最悪な追いかけっこ
男を追って牢屋を出たその先はやんわりと眩しく、巴椰は思わず目を細めていた。
左右に果てなく広がる長い廊下は、天井も壁も何もかもが白い色をしていた。先の見えないその廊下の壁には大小様々な額縁が等間隔に並べられていた。
「早く来い」と、じっくり見る間もなく不機嫌男が巴椰を呼んだ。
少し先を歩く細身の男。腰のあたりまで長く髪が伸び、それも群青色。到底考えられない色と長さだが白い空間では一際目を引いていた。
膝丈の黒い厚手のコートを翻し、眉間に皺を寄せ彼は振り向いた。
「バカにでもしている顔だな。何だ」
「や、格好・・・・・・暑そう」
空気調整が行き届いてはいるが一応まだ夏だ。端から見ているとどうにも暑苦しい。
とりあえず歩き出すと、男は嫌悪感たっぷりに「くだらん」と吐いた。
「寒いのさ。ここは特に」
「半袖の奴前にして言うかね、ンなこと」
「寒い。春でも夏でも」
並ぶとよくその顔も見え、男は随分と美しいようだった。眉間に皺を寄せていることすら彼には似合っていた。
ふと切れ長のタイガーアイを巴椰に向け、男は言った。
「コールだ、そう呼べ」
「え?あぁ、うん・・・・・・了解」
不思議な名前だ。確かに日本人には見えないが。
こつこつと革靴の足音をたて、コールはふと一つの扉の前で止まった。
「今日は随分と早いな。おまえのせいか?」
「へ?何が?」
「別に大したことじゃない。きっと違う」
逃げ出せる雰囲気ではないが、チャンスは大事だ。今頃誰かが通報してくれているといいのだが。
キィと軋んだ音を立て、扉は招くように開かれた。
--が、中を見るよりも早く巴椰は誰かの手によってその場にねじ伏せられていた。
もがくも背に乗った人物はビクともせず、からからと爽やかに笑って見せた。
「動かないでねぇ。コールったら甘いんだから」
「あまり乱暴に扱うなよ。客人だ」
これが客人の扱い方か。床にねじ伏せ愉快とは無礼なんてレベルじゃない。
「コールの心に甘えるなんて俺に喧嘩売ってるんだろうね。ズタズタにしたっていいよね」
「あァ?俺が連れてきたんだろうが。俺の物だろ」
すぐ近くにいる、この口の悪さは冴だ。何の恨みがあって誘拐されたか、思い出すと腹が立つ。
手は後ろ手に押さえられ、頭も床に押さえつけられている。その恨めしい顔を見たくても見られない。
「俺が連れてきたんだからアソぶのは俺が初め。んで、飽きたら食う」
「--へぇ。お前が連れてきたのか、こいつ」
二人目の聞き慣れない声。声音こそ一番優しいが、途方もなく威圧感に満ちた声。服従させることに慣れた声だ。
甘やかなバニラの香りを纏い、その男は巴椰の目の前に立った。
「それで、ヒトか。珍しいな、脆くない人間なんて」
「危険と言うから閉じこめたんだがな。ヒトなら無害だろう」
「武器すらないからなー、こいつ。危険ならねじ伏せるまで」
もうねじ伏せられてるんだぜアホの子冴君。いい加減腕がしびれてまずい。
話して油断したのか力が緩み、その瞬間巴椰は跳ね起きてドアに体当たりをかました。
焦点が定まらないまま、捨て台詞がその口を突く。
「っ、犯罪だかんな!」
「おー。俺としたことが逃げられた」
わざとらしく笑ったその声も耳に入らず、巴椰は廊下を全速力で駆け始めた。
捨て台詞は噛み、体当たりのせいでぶつけた鼻も痛い。気にしている暇なんてないのだが。
追ってくる複数の気配を感じ、巴椰はさらに速度を上げた。
「好き好んで苦労はしたくないな。逃げるというなら追ってやるのが礼儀だが」
「そっ、そんな礼儀要るわけないだろ!?」
マズい、本当にマズい。曲がり角でも何でもドアと絵画が単調に無数にあるだけで撒けそうにない。ループでもしているようだ。
いくつめかの曲がり角を曲がったその時、気配を全くさせずに、何かが巴椰の後ろ襟を背後から強く掴んだ。
