テミスの町への道
朝の光に瞼をくすぐられ、レナはゆっくりと眼を覚ました。
そこは見知らぬ天幕の中であり、一気に昨夜の出来事を思い出した。変態男のことも。
すでに外では人々が動きまわっているのが聞こえる。
朝食の準備も整いつつあるようで、ほのかに漂ってくる美味しそうな匂いにレナは空腹を刺激されてしまう。
レナはゆっくりと身体を伸ばし、天幕の外に出ようと出入り口の幕をめくった。
「レナっ、おはよう」
真っ先にレナを見つけたのは、あの変態男だった。しかし、セスを朝陽の中でみると、爽やか満点の笑顔で少々着崩れた様子が愛嬌と親しみやすさを倍増させる貴公子然とした姿に欠点はない。
その爽やかな青年の笑顔の中に、レナはなぜか爽やかではない何かを消すことができなかった。その何かは見つけてはいけないもののような。レナは追及することを避けた。つまり無視である。爽やかさも無視だ。
「今日も可愛いね」
レナはその言葉をさりげなく無視という聞こえなかったふりをして、火の周りへと足を進めた。セスのその言葉を聞き耳を立てていた誰もが聞いていたが、皆レナと同じく沈黙することを選んだ。
誘われたわけでもないのにレナは昨夜と同じ場所に腰かけ、朝食となるだろう火にかけられた大鍋を見つめた。そのレナの隣にはもちろんセスが当然のように腰を降ろす。
火には大きな鍋がかけられており、美味しそうな匂いのもととなっている。昨夜の残りの肉や骨、野菜などを放りこんでいるようで、時折、料理担当の男が鍋の中をかき混ぜていた。
鍋はぐつぐつと煮え、大量の湯気が立ち上っている。その中へ、男は粉のようなものを何種類も放りこんでいく。
どれもレナが見たことのないものだ。味をつけるものといえば塩くらいしか思いつかないのだから、見知っているわけはない。大鍋にあんな少量を加えるだけで何か変わるのだろうかと思いもするが、昨夜の肉の美味しさは格別だった。今思い出しても涎が出そうなくらいに。
この男は料理が上手なんだなと感心しながらその手元を眺めていた。きっと今朝の鍋も食べたことがないような美味しさに違いないとワクワクしながら。
レナは、食べることに興味はあっても、作ることにはまるで興味がないらしい。
「レナはどこへ行くつもりなんだい?」
セスが尋ねた。そう言えば、この男、いつまでついてくるつもりなのだろう。レナはセスに問われて今後のことを考えた。
「テミスまで歩いていくつもりだけど。おじさん達は騎士なんだし、仕事があるんじゃないの?」
「おじさんは、やめようよ」
レナの言葉に、残念そうにセスが訴える。
そうだった、おじさんは嫌がるのだった。少しくらい嫌がらせをしたいが、話が進まないのも困るのでレナは素直に従うことにした。
「じゃあ、セス。セス達は何処へ行くの? 仕事があるでしょう?」
「そうだね。この先の先の町へ行く途中だ。テミスの町まで行くなら、僕の馬に乗せて連れて行ってあげるよ」
「そっか。じゃ、乗せてもらおうかな」
レナがそう答えたのは、町まで行けばついてこないと思ったからである。歩くと言えば、昨日のように延々とついてこられる可能性が非常に高い気がしたのだ。
子供が獣に襲われることを心配してのことなら、町まで行けばその心配はなくなりついてこないだろうと。
そして、聞き耳をたてていた一同はほっと胸を撫でおろした。昨日のような状態は避けられるとわかったのだから一安心である。
それぞれが望まぬことには蓋をして、穏やかな朝食がはじまったのだった。
朝食後、一同はてきぱきと出立の準備に取り掛かった。
レナは水袋に水を補充し鞄を担ぐだけなので、準備に時間はとらない。他の人たちも、レナがそう待つこともなく準備を整えた。働き盛りの男が七人もいるのだから、それほど手間取ることはなかった。
「さっ、レナはこっちだよ」
機嫌のよさげなセスがレナを手招きする。手招きするセスの手綱の先には一行の中で一番立派な黒い馬が立っていた。その馬に限らず一行の連れている馬はどれも農地や一般庶民が使用する馬とは違うのか大きくて足が長い。足が長いということは、背も高い。
大きな馬を間近で見上げ、レナはあんぐりと口をあけた。レナが馬達を遠目で見た時、大きいだろうとは思っていたが、これほど馬の背が高いとは。とてもレナには乗れそうにない。
レナにはまだ筋力が不足している。食糧不足だった村で暮らしていたのだから筋肉も脂肪もついているはずがない。レナはここ数日は満足な食事をしているので、この調子でいけば筋肉もつくのだろうが、まだ先の話になりそうである。
セスに鼻先を向けていた馬は、レナの方へと頭を近付け見下ろした。黒々艶々した瞳に長い睫毛がばっさばっさと動かし、馬がレナを観察しているようだ。
ふんっと馬顔をそらされたレナは、この馬に牽制されているように感じた。もしかして、この馬、雌?
