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はじまり

 

 もう満足にものを食べることができなくなって幾日になるのか。少女は朦朧としながら雪が多く残る山道を足取り重くさまよっていた。


 彼女は山道を下った先にある小さな貧しい村に住んでいた。その村は高い山に囲まれた窪地にあり雪の季節になると峠の道が雪で埋もれ外界とは連絡が取れなくなってしまう場所にあった。といっても、外界からは忘れられた存在の村であり外界と村を行き来する者は多くはない。この村へ働けなくなった者を口減らしのために連れてくることもあったようだ。

 この村で生まれる者はない。連れられてきた者で体力を回復した者は、稀に険しい峠を越え村を去っていったが、村に残った者は静かに最期を迎えた。

 そんな村に、彼女は子供の頃に母親に連れられてやってきた。視力が悪く耳が聴こえないせいだろうと育ての婆が彼女に語った。彼女の母親は、雪に閉ざされる直前の厳しい峠越えをしたため村へ着いてすぐに力尽きたのだという。

 その後、彼女は幾人もの育ての爺婆達に育てられ、逝くのを見送り過ごしていた。今年の秋は実りが少なく、年老いた者ばかりのため体力がない者から次々と命を落としていった。とうとう数日前に最後の一人の婆様が亡くなり、村には彼女が一人残された。少女のためにと皆が命を縮めてまでも食べずに残したわずかの木の実を彼女に託して。命のあるうちにそれを持って峠を越えるように、と。

 最後の一人を見送った少女は、託された一握りの木の実を胸に携えて村を後にした。なんとか峠に向かって歩いているものの山道は険しく、満足に食べていない彼女の体力はすぐに使い果たされた。雪が溶ける時期ではあったが山の冷え込みは厳しい。見えにくい視力のせいで彼女は何度谷に落下しそうになったかしれない。あちこち擦り傷と打撲を量産するばかりで、彼女にはあとどれ程歩けば峠にたどり着くのかまるで見当もつかなかった。

 彼女が気を緩め踏み出した一歩が斜めに滑り、突然身体のバランスを失った。態勢を立て直せず傾いでいく少女は頭を腕で庇うようにして身体を丸め、木の根元や石にぶつかりながら斜面を転がり落ちた。致命的な傷は負わずにすんだが、峠への道から大きく外れてしまい道を見失ってしまった。

 そうして、今、彼女は寒くて白灰色な景色の広がる山の中を彷徨っているのだった。携えていた木の実はとうに尽き、あちこちに小さく生えた草を食べてはみたが、まるで腹の足しにはならなかった。

 彼女は岩に腰を下ろし、彼女にはぼんやりと灰色に霞む地面を見ながら心の中でつぶやいた。

 頑張ったけど、もう無理みたい。ごめん、みんな。もうすぐ会えそう。でも、それもいいかもしれない。


 そう思っている彼女の視界を真っ赤な丸い物が横切っていった。力尽きていたのが嘘のような早さで、彼女はそれに手をのばす。手に握り込めるほどのそれは硬かったけれど、躊躇せず口に放りこんだ。少しでも遅くなれば消えてしまうとばかりに咀嚼もせず飲み込んでしまう。喉を通り、それは彼女のお腹の中へと収まった。久しぶりに確かな大きさの固形物を口にした彼女はいたく満足気な微笑みを浮かべた。


『何で口に入れたんだ? 早く出せよ。動けないじゃないか』


 シンと静まり返った場所で彼女の耳に聞こえるはずのない声が辺りに響いた。何? 声? 彼女はあたりを見回してみるけれど、雪であろうと思われる白い塊や所々に見える葉のない背の低い木々があるばかりで、動くものはない。


『出せったら出せ!』


 繰り返し響く声が、ボリュームをあげ怒鳴っている。誰かが彼女に問いかけているのか、出せと言われても何のことかさっぱりわからない彼女は首を捻るばかりだ。だが、彼女は久々に聞くということに感動を覚えていた。こんな時だというのに、誰かが話をしている。声が聞こえるのはこんな風だったんだ、聞こえることが楽しいという様子で彼女は聴こえないはずの耳をそばだてる。


『食べてもお前の腹の足しにはならないんだ。早く出せって言ってるだろっ!』


 声は私に話しかけているのだろうか、と少女はキョロキョロとあたりを見回した。


『お前に話してんだよっ。どこ見たって見えるわけないだろ、お前の腹ん中にいるんだからなっ』


 そういえば赤い実を食べたせいか飢餓感が消えている。草より実の方が満足度が大きいようだった。あの赤い実がしゃべっているらしい。いよいよお迎えが近いようだ、と少女はお腹のあたりを手で撫でながら声の主にこう答えた。


「木の実さん、ごめん。大人しく私に吸収されてくれるかな」

『だから、お前には吸収できないんだよ。話しを聞け!』

「吸収できないのかぁ。残念」


 少女は元気な声と会話を楽しんでいた。なんだか満腹になってきた気がするし、身体も寒くないし傷口も痛くない、そのうち空も飛べるようになるかもしれない。意味不明なことをつらつらと考えながら、彼女は瞳を閉じた。


