山麓の町で(3)
娘はお茶の入ったカップの縁を持ち、カップの取っ手を握りやすいようにしてレナへ差し出した。レナは右手でそれを受け取り、左手を添えてそれを持つ。結構カップが重かったからである。
まだまだ熱そうなそれは、茶色い液体で満たされていた。その香りはレナが村で飲んでいたお茶とは異なるようだ。
レナは、ふうっと何度か息を吹きかけてからカップに口をつけてみたが、熱すぎて味がわからない。しかしそれでも、まろやかな味がする、ような気がした。レナの村でお茶と言えば苦い飲み物のことであったので、それに比べればかなり飲みやすい。
レナの座っている近くに他の椅子を運び、そこへ彼女も腰かけてレナに向き合った。
娘はカップを両手で持ち、レナに話しかけてきた。
「この町では見たことがないけど、どこの子? いきなりガロンに石を投げたからびっくりしたわよ」
ガロンというのは、この町では有名人らしい。ルィンをぶつけた男の一人の名前のようだ。そういえば、もう一人の男がそんな名前を口走っていたような。レナはその時の光景を思い出しながら娘に聞いてみた。
「遠くの村から来たんだけど。ガロンって有名な人?」
あの時、人垣ができるほど多くの人がいたのに誰も女性と子供を助けようとしなかった。あの場所にこの娘もいたのなら、なぜ皆が彼女らを助けようとしなかったのか知っているのだろう、そう思ったからである。ルィンがお偉いさんがどうしたとか言っていたけど、レナには意味がわからなかったのだ。
「有名ね。領主の息子の友人で、一緒になって悪さばっかりしているから」
娘は顔をしかめてそう言った。声には嫌そうな感情がこもっている。
「さっきも女の人が助けて欲しそうだったのに、誰も助けようとしなかったのは、どうして?」
レナがそう尋ねると、娘は困ったような顔をして答えた。
「エラリス、あの時、後で倒れた男の方だけど、あの男は領主の一人息子で将来の領主なの。ここでは領主に逆らう訳にはいかないのよ。そんなことをしたら、町では暮していけないから。川の傍に町を囲うように石の壁が造られているのを知ってる?」
「あぁ、うん。かなり幅がある壁だったよね」
「あの川は時々あふれてしまうから、町を守るために壁が作られているの。水嵩が増してきたら壁の扉を閉じて、みんな家の上階に避難するわ」
「へえぇ」
あの壁が水の浸入を防ぐためのものだったとは。道理で壁幅が分厚いはずだ。家が高いのも、水を避けられるようにとの工夫なのだろう。レナにはあの川の水が溢れるところをとても想像できなかった。川幅は広く、川沿いの道から川岸まではかなりの高低差があったはずだが、それでも溢れるとは、一体どれだけの水量が流れるのか。驚いた表情で、レナは呟いた。
「溢れることがあるんだ。あんなに広い川なのに」
「もちろん、ごくたまに、よ。でも、何年かに一度は起こるから、壁の外には住めないわね。森に近くなれば獣に襲われやすくて危険だし。領主はこの壁の内側に住む権利を全て握っているの。領主に逆らえば、すぐ壁の外へと追いやられる、だから、誰も逆らえないってわけ。前の領主はいい人だったっていう話だけど、今の領主も息子もろくなもんじゃないわ」
苦々しげにそう語る娘の表情には、語るごとに怒りが滲んでいくようだ。
「リセル、やめなさい。誰が聞いているかわからない」
作業を続けながら、背中越しに主人がそう口をはさんだ。そして、娘は悔しそうに唇をつぐんだ。レナは視線をカップに落とす。何となく見ていられなくなったからだった。
船着き場の人々は内心こんな風に怒りを込めながら人垣をつくっていたのだろうか。ルィンの言うお偉いさんとはこういう意味だったのかと、レナにもようやくわかってきた。
「この町には領主に逆らった人を告げ口するのが大好きな人が何人もいるの。残念なことに」
「リセル」
主人の制止も聞かずに再び娘は口を開きそう言うと、彼女もカップへと視線を落とした。泣いているんじゃないかと思うほど肩を落として。
