集中しようとするのだった。
それは、なかなか難しいことだったのだけれども。
太陽は傾き始めると落ちるのは早い。あたりがゆっくりと赤く染められていく。
レナは茫然としすぎて、時間がたつのを忘れてしまっていたらしい。
自分の手元を見ると既に肉塊は三分の一ほどになっており、食用葉はなくなっていた。
レナは、朝陽が昇ると眠りから覚めた後と、夕方眠る前の二回食事をとる生活をしている。
日が暮れると眠るだけである。
肉塊を鞄に納め、代わりに取りだした水袋から水を摂取する。そして、獣除け香を取り出し、火打石で火をつけるとそれを岩の上にとぐろを巻くように置いた。
『うわははははははーーーーーっ、レーーーーーナーーーーーーーッ。もう一回だあぁぁぁーーーっ』
遠くから聞こえてくる歓喜の雄叫びを無視して、レナは岩の上で横になり目を閉じた。
夢の中へ逃避するかのように。