『残念って、寝るなっ、寝るんじゃないっ。吐き出せ! さもないと、お前の腹の中で大きくなってやるぞ!』

「あぁ、お腹がもっと満腹になるの? 嬉しいな」

『そういう意味じゃない! お前の腹が裂けるんだぞっ』

「お腹がいっぱいすぎて裂けるの? パンパンな満腹ってどんなのかなぁ」

『……わかった。吐き出したら、腹一杯食わせてやる。だから、出せ』


 赤い実の声は怒鳴るのをやめ、彼女へ言い聞かせるようにゆっくりと訴えた。


「ありがと。でも、いいの。もうすぐお迎えがくるから、それまで今のままお腹空いてない状態でいさせて」


 少女は膝に頬を乗せ、小さな声で言葉を返した。そして、最後にこんな風に誰かと話しが出来るなんてなんだかいい気分、と彼女は口元に笑みを刻み、そう思っていた。


『ちっがーう! お前、声が聞こえてるくせに話しをぜんっぜん聞かないのは何故なんだーっ。とにかく、出せ! 頼むから、ここから出してくれーっ』


 少女はあまりに悲壮感を漂わせながら必死に訴える声がだんだん可哀想になってきた。そんなに出たいのか。この満足感を手放すのはかなり残念なのだけど、確かに狭いところに閉じ込められているというのも気の毒ではある。

 少女はのそのそと抱えていた膝から手を離し四つん這いになるような態勢をとった。最後の最後まで惜しんだけど、希望通りに吐き出すことにした。それは簡単に彼女の喉から転がり出た。ぽとりと地面に落ちた赤い実は、そのまま雪溜まりに向って勢いよく転がり登っていき雪の中にはまって消えていった。雪溜まりに残された小さな穴が赤い実の入った跡なのだろうと少女は四つん這いの態勢のまま眺めていた。

 やがて、彼女は、その視界がやけに鮮明であることに気付いた。白い雪に残された穴は小さく、普段の彼女であればかなり近くに行かなければ見えるはずがない。周囲に視線をやると、そこかしこで溶けた雪のため土が濡れているのが見える。まだら灰茶色だった下方の景色に様々な色がくっきりとその色の境界を引いており、個別な存在を主張していた。膝立ちになり顔を上げると、葉のない木々の立ち並ぶ間から、眼下を覆う一面の雲が見えた。雲を見下ろすその風景に、少女は神の領域に入り込んでしまったかのように思う。丸く円を描くように連なる山の峰に囲まれた場所は、まるで雲に蓋をされているようだ。そして、あの雲の蓋の下に村がある。

 なんとまぁ、小さい世界に住んでいたんだろう。あの連なる山々の向こうにも、そして、背後の山を越えたところにも世界がある。峠を越えれば、そこに。少女の胸はワクワクむずむずしてきた。今まで感じたことのない衝動が湧き上がり膨れ上がっていく。止められない思いがそこにあった。

 見たい。行ってみたい。あの向こうにある世界へ。


 少女は立ちあがり手を握りしめた。赤い実のおかげか空腹感は綺麗に消え去り、力尽きていたのが嘘のように身体が軽い。それどころかどんどん力がみなぎってくるような気さえする。出したけれど、赤い実はかなり栄養価の高い木の実だったのかもしれない。少女は峠を目指すべく山を登りはじめた。


『おーい。腹一杯食わせてやるぞぉ』


 歩きだした少女に、再び、声がかけられた。さっきまで怒鳴りまくっていた声が機嫌をなおしたのか明るい口調になっている。


「もういいよ。なんだか、さっきので十分栄養もらったみたいだから」


 少女は足を止めることなく答えた。本当に感謝している。こんなに楽に動けるなんて。楽しそうに彼女は急ででこぼこした斜面に足をかけては木の枝を掴んで身体を持ち上げることを繰り返し、どんどん山を登っていった。


『まあ、そう言うな。さあ、腹一杯食え』


 その言葉が終わると同時に、少女は危険を感じ、はっと頭や顔を守るように腕をかざした。

 バラバラッ、バラッ。

 ババババババババババーッ。

 あらゆる方向から少女を目掛けて木の実が山のように降り注ぎはじめた。木の実というのはたいがい固いもの。正直、かなり痛い。少女は顔をしかめながら、木の実の嵐が止むのを待った。しかし、次第に彼女の足先が隠れるほど降り積もってもなお止む気配は全くない。


「もう十分だよ。これじゃあ多すぎて食べきれない」


 少女は盛大な木の実の降り注ぐ音に負けないよう大声をあげてそう言った。ほとんど掻き消されていたが、その言葉が聞き届けられたのかようやく木の実が降り止んだ。嵐のような音が止み、木の枝にひっかかった木の実があちこちでガラッ、バラッ、ボトッと小さな音を鳴らすだけになった。静けさが戻り、ここではじめて少女は自分の視覚だけでなく聴覚も変わってたことに気がついた。そして、赤い実の声は耳を通して聞いているのではなく、頭の中に響いているのだということも。