「さっきの場面であなたが石を投げたこと、きっと誰かが告げ口しているんじゃないかと思う。私が見たところではそんな人はいそうになかったけど、最近では誰が告げ口するのか分からなくなってきたから。お金欲しさにそうする人が増えてきて」
主人も制止するのを諦めたようだ。
「だから、さっきは気持ちよかったわ。みんな、久々に爽快な気分になったはずよ。一発で倒れるなんて、よほど腕がいいのね」
気落ちした顔を消し、娘は笑顔をレナに向けた。レナはちょっと横を見る。視線を向けた先はルィンである。真っ赤な石が、話を聞いているのかいないのか、主人の近くにまだとどまっていた。
「うぅーん、まぁ、ね」
レナが普通に石を投げていたら、おそらくあんなことにはなっていなかっただろう。命中すらしなかったかもしれない。絶対に、ルィンが方向を変えたり威力を増大させたのだと思う。しかし、そんな説明をするのもどうかと思うので、とりあえずレナは曖昧に笑ってごまかした。
「本当に気をつけてね。この町に住むつもりじゃなかったら、早めに出発した方がいいかもしれないわ」
「靴ができたら、たぶんすぐ出発すると思う。ここから一番近い大きな街ってどこかな?」
レナは娘に聞いてみた。別に目的も宛もないので行き先はどこでもよかったのだが、大きな街を目指してみようかと思ったのだ。ここが村とは違っていたように、大きな街ならもっと違うのかもしれないと単純に考えたからだった。
「そうねぇ、大きな街っていうと、川を下った先にあるロトポスかな。ねぇ、父さん?」
娘は主人に同意を求めて声をかけた。
「ロトポスは国境の町で、兵士が大勢いるから町は大きいが、少々荒っぽい者が多い土地だという噂だ。子供が行くのはどうかねぇ。国を越えるつもりじゃないなら隣町のテミスがいいのではないかな。そこまでいけば、王都への街道が通っているから大きい街へも行けるよ」
王都というのは、レナにとって非常に華やかで大きな街であることを想像させる言葉だった。国や都などまるで縁のない言葉だったからだ。
はっきりいって、レナの村がどこの国に属しているのか疑問だ。小さな頃に図を描いて国の大体の位置を教えてもらったが、村のある山は三国の境界上にあったのだから。どの国からも、あの村は忘れられた存在なのだろう。
村とは呼んでいても、実はレナは自分が住んでいた村の地名を知らなかった。今、ロトポスやテミスなどというのが街の名前だというのは会話から理解できる。そこで初めて気付いたのだ。私の住んでいた村にも名前があったのだろうか、と。村を出ない閉じた世界であったために、わざわざ住んでいる土地の名前など必要なかった。ここ、と、外、と言えばすむことだったのだから。そういえば、時折、他の表現で村を指すことがあった。土にかえる場所、と。実際、みな、土にかえってしまったが、他に意味があったのだろうか。
気分が暗くなりそうなので、レナは村のことを考えるのをやめ、これから行く先のことを娘に聞いてみることにした。
「テミスっていうのは、どんな場所?」
「私も二回しか行ったことはないから詳しいことは知らないわ。ここよりは大きい町ってくらいしか。ここで作った商品は船でロトポスへ出荷するか、テミスへ馬車で出荷するんだけど、量はテミス向けが多いわね。テミスから街道を通って王都まで行くの。ここの薬香は王都では五倍くらいの値で売られてるわ」
「テミスは街道沿いの街としてはさほど大きくはないが、王都への中継地だからいろんな商品が集まっていて店も多く賑やかだよ」
娘はあまりテミスを評価していないのに対し、主人はテミスの評価が高いようだ。
「確かに店の種類は多いけど、嫌味な人が多いのよ、あの町は。カデナの町人だって知ると、田舎者がって見下したように笑うんだから。むかつく」
どうやら、そう言って笑われたことがあったらしい。だから、娘はテミスが嫌いなのだろう。そして、ここはカデナという地名らしい。レナは初めて聞く地名ばかりなので、どこがどこのことかわからなくなりそうだった。
