ばとるはとがる
不機嫌わさわさ、狼のそれは本当面倒くさい。触れたくもないその姿は近づく気も起きず、しばらく放置して無視するのが一番だと思った。これが自分の防衛本能だ。
そうして三日、音沙汰なし。訪ねてくる音もあるが眠った不利で無視を貫き、もしくは読書で本当に聞こえなかった。
コールに本を返したその帰り、紅い絨毯を敷いた廊下を歩いていた巴椰はふとその足を止めた。
他の扉と違う、半透明のガラス戸。いつもならこんなところにこんな扉はなかったのだが、何故か壁には細工を施された扉が口を閉ざして張り付いていた。
好奇心に掻き立てられ、巴椰は少しためらうもドアノブを恐る恐る軽くひねった。
きぃと高く軋んで簡単にそれは開き、彼をその中に招き入れた。
--甘く芳しい季節の香が、風に乗って体の中を吹き抜けた。
「ほよっ、おにーさん?それともおねーさん?いらはーい!」
突然の声は視界を遮った突風の中で巴椰へと笑いかけた。
部屋の容量を遙かオーバーした、あの海と同じトンデモ部屋。ドームのように天は覆われ、人工灯が咲き乱れて芳しい花々をてらてらと照らしていた。部屋中に咲き誇る、季節をほとんど無視したカラフルなそれらを。
息を呑んでその風景を呆然と眺めていると、数メートル先にある背の高い林檎の木から何かがこちらへと飛び降りてきた。
「こーにちあ。おにーさん誰?ここ初めてだよね、何で来てくれたの」
「い、いや、その……綺麗だなって、思って」
「そうなの!?わぁい、褒めて褒めて!」
自分の背丈の半分しかない、何とも可愛らしい少女。濃灰色の髪を二つ括りにして肩から垂らし、頭には更に濃い色のフード。シンプルなそれにショートパンツと、活動的な子のようだった。
腰で結った白いリボンをなびかせてくるくるとその場で回転し、少女は巴椰の手を取った。
「私、授受。あなたはだぁれ、おにーさん?」
「俺は巴椰。それで授受ちゃん?その、君もケモノ--?」
見てくれはそうでもないが、見かけに騙されてはいけない。こんな幼い子でも恐ろしいのがここだ。油断は大敵、最大の敵だ。
んふふふと笑み、授受は巴椰から離れてばっと両手を広げた。
「ハト、ハト!ぽっぽっぽーの、“鳩”」
「鳩?」そういえばブレットがそんなことも言っていたと言葉が甦る。「鳩のお嬢ちゃんって君のこと?」
「鳩は私だけー!あのね、ね、ここは植物園なの。私のお部屋なの。おにーさん達なかなか来てくれないけど、綺麗デショ?」
純真ととるか狂いととるか、このあどけなさは諸刃の刃だ。後者だった場合命の保証はない。
それはもう嬉しそうににこにこと笑み、授受は巴椰を見上げてその白い歯を見せた。
「それじゃあ、遊ぼうか。私と一緒にばとるはとがる!」
「遊ぶ?『ばとるはとがる』って何?」
「『battle鳩ガール』。そこは危険ですよ、人間の坊ちゃん」
不意に気配もさせずに背後から声がし、それは巴椰の胴に腕を回し後ろへと強く引いた。
刹那、今の今まで巴椰が立っていた場所が強い重力を受けたかのようにべこんと凹み沈んだ。
「ふょっ、外しちゃったの?もうっ、レインの馬鹿ぁ」
「このヒトは戦うのになれていませんし丸腰でしたので。授受の圧力をもろに喰らうと、さすがに内臓破裂だけでは済みませんでしょう」
さらさらとした髪が目の前を揺れ、腕は静かに自分を離れた。
不穏なことを少女と話していたその彼は、特徴的な結った紅い髪を揺らして巴椰に一礼した。
「私、レイン=ローズ=ペリツェと申します。そちらの授受の保護者です」
「嘘つきサディストが白々しいよ。私の保護者は兎さんだもん、レインじゃない」
「兎なんて害獣、劣等種。そんなことどうでもいい」
燕尾服に白手袋とまるで本の中の執事殿のよう。それ故に現実感も裸足で逃げ出し、メルヘンが堂々と胡座を掻いて居座っていた。
優しげで気怠げな表情を彼女に向け、レインは凹んだ地面にため息を吐いた。
「誰彼構わず襲うのを止めなさい。人間なんて美味しくないですよ」
「この間のネズミさんとワシさんは美味しかったよ?おにーさんも食べてみないと解んない」
そういって舌なめずり、授受は巴椰にまた笑顔を向けた。その意味合いは先ほどと少しも変わらず、捕食者の色を宿していた。
二、三歩後ずり、巴椰は助けを乞うてレインを見上げた。
「あっ、と……その、何なの。授受ちゃんって、あの……か、かに、ば」
「カニバルですよ」期待を裏切らず、震える声を肯定される。「可愛らしいでしょう、カニバリズムの鳩の子は。大丈夫、あんまり食べると太ってしまうのでほどほどにさせています」
「そういうこと聞いてんじゃないんだよ似非紳士!」
フォローの場所が違うとうっかり反射的につっこんでしまった。が、自分の身は今大変危ない。
にじり寄ってにこにこと笑う少女からゆっくりと距離を保って離れながら、巴椰はもう一度レインに目をやった。
食べないよーと言いつつ、授受はレインを面白そうに嘲笑った。
「おにーさん。レインもね、人喰いなんだよ?“花”の王様なのに、生きたまんまの他の生を食べてこんなに綺麗なお花畑作っちゃった!」
「ッ!?何で言わないんだよ、本当に似非紳士じゃないか」
「似非似非とは失礼ですね。私はただ少し燃費の悪い身体なんです。その代わり、この体は決して傷を残しませんがね」
「便利な躰ぁぁ。でもおにーさんの味見をするのは私だよ?久々のお客さん、ばとるはとがる!」
不味い、話の逸れたのを気づいたらしい。逃げようなんて甘い考えだったか、しかしどうしてこう自分はこんな面倒なことに巻き込まれるんだ。楽しむにはスリルが多すぎて辛い。
すっと目の前に目をかざし、授受は巴椰をその手中に定めた。
「私とあそびましょ!食べない食べない、ちょぅっと味見だけ。美味しくなかったらお友達!」
「バカタレ、味見の時点でどうしようもないだろうが」何とかしようと考えるも、目の前の少女と似非紳士を振り切れる気は欠片もしなかった。「どうしよう」と、そればかりが低回していた。
笑んだその鳶色の瞳が、自分をはっきりと映し込む。
「--あ、やだぁ」
ぼろりと言葉をこぼし、授受は突然その場で膝を付いた。