 木の実で埋まった足元に、コロコロと赤い実が転がってきた。斜面だというのに足先が埋まるほどに木の実が山と積もっている状況は非常におかしい。自然の摂理に反した光景ではないかと少女は思った。そして、斜面を転がり登っている赤い実の動きは言わずもがなだ。

 足元をコロコロ動いている赤い実をよく見ると、手に握りしめられるほどの大きさで見事に丸い。テカッと光を反射するその姿は実というより真っ赤な石であった。少女はそれをまじまじと見つめた。


『どうだ。わしは約束を守るのだ』


 心なしか威張るような発言とともに、赤いそれは少女の周りをぐるぐると回りはじめた。少女はその場にしゃがみ込み、積まれた木の実の一つを手に取ってみる。それは今年村でほとんど取ることが出来なかった栄養価の高い実だった。少女は石を拾い、石の上に置いた木の実に石を振りおろし殻を割る。中から茶色い実の部分を取り出し口に入れた。やや苦みはあるが美味しい。固いのでよく噛んで食べる。彼女は殻を割っては食べるのを何度も繰り返した。お腹いっぱいになると、ひたすら殻を割って実を取り出し袋に詰めていった。村を出るときには、小さな干し実が数個入っていただけだったのに、腰に提げた袋は今やパンパンに膨れていた。しかし、木の実は彼女の周辺にまだ山と積まれている。


「ありがとう。これだけで十分だから、他の実は別の動物達に分けてあげて。今年は実りが少なかったから、動物達もお腹を空かせているはず」


 少女は赤い石を見下ろしそう声をかけると、再び歩きはじめた。すると、直後に背後でザアァザアァという木の実が擦れる音が聞こえはじめた。けれど少女は振り向きもせず歩いた。

 その少女の足元を、赤い石が転がりついてくる。登りも下りも関係なく転がっているのはやはり不思議な光景だと少女は思った。手があるわけでも足があるわけでもないのに丸い石は凹凸のある地面を滑るように転がっていく。


「何処へいくの?」


 やや斜面の角度が緩やかになり呼吸にも余裕がでてきたところで、少女は歩きながら赤い石に尋ねてみた。


『何処にも行かない』


 赤い石から素っ気ない答えが返されたが、その言葉の割に赤い石の動きは軽く、その声も冷淡なわけではない。


「私は峠を越えて行くよ」


 少女は赤い石に告げた。思いを言葉にすることで、未来を確定しようとするかのように。


『そうなのか』


 問いかけるわけではないがそれに近いような声の調子が、何だかおかしい。少し前までのはっきりした音で発していないのだ。何を考えているのか。少女は隠し事をしようとしてしきれない人のようだと思いながら挙動不審の石を見守った。

 赤い石はふらふらと少女のやや前や横をジグザグ無秩序に転がっている。少女が笑っているのを不満に思ったのか石は彼女をとがめた。


『じろじろ見るな』


 そう言いながらも遠くへ行こうとはしない赤い石に、少女は言われた通り視線をそらせた。

 ふと前方を見上げると、山の頂が近くにそびえていた。尖った山頂はかなり遠いが、山を越える峠はそこまで登る必要はない。目の前には大きな岩が立ちはだかっていた。その岩には狭い隙間のような縦に細い割れ目があり、奥へとのびている。少女が見失っていた峠への道にようやく戻ることができたのだった。少女は岩の隙間へと入って行った。隙間といっても彼女が両手をのばしても届くような狭い幅ではない。壁は奥へ進むにつれ高くなり、空が切り取ったように小さく細長くしか見えない。上り坂であるのに、段々深く沈んでいくような錯覚にとらわれそうになる。赤い石が自在に壁を横に上や下へと転がっているから、余計にそう思うのだろう。

 そんな道を通りながら少女は道の斜度が緩やかになり峠がもうすぐ近いことを感じた。

 この道の先にはどんな世界があるのだろう。少女はワクワクするとともに恐ろしくもあった。爺様や婆様に少しだけ聞いた物語の世界。自分とは遠くかけ離れた世界だと思っていたところへ向かって歩いているのだ。

 軽快に転がっている赤い石が一緒にいる。それは小さな存在だけど、そばにあることが心強く頼もしく思えた。一人じゃないんだ、と。


「みんな、行ってくるよ」


 少女は少しだけ振り返った。岩壁に阻まれ空と同じように縦に切り取られたようにしか見えない村を覆う白い雲にむかって彼女はつぶやいた。

 そして、再び歩きはじめた。赤い石は彼女が追いつくのを待ち、少女に合わせて転がっていく。


 少女と小さな石は岩の隙間に消えていった。


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