「仕方ないだろう。本当にここは田舎なんだから。あれだけ人が多ければ、余所者を笑いたい人もいるさ」
そう言いながら主人が立ち上がり、革靴を手に振り向いた。
「さぁ、出来たよ。ちょっと履いてみてくれないかい? 調節をするから」
レナの足元へやってきて主人は跪き履かせてくれようとするので、すぐさま主人の手から靴を取る。
「自分で履きますからっ」
あわてて靴に足を入れたが、きつい。足の指をもぞもぞと動かそうとするが、親指が締め付けられて動けない。そうして足を動かしていると。
「少しきついようだね。親指のところか、他はだいたいよさそうだが、左足の中指のところも窮屈かな?」
そう言いながら、主人はレナの足から靴を取り上げると、靴の中に木の塊のような物を押しこみ伸ばしている。押す場所や角度を変えて何度かそれを繰り返した後、再びレナの足へ靴を履かせる。今度はレナも間に合わなかった。主人はレナの腰かけている椅子の隣に膝をつき、靴の調整をしてはレナに履かせるのを何度も繰り返す。
そうして何度目かの後。
「さあ、これでどうだろう。立って歩いてみてくれるか?」
主人に促され、レナは靴を履いたまま、店の中を歩いてみた。靴の中で足が泳いだりせず、窮屈なところもなく、ぴったりとして履き心地がよい。新しい靴は足に馴染むまで時間がかかるものなのに、これはかなり違和感がない。
「すごい」
レナの感心しきった言葉に主人はほっとしたようだ。
「気に入ってもらえたようでよかった」
「うちの父さんの靴、いいでしょう? 履き心地いいのよ、馴染むのも早いし。ついでに、鞄もどう? あなた荷物がいっぱいあるから、この背中に背負うタイプの鞄なんてどうかしら」
レナの置いてある荷物をみて、娘がさっそく適度な大きさの革の鞄をレナの前にかざして見せた。
「ほら、こんな風にして上は雨除けがついてて、腕をここに通すと荷物は背中側にあるって感じ。両手が使えるから、いざという時に便利よ」
娘はちゃっかりと皮鞄を熱心に売り込み、結局、レナは靴だけでなく皮鞄も買うことになった。今のままでは荷物がバラバラだし、困ると思っていたのは確かだったので、丁度良かったのではある。だが、レナは、店というのは、やはり予想以上に買い物をしてしまうものなんだとつくづく思った。
懐からお金を二枚渡すと、サービスだと言って、主人が革の帯をレナに渡してくれた。レナの腰紐はくたびれていたのを気にしてくれたのだろう。靴と皮帯には、レナのマントに刺繍されている三角と菱形が組み合わさった紋様飾りが小さく入れられていた。
「ありがとう」
レナは主人と娘に見送られながら店を出た。見送られるのは、かなり恥ずかしかった。
新しい靴を履き、新しい皮帯を腰に巻いて、新しい皮鞄に買った荷物を詰めて背負っている。レナは、ずいぶん贅沢をしたなぁと反省しきりだった。
ルィンのお陰で手に入った木の実をお金に換えた途端、こんなに買い物をしてしまうとは。大金を手にすると人は贅沢で怠け者に変わるって婆様が言ってたけど、こういうことかな、気をつけよう。レナは真剣にそう思っていた。
店を出たレナは、テミスという町へ向かうべく大通りを西へ向かって歩き始めた。もう昼過ぎており太陽が高く、日差しが強くなっている。
レナがマントのフードをかぶろうとごそごそしていると、ルィンがレナの足元にまとわりつくように近くを転がってきた。
「ルィン?」
レナは不思議そうに足元のルィンに声をかけた。
『来たっ、来たぞっ! あいつが来たっ』
ルィンの嬉しそうな声にレナの頭の中は疑問でいっぱいだったが、その答えはすぐにわかった。
「おい、そこの子供。お前か、俺に石を投げたのは?」
背後からレナへ声がかけられた。
自分に話しかけられたと思ったわけではないが、レナが声のした方を振り向くと、そこには馬に乗った男が数人数頭いた。
先頭にいるのは船着き場近くでルィンを投げて倒した、あの領主の息子だった。