暗闇の男
扉が叩かれる音。部屋の中にいた男はびくりと肩を震わせ、おそるおそる扉へ振り向いた。部屋の窓には隙間なくカーテンがかけられ、電気は消されて暗闇が作られていた。暗闇の中、無数の古ぼけたランプがぼんやりと部屋を照らしている。その部屋には数え切れぬ程のランプと男しかおらず、その他には部屋の真ん中に小さな椅子とテーブルがあるのみだった。
扉が開かれた。差し込む外の光に、男は眩しそうに目を薄める。部屋に足を踏み入れたのは紙袋を手にした銀髪の男だった。音を立てずに扉を閉め、彼は床を鳴らしながら部屋にいた男へ近付いていく。部屋にいた茶髪の男は銀髪の男を見た瞬間にほっとしたように顔を和らげ、いそいそと座りなおした。
二人の様子に特に変わったところは無い。強いて言えば、二人共に頭からはごつごつとした角が、背中からは黒い翼が生えている点だろうか。
「ほ、ほわいとくん、久しぶりだね」
茶髪の男はおどおどとした調子でか細い声を出す。困ったような笑顔を見せたが、どうやら銀髪の男を歓迎しているらしかった。手元のランプのひとつを指でつつき、中を開けてそこからクッキーを取り出す。ランプの中には炎が揺らめいていた。
「ほわいと」と呼ばれた銀髪の男は人の良さそうな笑顔をしていたが、茶髪の男を見ているうちに段々とつまらないものを見るような目に変わっていく。彼の左目を隠している前髪の奥からするりとタコの足のような触手が姿を現し、うねうねと身体をくねらせた。
「長居する程私は暇じゃないんだけど」
「あ、え、ああ、ごめんねっ、迷惑だよね。ごめんね」
ホワイトは部屋の真ん中の椅子に肘をつき、つまらなさそうに椅子を揺らす。茶髪の男は震える手つきでクッキーをランプに戻した。ホワイトは紙袋を彼の目の前に乱雑に置き、再び椅子を揺らし始めた。ごにょごにょと茶髪の男が何かを言いかけたが、彼の耳にはなにひとつ入っていない。
「ビター」
「……なに?」
椅子の動きを止め、ホワイトは虚空を見つめたまま口を動かした。
「叔父が心配してるってさ。行かないと煩いから早く行ってよ」
「そっか」
ビターは口端を緩め、自分の爪を触る。自分の右隣にあったランプを手に取り、膝の上に置いた。ランプの上には、掌ほどの大きさの少女が座っていた。彼女を撫でるように手を動かし、彼はぽつりと言葉をこぼす。
「ほわいとくんも、お父さんとかお兄ちゃんとかって呼んだらいいのに」
「はぁ?」
「あ、ううん、何でもない、何でもないからっ」
ホワイトがじろりと睨むと、ビターは縮こまり手をぶんぶん振って否定した。ビターの目が左右に泳ぐ。彼の手は小さな少女の手をとった。ホワイトの視線は一度ビターの手元、小さな少女にも向けられたが、まるで意味が分からない、と怪訝そうな顔をして逸らされた。ビターの口から声にもならなかった息が漏れる。
やがてホワイトはマントを翻し部屋の入り口へと歩いていった。慌ててビターも立ち上がろうとするが、足下のランプにつまづいて前につんのめる。ホワイトが扉を開いたところで、ビターは震えた声を出した。
「ま、また来てね」
ホワイトが振り返る。その顔は、部屋に入ってきた時の人の良さそうな顔に戻っていた。
「用が無ければ来ないよ」
それだけ吐いて、彼は躊躇いもなく扉を閉めた。部屋に冷たい空気が一瞬だけ入って、また止む。ランプの明かりは立ちつくすビターを照らすばかりで、けして明るくはならない。部屋の中には静寂が満ちていた。彼は俯き、何か呟くように口をもごもご動かした。声は出ているものの、それが何を言っているものなのかは本人にしか分からない。そして、それを聞き返す者ももうこの場にはいなかった。
ふと、彼の後ろでランプが倒れる音がする。
「ビターさん、ビターさん」
掌ほどの大きさの少女が、いつの間にかテーブルの上までのぼってきていた。その姿を見た途端、ビターの表情が緩まる。髪を手でぐしゃぐしゃ梳き、少女に目線を落とした。少女は自分と同じほどの大きさの蝋燭の隣に座り、首を軽く傾げた。
「ホワイト、ホワイトは機嫌が悪い、悪いですか?」
「そうなのかなあ」
ビターはホワイトが持ってきた紙袋を開ける。ころんと中からクッキーが転がった。紙袋にはケーキやマカロン等、様々なお菓子がぎっしり詰まっている。その包装には、いくつも同じロゴのシールが貼られていた。彼は帰り際のホワイトの顔を思い出し、口を開く。
「分かんないや」
紙袋の口を閉じて、困ったようにビターは笑った。