「ハミーナ、この子を町まで乗せていくから、よろしく頼むよ」
馬の毛並みを撫でながらセスは馬に語りかけた。馬はセスに甘えるように鼻をセスの身体に押しつける。
ハミーナ、やはり雌か。きっと、この馬はご主人様が大好きなのに違いない。レナのことは見下しているようである。馬に乗るためには馬に馬鹿にされるわけにはいかないのだが、どうしたものか。と、レナが思案していると、セスがレナの両脇に手を入れるとひょいっと持ちあげ馬の背に乗せた。
自分が手綱を握るわけではないから馬鹿にされても問題ないのか。レナは、レナを乗せて不満だろうハミーナの背で意地悪い笑みを浮かべたのだった。
レナが馬の背を跨ぐように姿勢を変えていると、セスがレナの後ろに乗ってきた。
「両足揃えて腰かけたままでいいんだよ。女の子なんだし」
「そんな乗り方、安定悪すぎて落ちる」
「僕が抱き締めててあげるから大丈夫だよ?」
そう言いながら、セスは姿勢を変えることなくレナを引きよせ、座る位置を調節する。鞍の前部にはレナが座るのに丁度いいよう布があてられており、そこへ落ち着かせてくれたらしい。
「レナはもう少し太らないと。こんなに痩せていては病気になってしまう」
そう言いながら、セスはレナを両腕の中におさめて手綱を握る。
ハミーナが足踏みして一同が馬に乗るのを待つ中、レナはきょろきょろとルィンを探した。馬の背にのっていると視界は広いが、下が見えない。
「何か落とした?」
「いや別に」
「その背中の荷物、前に回してくれないかな」
「あ、わかった」
レナはごそごそと鞄を前へと回す。
その二人のやり取りは、もちろん他者が見て聞いていた。今のやり取りくらいなら平静を保てそうだと思っていることなど、レナが気付くことはない。
『レーーーーナーーーー』
機嫌のいい声をあげ道の前方からルィンが転がってきた。
途端に馬達は落ち着きを失くし始めた。さすがに訓練をうけている騎士の乗る馬だけあって、ルィンが近くに来ても飛び跳ねるようなことはない。ハミーナはルィンに神経を集中させているのが、上に乗っているレナにはよくわかった。ご主人様のためにじっと耐えているらしい。
ルィン、ごめん、ちょっと離れててくれるかな。馬達が怯えているから。
レナは心の中でルィンに話しかける。本当にすごく嫌われているんだなとレナは思った。
『違うぞっ、わしは恐れられているだけだ!』
ごめんごめん、恐れられているだけなんだよね。本当に、ものすごく。
『そういうレナは嫌われているじゃないか。その馬、ものすごく不本意そうな面をしているぞ!』
うっ。レナは反論の言葉に詰まる。
ご主人様が大好きみたいだし雌だし、きっとこの馬はご主人様のセス以外は嫌いだと思う。レナはそう結論付けて、ルィンに話しかけた。
この馬で町まで連れて行ってもらうよ。昼には町につけるかな。
『あの臭い奴だな。今日はまだ投げないのか?』
朝からルィンの機嫌がよかったのは、また投げられると思ってのことだったのか。レナは横にある腕を眺めた。とりあえず、投げつけるほどのことはしそうにないが、用心のため、ルィンに馬にあわせてついてきてくれるよう頼んだ。
『早く何かすればいいのにな』
ルィンの呟きにレナは同意できなかった。とりあえず沈黙しておく。
「さぁ、出発しよう」
セスの一声で一行が道へ並んで歩みを進めた。
先頭の馬が駆けだしたのを合図に、一行の馬がいっせいに走り始めた。
「うわあっ」
その加速の速さに、レナは思わずのけぞってしまった。後ろのセスの胸に背中がぶつかる。
「大丈夫か?」
「あ、うん。ちょっと驚いただけだから」
レナはすぐ身体を起こし体勢を立て直した。それにしてもレナの知っている馬より断然早い。騎乗している様子から、それ程速度を出している風ではないのに、である。あの領主の息子達が乗っていた馬より立派な馬に乗るこの人達は、領主より偉い人達なんだろうか。
一行とは関わりたくないと思って深く考えはしなかったけれど、レナの中に純粋な疑問がわいた。
