狂いのなんたるか
--ねぇ、ちょっと話があるんだけどさ。
--俺、好きなんだ。お前のこと、ずっと。
--ごめん、でも諦めないから。
何度も何度も繰り返し、自分は何度拒んで来たろうか。愛するヒトには拒まれて、体の反応しないそれには好かれて拒むことしかできなくなって。いつから対等な友人関係を築くことができなくなったのだ。
貰ったメールに手紙の数々、思い返せば自分に想いを寄せてくれたのは皆大切な友人だった。なのに豹変して、崩れた。崩したくなんて無かったもの全て、一言で。
男など、同性など、好きになるのは何故なのだ。自分はただただプレーンでノーマルな恋がしたいのに、それだけなのに、どうして!
「……目、醒めた?」
白い天井を背景に、漆黒の髪を垂らした少女が自分を見下ろしていた。その目は冷たく、暗く、何の色もさせずに。
ゆっくりと何度か瞬きを繰り返し、巴椰は半身を起こして頭を振った。
「、あれ、シェリーさんは……ブレットは……」
「シェリーはまだ手当。狼はこの城内を巡って、ここを探してる」
物静かにぽそぽそと言葉を紡ぎ、彼女は巴椰へ一杯の水を差しだした。
おかっぱに切り揃えられた黒髪、深い黒真珠の瞳。モノクロームに消えてしまいそうな陶器の肌、華奢な躯。紅を差した唇が妙に大人びた、少女だった。
「『鯱』、逆叉。あなたはヒト?」
「そうだけど……逆叉さん?」何と呼んでいいのか解らず、思わず声が上擦った。「ここ、どこなの」
「まだ城の中。わっちがあなたを捕獲して、シェリーがあなたを気絶させた」
あの痛烈な蹴りはやはりシェリーだったか。あんなに思い切り蹴らなくても良いと思うのだが、まさか変な恨みでも買っただろうか。
つまり二重誘拐かと自身呆れ、巴椰は逆叉に苦笑した。
「ブレットをおびき寄せる人質ってとこ?生憎、あれが来るかどうかは俺にも解らないけど」
「来るぜ、違いなんしょ」
聞き慣れない男の声が、気配なく突然巴椰の隣に腰掛けた。
真っ白で殺風景、調度品もシンプルに揃えられた凡そ客室という中で、その男は一際目立ち、奇妙であった。
ソファのスプリングが軋み、くっへっへと笑い声が漏れる。
「あれは見た限り痴情に片足つっこんどらし。うちの女狼サマも他人事ぁねらけど」
「え、え、今なんて言った?」所々方言とも言えない言葉が混じった話し方に、困惑が表情に出ていた。
「あんたヒトなんしょ。俺ぁゲナ•ゼナ。あん様と同じ人間様さね」
派手で奇抜で目の痛くなるような、蛍光ピンクと黄緑色の髪。それがオールバックにされ、奇っ怪な性格とおかしくマッチしていた。黒のタイトなライダースーツの上から白衣を羽織っているのはまたやはりおかしかった。
黒縁の眼鏡を上げ、ゲナは逆叉に向いて笑った。
「迷宮で迷いんせ。ハイネコってのぁ仲間なんか敵なんか解らんね」
「快楽の追求に余念無。中立の存在無き存在」
「違ぇねぇあ」無機質に返された答えにげらげらと笑いが起こる。「あれの愛する『psychoう』なヒトの子を寄越したんなら、一概に敵なんし言えんしぇ」
シェリーの友人とやらは、とても奇妙でまた我が強い。これこそ一概に悪人とは言えない、あそこの空間のやつらと類似した部分がある。多分、それがいけない。
巴椰の肩を抱き、ゲナは人懐っこく話しかけ始めた。転校生を歓迎する在校生のように気安く。
「確か、楼城巴椰。なぁ巴椰、何の夢見よんしょ?先刻うなされてたやし」
「いや、別にそんな……大したことじゃなかったし、まず覚えてないから。それに夢だし」
「逆叉も俺も、狼とネコが迷路突破するまで暇なんしぇ。しばらくの間、『psychoう』に愉しいハナシをしやしゃんぜ」
何故初対面の人間にこんなに愛想良くできるのだろうか。自分には遠く、出来るはずもないことを目の前で直にやってのける。さらわれたことも忘れてしまう、これはやはりあれと同じではないか。
