リットンの領主館にて(2)
豪華な寝台の上で目覚めたレナは、爽快な気分だった。
人肌に温められた触り心地のよいシーツの中は快適で、いつまでもごろごろしていたい。
しかし、朝にはお腹がすくものである。寝台から降りて自分の鞄を探すと、寝台の近くのテーブルにレナの鞄と、洗濯されたマントが畳んでおかれていた。
鞄の中身を確認すると、肉塊と木の実は無事である。マントは、よく洗ってくれたらしいが、薄灰茶がまだらに染みついたそれは雑巾のようだった。埃などが取れておりすっきりして嬉しいのではあるが、洗った人はさぞ楽しくなかったことだろう。洗っても洗っても綺麗にはならないのだから。
そして、振り向いて寝台を見ると、自分の服のせいだと思われる茶色い汚れが白いシーツを台無しにしていた。
これも全てはセスの責任だから、とレナは誰にともなく言葉にせず語りかけたのだった。
鞄を背負いマントをはおってレナは部屋を出た。
出た先は昨夜食事をとった部屋で、使用人が朝の支度を整えているところだった。
レナはそれを横目に見て、ドアへと向かう。そのドアを出れば廊下になっており、領主館の出口までの道は全て記憶にある。難なく外へと出られる予定だったが。
「セス様っ!」
出ようとしたドアが突然開き、騎士姿の男が入ってきた。年配者のゴルタナである。いつも冷静沈着といった風なのに今朝は酷くあわてている。
レナはとっさにドアの側によけ、ゴルタナが開けたドアを出ようとする。が、次から次へと一行連中が入ってくるので、結局ドアの前でしばらくたたずむことになってしまった。
「おい、お前、これから飯だぞ」
インゲがドアの側に立つレナに声をかけた。
レナは、頷いた。
昨夜は二人で囲んだテーブルに八人が着席して食事をとるとなると少々窮屈だった。
今朝は昨夜ほど料理の数がなさそうなのでレナは少しがっかりした。
のんびりと食事をとっているのはレナだけで、一行は食事をしながらセスに神経を注いでいた。
セスが黙って目を通している手紙。
どうやらゴルタナが急いで持ってきたのはそれだったらしい。何か重要な事が書いてあるのかもしれない。レナは様子をうかがい食事を進める。
軽く焙った薄い肉が美味しいけれど、もう少し分厚い方が好きだなと思う。歯応えが少ない。
そうしているうちに目の端に赤い姿がかすめた。部屋の端をうろうろしている。
おはよう、ルィン。
レナはルィンに言葉をかけた。
『レナ、どうしてその臭い奴と一緒にいるんだ?』
連れてこられたから。ご飯食べさせてくれるっていうし、ついね。
レナはルィンにそう答えつつ、我ながら食事につられすぎだなと反省する。反省はするが、次にご飯を拒絶するかと言うとそれは別問題である。
やはり食事は大事だよ、うん。レナが頷いていると。
『わしだって美味いもの食わせてやったではないか』
ルィンは拗ねているようだ。レナがセスと一緒にいるのが気に入らないらしい。一応、ルィンの的になったこともあるというのに、セスの受け止め方は感触がよくなかったのだろうか。レナは頭を捻った。
『受け止められるなら、昨日の奴がいい。がっしりとした安定感、たまらんなぁ』
ルィンは昨夜を思い返しての発言のようだ。それにしても、ルィンは強い人に受け止めてもらうのがいいのかな?
昨晩投げた中では、鞭男が一番強そうだった。
『また、あんな奴等に囲まれたいのぉ』
絶対に囲まれたくない!