ぐぇっと声を漏らし、そのまま巴椰はその場で止まってしまっていた。
「廊下で追いかけっこなんてしたらぶつかるでしょうが。あっぶないなぁ」
ぶつかるって何だ。この状況でそんなこと気にしてる方が危ないだろう。
せき込みながらスタミナ切れでその場にへたり込み、巴椰は壁に片手をついて立ち上がろうと試みた。
--ガシャンと、嫌な音が自分を向くまでは。
「捕まえた。おまえら邪魔すんなよ、俺の獲物だぞ」
「この子が獲物?へぇ、おもしろそうな選択だねぇ」
「先にてめぇ片付けんぞバカネコ。トカゲだってネコは嫌いだろ」
「あぁ、猫はな。だが、無駄な血は好まん」
首を掴んだのは猫と言うらしい。だが、助けてくれたわけではないらしい。
顔を上げるわけにもいかず、ちらと見上げたその場には斧に剣に鎌にと刃物が自分を狙っていた。
ふっと、先刻の爽やか男が剣を退いた。
「ね、コール。飛び入り参加で殺しちゃダメ?」
「まだいたのか。帰れ、お前がいるとややこしい」
「えー、ダメなんだ?でも、猫が静かなら殺してもいいんでしょ?」
凄まじく不穏なことを言っている。ぞわりと寒気がし、声も出ない。
両肩を抱いて壁にぴったりとくっ付いてただただ俯き、巴椰は床の白い色に視線を落としていた。
ふっと、あの威圧感ある声が同時に優しさも消して言った。
「もういい、捕まえた。これ以上の抵抗も望めないらしい」
「つっまんね。せっかく捕まえたってのに」
あくまで冴は不満らしかったが、取り敢えず全員が武器を下ろした。それでも顔を上げられてはいなかったが。
屈んで膝を付き、未だ怯える巴椰にすっと手が伸びた。
「顔を上げてくれないか。綺麗な顔が台無しだ」
「っ、何、触んなよ・・・・・・ッ!殺す気だろ!?」
「態度次第。面白ければ殺さない」
また、優しい声に戻った。子供を宥めるような、そんな声。
甘ったるいバニラの香りに、そっと巴椰は顔を上げた。
自分を観察するかのようにじっと見つめる、紅い眼の男。髪は月のような銀青で白銀。やはりこれも、現実離れしていた。幻想的なまでに、麗人だった。
思わず惚けてその姿に見惚れていると、男は振り返って言った。
「コールと冴は解るな?で、猫は」
「今消えた。妹たちと恒例の茶会だとさ」
「またか。まぁ、どうでもいいが・・・・・・だったら、それだけでも知っておけ」
顎で指したのは、あの自分を押さえつけていた剣持の男だった。
少しウェーブのかかった、ヒマワリかタンポポのような陽気な花の色の髪。碧い、宝石色の瞳。愛想のいい、青年らしい爽やかな笑顔。まさに金髪碧眼の王子様がラフで涼しげな格好でそこに立っていた。
べったりとコールにくっついたまま、彼は剣を鞘に納めた。
「俺はカトレア=ラークスパー。よろしくね、人間君」
「いや、あの・・・・・・巴椰って呼んでくれた方がありがたいんだけど」
この人は随分恐ろしいオーラを纏っているが、何だ。一体何を考えている。姿形は良いが中身が既に恐ろしい。
名乗らせておいて自分は名乗らず、男はぐしゃぐしゃと眠そうに頭を掻いた。
「これだけか。あぁ、鳩のお嬢がいたな」
「どうせ植物園だろう。それよりも、こちらの処遇が先決だ」
コールの声で一斉に視線が自分を向いた。整った姿形の麗人たちに見つめられるのはどうにもむず痒い。
そっと巴椰の手を取り、男がにこりと不穏げに笑んだ。
「--充分、面白い。冴、部屋を一つ用意しろ」
「っ、ちょっ、待て!俺、帰らないと明日から学校!」
誘拐犯たちに掛け合えば解放してくれる。そう思った時期が確かにあったチクショウめ。
「甘いな」と甘い香りの男に嘲笑われ、巴椰は呆然とへたり込んだままだった。
「帰られない、帰さない。お前は今日から、ここに住むのさ」