絆されるなんて馬鹿らしいと解っているものの、抗えず、巴椰は仕方なくその口を切った。
「……誘拐される前の話。親友が、告白してきたんだ」
*
ちゃしちゃしと、舐める舐める。赤く流れ出す愛情を、生きていた証拠を、愛してくれたその色を。
銃弾の掠めた腕は傷を負い、手当をしていないため血は未だ止まっていなかった。痛みは麻痺し、何も感じなかったが。
誰もいない部屋の中、ぬるりと影がその身を現した。
「手負いの狼か、つまらない。血の匂いがしたから来てみれば、そんな傷」
「煩い影だこと。しつこいと嫌われるわよ、王子様」
嫌みたらしく言葉は交差し互いへと突き刺さっていた。両方表情は違えども、心中は似たことを考えて。
舐めるのを止めてカトレアの方を向き、シェリーは愛想笑いすら浮かべず舌打った。
「なぁに、あのトカゲにはまだ何もしてないわよ。触るのすら汚らわしい」
「君よりかはマシだけどね。穢らわしいのは愛せるから良いけど、執着で汚れたのは要らない」
「相変わらず盲唖だこと。あれの前では口も利けず目も見えないくせに」
面倒、とまた傷口に舌を這わせ、シェリーは彼から目を背けた。見ているのもうざったいとでも言うかのように。
にこりといつも通りの笑みを浮かべたまま、カトレアは剣の鞘を少し撫でた。
「俺にとってはどうでもいい。けどね、コールに何かしたら裂くくらいじゃ済まないよ。女でも身ぐるみ剥いで恥辱の果てに殺してやる」
「かつてあのトカゲがされたみたいに?」くふふと、可笑しくシェリーは笑った。「傷だらけのローズにされて、蹂躙、犯され狂わされるってことかしらん?」
精神を逆撫でし続け、シェリーは溢れ出る紅で口元を染めて高く吠えるように笑った。嘲笑っているそれは確信めいていた。
鞘ごと瞬時に振り上げて彼女の喉に突き付け、カトレアはまだ笑みを崩さなかった。
「--お前を抱く価値があるとでも?傷物の売女の分際で」
「、売女とは失礼ね。それを言うならトカゲに言えばいいじゃないの」
「仏の顔の回数を知らないとは言わせないよ」ぐっと、その切っ先が喉を圧迫する。「次言ったら、この鞘ごとでもお前の骨を断つ」
狂気にその目は狂っていた。たった少しのバカにする言葉でも、相手を殺しかねないほどに。ずっと影の王子は、狂いに狂っていたのだ。
解放されて何度も咳込み、シェリーは化粧台に突っ伏してくつくつと声を潜めて笑っていた。
「私は、ブレットさえいれば、それで構わない。あんな妾ごときに渡さない、だって私の物なんですもの。誰にだってあのヒトの愛情は向かない、私にだけ注いでくれる、私にだけあの優しい声で、笑顔でッ--」
「……あの狼は、人間クンにぞっこんだよ。多分もう、誰もあの間に入る事なんてできないくらいに」
「ワタシはあのヒトの妻なのよ、だからあんな妾ごときには、大丈夫、誰も愛したりしないから。私だけ、私にだけ、あのヒトはあのヒトは、抱いてくれるのも愛してくれるのも私だけだけだけだけだけ」
机上に真っ赤な液体を垂らし、シェリーは狂気を孕んでけらけらと笑い続けた。ただ一つの虚像のみをその目に映して。
関わるのも面倒だと、カトレアはまた影へとその片足を沈め始めていた。やはりシェリーは目に映らずに。
キハァとため息を漏らしてゆらゆらと立ち上がり、シェリーはカトレアを見やった。
「……あのヒトは、渡さない」
「ご勝手に。俺の知った事じゃない。牽制を掛けに来たのと加勢だから、もう大して用はないよ」
狂いに関わられるのが嫌いな狂いは、そのままずぶずぶと闇の中へその身を消した。女狼には目もくれず、どうでもよさげに。
一人残ってまたぐでんと椅子に腰掛け、シェリーはあの笑いを引きずったまままた傷口を舐め始めた。