それぞれのケモノ
真っ青な天鵞絨の絨毯の敷かれた廊下を延々と数十分、さてどれほど歩いたことか。どこまで行っても果てはなく、気付けば知らない幻の中に迷い込んでいた。
焦燥感を胸中にしまい込み、ブレットは無表情に舌打った。
「あのサイコパスか。こんな馬鹿げた迷路を創るのはあのイカれ変態野郎しか思いつかん」
「だろうねぇ。カトレアにはそういうの効かないから居てほしかったんだけど……多分もう、先にシェリーに会ってるんじゃないかな」
猫は迷っていようともあくまで愉しげに。見ていて不愉快なほど、尾を振ってゆらゆらと彼の後を付いてきていた。
扉も何もないただ延々と続く曲がりくねった道の中、ブレットはふと立ち止まって銃を引き抜いた。
「お前、準備は整ってるって言ったな。今すぐに始めろ」
「でもまだ会ってない。それでもいいって言うの?」
「監禁された馬鹿を救えと言ったのはあの鳩だ。叶えないとお前が食われるんだがな」
怖い怖いとおどけて笑って見せ、猫はその場にぺたんと座り込んだ。
立ち止まったまま思考を巡らせ、ブレットはふと彼に背を向けたまま尋ねた。
「……何故時間を稼ぐ必要がある。何かあるのなら俺をどうにかすればいい。あいつらは何を考えている?」
「俺にゃ解らないや。何かあるとするなら、聞かせたい話聞きたい話がある--ってことくらいかな」
それも憶測にすぎないよと怪しげな笑みを浮かべて答える。それで明確に、彼はこのふざけた言い分の真意を悟った。
無限ループの迷宮を眺め、ブレットはようやく静かに微笑を浮かべた。
「--あの女の考えることは昔から変わらんな。くだらない話をあの子に聞かせるつもりか」
「くだらない話」どうでもよさげに吐かれた言葉に猫の耳がぴくりと反応を示した。
「あァ、くだらない。俺の過去など聞いて、あの子がどう思うのかは知らんが--つまらない話だな」
*
「あなた達、用意は整っていて?」
空間を突き刺し制したのは、冷たい褐色の言葉だった。
逆叉の用意した果物を食べながら談笑していた面々は言葉を止めて彼女の方を見やった。
「……なんぞ。この人間の坊はさよ、あん様の考げぁるほど腐った子じゃなけれんしぇ」
「おまえの意見なんて聞いてないわよ、腐れ科学者」ツカツカと歩み寄りながら、シェリーはソファに座ったまま茫然としている巴椰を睨んだ。
「シェリー、やめて。わっちの友人やの」
「はん、根暗な鯱まで誑し込んだの?本当天性の誑し魔なのね、あなた」
何やら異常に苛ついているが大丈夫なのだろうか。何かまずいことでもしでかしたか。
ぽかんとしたままの巴椰の頬に、彼女の赤い爪が立った。近いその眼はたぎる濃褐色に染まっていた。
「たった数時間で私の部下を手懐けたのは褒めて上げるけれど、度が過ぎているわよ」
「、はぁ?手懐けたって……二人とはその、話してただけなんですが」
「あらそう。警戒心の強いことには有名なの。なのに腑抜けにされちゃ困るのよ」
手を離して向かいのソファにどかっと座り込み、シェリーは眼で二人に合図を送った。
仕方なく席を離れ、二人はシェリーの目に付かないよう部屋の奥へと戻っていってしまった。
それを見届けると、唐突にシェリーは口火を切った。
「あなたには、あのヒトを諦めてもらいたいの。私は妻なのよ?妾なんかにあげられるわけがないじゃない」
「……え?誰のことですか」
「とぼけないで。ブレットに決まっているじゃない」
「…………え?」
このヒトは一体何を言っている。自分とあの狼野郎がいつから恋仲になったんだ。誤解にも程があるんじゃなかろうか。
何度も「え?」と聞き直し、巴椰は眼をぱちくりとさせながら彼女を見つめていた。
「あの、誤解があるようで。俺、えっと、男色の気はないかなー……」
「そんな訳ないでしょう。あのヒトが誰かに自分の物を渡すなんてあり得ない」きっと、また目つきが鋭くなる。「そのネクタイは彼の物のはずよ。あなたに渡すと言うことはそれだけあなたを信用して愛しているということ」
「考えすぎですってば……俺はあくまで男女の恋がいいんです。あれは男で俺も男です、だからあり得ない」
大体それなら前妻の元へつれてくるだろうか。その時点で随分じゃないか、そこまで破綻はしていないことを祈りたい。
進まない話にイライラは更に募り、シェリーは巴椰の胸ぐらを掴んで引き上げた。
「--だったら、諦めてくれるわよね?私の物、誰にも渡さない。その答えが聞きたいの」
「ッ、勿論。要らないですからいい加減帰してください」
眼が、狂いの眼だ。カトレアが本を取り返しに来たときにしていた眼と同じ、イカれの瞳--
それを聞いて不気味なほどににっこりと笑み、シェリーは彼を解放した。あの時のように高く吠えて。
「序でに教えて上げるわ。あのヒトの過去、何をしていたか、何があったか--何にも知らないでしょう」
「ブレットの過去?」考えるも何も出てこず、悔しくも彼女の言葉に巴椰は頷いていた。
赤い弧を描いて口元を歪め、シェリーは愛する狼の話を恍惚として語り始めた。
*
ワオアオ、ガルルルル、ワァオアァァア。ケモノはケモノでも吠えない自分はこの檻の中では猛り狂っていた。疲れ果てて苦しみにも絶頂、精神は病まれ縛り付けられた鎖はまた更に重みを増していた。
座り込んで吠える気も失せ、光の射さない牢の中。暗いそれに、何かが眼前を転がった。
自分の牢の前で止まったそれに無意識に手は伸ばされ、そのままその赤を掴んでいた。
小振りな、姫林檎であろうか。見覚えのある艶やかな形と甘酸っぱい香り。鼻へと押しつけ、何度も何度もその香りを吸った。
夢中でかじりつき、口腔内に爽やかな果汁が満ちる。体力はたった数口で回復し、体の隅々までその活力は満ち満ちた。
ワァオアァァアオオォォォと、遠吠えが響く。続けざまに、鎖はぶち切れ、鉄も鉛も曲がって朽ち果てた。
翠色の瞳を爛々と輝かせ、『黒兎』は鎖の切れた腕で檻の一本を握り潰した。真っ赤な舌を垂らし背を曲げ、怪力を奮うその姿はまごう事無きケモノであった。