騎士の格好をしているのだから、偉い騎士の一行なのかもしれない。そう思うレナに、偉い騎士というものの定義があるわけではない。普通の騎士を、あの領主のもとにいた騎士達とするならば、本当に国王の下の騎士団というものに所属しているものを偉い騎士、と思っているだけである。レナのいた村に騎士などいなかったので、爺様、婆様の語りに聞いた話が元でしかない。そのためレナは、その他に剣を腰に下げている人は全て悪人で盗賊だと思っているのだった。
しばらく走った後、いったん休憩をとった。
ルィンは、セスに向けて投げてもらえる機会がなさそうなので、残念そうに距離をおいて転がっている。動きが乱雑でルィンの転がりによって描かれる軌道は、ルィンの不満を大いにあらわしていた。急に草地へと突っ込んだり、回転したりと、その周辺の小動物達にとっては非常に迷惑な事態を引き起こしていた。
レナ達の馬の前を何匹もの耳でか動物が突然横切り、馬達にとっても面倒な道中となってしまっているのだ。
また機会があるよ、ほぼ毎日投げる機会があるんだから。
そうルィンに語りかけると、少しだけ機嫌を直したのかやんわりと動くことにしたようだった。
「レナは、町についたらどうするんだい? 用事が終わったら、僕と来る?」
「いや、町の知り合いのところで働くから」
レナは振り向きざまに即効で否定した。
何を言っているんだ、おじさん! レナはセスを凝視する。
一同誰もが、二人を見ないようにしながらも息を詰めて耳をそばだてていた。
「こんなに小さいのに。昨夜、身内はもういないって言ってただろう? 僕は君一人くらい養えるよ?」
いやいやいやいや。
レナはぶんぶんと首を大きく横に振った。振り続けながら、全否定する。
「大丈夫だから。全然小さくないし、もう働ける歳だから」
「でもね、レナ。世の中には悪い人がいっぱいいるんだ。可愛い女の子を一人置いていくなんて、心配でたまらないよ」
がっしとレナの肩を掴んでセスは顔をしかめてレナに訴えかける。
レナは、セスから目をそらし他の人に助けを求めようとしたが、誰もが眼をそらす。なぜ?
「えっと……」
助けは、ない。レナは必至でセスに反論すべく頭をフル回転させるが、いい案は浮かんでこない。
「いやぁ、でも、働く約束しているから、その、約束は果たさないと、ね?」
レナには、町に知り合いもいなければ、働く約束などあるはずがない。先日はじめて知った町なのだから。しかし、自分でも何を言っているのかよくわからないけれど、レナは何かを言わなければと言葉をなんとか捻りだす。
「そ、それに、セス達のお仕事には、私は足手まといになるしね」
「レナっ」
セスはレナを抱きしめた。
うーっ、これはどういった感情の表現だろうか。レナはセスに抱きつかれながら、唸る。
「僕の足手まといにならないようにとは、なんて健気なんだ」
これは、どうしたものか。これ以上私にはどうにも出来そうにないのだが、レナがそう悩んでいると。
横から年配者が言葉を挟んだ。レナにとってはようやくの助け船である。
「セス様、移動ばかりの我々に同行させるのは、この子には酷でしょう。定住先が決まってから、迎えに来られてはいかがでしょうか」
迎えに?とレナは目を白黒させたが、考えてみればいい案である。
テミスの町に住むつもりのないレナは、セスが来るころにはいない。セスもそのうちレナのことを忘れて迎えに来ることなどないかもしれない。
「そうか。男所帯に同行させるのは可哀想だよな」
セスがレナを見下ろし、レナの頬を撫でた。それはそれは残念そうに。
そのセスの様子にレナは安堵したが、ここで気を緩めるわけにはいかない。しかし、そうだよと笑えばいいのか、そんなの嫌だと顔をしかめて見せればいいのかわからず、レナの顔は中途半端に笑みを浮かべる非常に奇妙な表情となっていた。が、セスは気にならなかったらしい。
「きっと迎えに行くから」
セスはレナのおでこに軽くキスを落とした。顔も身体も硬直したまま、レナは、無言を貫いた。
「さ、参りましょう。日暮れまでにはリットンの町まで行かなければなりません」
年配の男の声に、一同が再び騎乗を開始する。
セスもレナを腕の中から開放し、馬の上へと抱え上げた。
テミスの町へ着くまで、セスはレナへ何度も繰り返し告げた。必ず迎えに行く、と。
その頃にはいないと思うなと口にしない思いを胸に、レナは居たたまれない思いで馬に揺られ続けたのだった。