こればかりはレナは同意はしない。ルィンがついていてくれたからほぼ無傷で逃げられたが、もう一度遭遇したい場面ではない。
特にあの鞭男は、表情が極めて極悪だった。本当なら恐怖に凍りつき一歩も動けなくなるほどに凶悪な笑顔だった。なのに、極悪人面だなと思う程度に冷静だったのは、ルィンを手にしていて自分が拡張していたからせいで気持ちも大きくなっていたのかもしれない。面と向かって対峙していても、感覚としては、手のひらサイズの昆虫がハサミを振り回して威嚇しているといった感じに近い。下手をすれば痛い思いをするが、死ぬほど大怪我をすることはない、という。
ルィンを手にしていると妙な錯覚を起こしそうなので、今後は極力投げるだけにしておいた方がよさそうだ。
レナは、昨夜のような混乱には近寄らないようにしようと思っていると。
『昨夜のような場面は大歓迎だ! 最高ではないか。いつでもわしを持ってよいぞ』
非常に上機嫌なルィンの発言に、ふと昨晩のことを思い出した。忘れたい場面を。
頼まれてルィンを手に持った後のルィンがした発言をはっきりと思い返してしまい、レナはむっとした。今この場にいる連中の半分は、昨夜のレナの言動を目にしているのだ。各人の頭の中に入って消してしまいたい思いに駆られる。そして、じわじわと憤懣が。
しかし、ルィンの頼みを承諾したのは自分なので、ルィンに文句は言うまいと口を閉ざす。
『口で言わないだけで、文句ばかりではないか! わしはレナの頼みをきいてやったのに』
心で思っただけで聞こえてしまうというのも厄介なことである。言うつもりのないことなのに。
あの発言の後、セスがしつこく、あの男に何をされたんだ、あの男は悪い奴だ、レナには似合わないと引っ切り無しに訴えてきてうるさかったのだ。そのせいで領主館へと連れてこられるはめになったのかもしれない。
しかし、ルィンの言い分はとても正しいと思うので、レナは素直に謝った。
ごめん、ルィン。助けてもらっておいて文句ばっかり言ってしまった。あの時はほんとに助かったよ。ありがとう。
レナは気分を改めてそうルィンに話しかけた。
『そうか。うむ。そうか。うむ。そうか。うむ』
ルィンがおかしくなっている。どうしたんだろう。
ルィンはレナの視線の先で動いて止まってを繰り返している。レナの発言の何かがルィンを刺激したようで、嬉しいのか照れているのかよくわからないが、とにかく良い方の感情にしみじみと浸っているようである。
そして部屋に置かれた白く美しい女神像の彫刻を真っ赤なルィンが転がっていく。女性の裸体を滑るルィンというのも、何だか艶めかしいような気がする。昨夜みたもののせいかな。
レナが呑気にルィンを見ている、というか他人から見れば女神像に見入っている、とその場の雰囲気は重苦しいものに変わっていた。
すでに食事を終えテーブルの上は食器が片付けられている。
そして、誰もがセスの言葉を待っていた。レナ以外の。
セスはやや固い表情で口を開いた。
「都へ行く」
その言葉に一同は顔を強張らせた。
レナにはわからないが、それには重要な意味が込められているらしい。都とは王都のことなのだろうが、そこへ行くというだけで眉をしかめるとは。
「ゴルタナは一緒に来てほしい。他の者は任務を続行してくれ」
「べネッツも連れていかれては? 走る者が必要になるかもしれません」
セスとゴルタナの間で交わされるやり取り。
レナは自分に意味がわからないのは当然だし、それで構わないと思う。しかし、彼等は騎士である。セスとゴルタナの会話は彼等の仕事に関することなのではないだろうか。彼らの中に加わって食事をしているとはいえ、話を聞いてもいいものなのだろうか。後で余計な事を知りすぎたな、とか言って殺されたら、非常に困る。レナは子供のころに読んだお伽噺の悪役の言葉を思い出していた。
レナを除いて皆真剣に会話に耳を傾けている。そして互いの顔を見合わせ意思の確認をしている。着々と話は進んでいくようだった。
「ではゴルタナとべネッツは一緒にきてほしい。他の者は、そうだな、ヨーゼンの町へゆっくり向かってくれ。そこで落ち合うことにしよう」
頷きあい彼等は立ち上がり、動き始めた。
レナも同様に立ち上がり彼等がドアの方へと向かうのに混ざった。そのレナの行動に違和感はないはずだった。
「レナ。何処へ行くんだい?」
セスの声に誰もがピタリと足を止め、レナを見た。男六人に見下ろされるのは決して気持ち良いものではない。レナは一度立ち止まりはしたが、目線で彼等の表情を確認し再び足を動かした。すぐに首の後ろのマントをぐいっと掴まれ、前に進めなくなる。
レナが振り向くと、無口なロドイルがレナの首根っこを捕まえたまま顎でセスの方を示す。レナが動くのを、なぜか彼等は黙って待っていた。
結局、レナはセスのいる部屋に取り残されることになってしまった。
セスを見るのもしゃくなので、ちろりと横に目をやると、ルィンは女神像が気に入ったのかそれをまだ這いまわっていた。
「レナ、俺は都に行くが、君は彼等とヨーゼンの町へ言ってくれ。ロドイルに面倒を見るよう伝えておく」
セスは真剣な顔でレナに告げた。
セス達が大変な状況であると思われるので、面倒なことは言いたくないのだが、素直に同意したくない。レナは口を開く。
「その、うぅ」
が、しかし、まともな言葉にならず。
そこへすかさずセスが追い打ちをかけるように話を続けた。
「レナ、頼むから。君がロドイル達と一緒に行かないなら、都に連れていくよ?」
レナの両二の腕を掴んで上から訴えかけてくるセスに、レナは首を縮めて溜息をついた。
これといって予定があるわけではないし、しばらく付き合うことにしよう。用事があるというセス達に付き合わされるより、他の一行に混ざる方が抜けられそうだ、とレナは結論を出した。
「うぅーん。しかたないなぁ。じゃあ、ロドイル達と行くよ。その、ヨーゼンって町までだからね?」
「あぁ、それでいいよ。ヨーゼンで待っていておくれ」
そうして、セス達は先に王都へと出発した。
それを見届け、残りも領主館を発った。
レナは不本意ながら、荷馬車の座席で揺られることになったのだった。