婚約破棄されたので、王宮の悪夢を祓う鐘から手を引きます 〜十年朝を守った私を捨てた王は、三日目の朝、玉座も失いました〜
「君は、もう必要ない」
謁見の間で、王レオンはそう言った。
私の十年が、その一言で終わった。
「明日からは、夜明けの鐘も別の者に鳴らさせる。鐘を鳴らすことしかできない女に、王妃は務まらない」
レオン様の隣には、カミラ様が立っていた。
新しい婚約者。絵のように整った、見栄えのいい令嬢。
レオン様はその肩を抱いて、私を見もしなかった。
「父上が、お前を王家に入れろと言うから、置いてやっていただけだ。地味で、面白みもない女を」
その言葉に、悪意すらなかった。
ただ、本当に、そう思っているだけ。
私は、彼にとって、はじめから物だった。
「鐘など、誰でも鳴らせる」
◇
夜明けの鐘は、ただの鐘ではない。
王宮には、夜のあいだに悪夢が溜まる。
怒り、嫉妬、後悔、隠した本音。眠る人の胸からこぼれたそれは、夜ごと王宮の暗がりに澱んでいく。
鐘が鳴る朝、それは祓われる。
そして鐘は、もう一つの務めを果たしていた。
眠る人々の夜が、互いに混じり合わぬように。一人の悪夢が、隣の誰かに流れ込まぬように。朝ごとに、そっと仕切っていた。
——けれど、それをしていたのは、鐘ではない。
私だった。
私は、その力を持って生まれた。
私の意思を訊かれたことは、一度もない。
それでも十年、毎朝、鐘楼に登ってきた。
務めだと思っていた。
その務めが、たった今、「朝からうるさい」の一言で終わろうとしている。
謁見の間の隅から、ノア様が、私を見ていた。
レオン様の弟。第二王子。
何か言いかけて、けれど王である兄の前で、口を閉ざした。
私は、礼をして、鐘楼に背を向けた。
——あの人だけは、いつも私を見ていた。
幼い頃、悪夢に泣いていた小さなノア様に、私は一度だけ、鐘を鳴らしてみせたことがある。
その朝、彼が初めて悪夢から救われたのだと、ずっと後に聞いた。
だからノア様だけは、私の鐘がただの音でないことを知っている。
けれど私は兄の婚約者で、彼は弟だった。
それきり、私たちのあいだには、十年の沈黙があった。
◇ ◇ ◇
【一日目】
別の者が、鐘を鳴らした。
音は、鳴った。
朝の空気を、いつもの通りに震わせて。
けれど、それだけだった。
その日、王宮は少しずつおかしくなった。
侍女が寝坊した。近衛兵が嫌な夢を見たと言って、剣を取り落とした。文官が会議の最中、ぼんやりと宙を見た。
それぞれが、それぞれの、小さな悪夢を見ていた。
仕切りが、消えはじめていた。
夜、私の小部屋の戸が叩かれた。
ノア様だった。
人目を避けるように、一人で。
十年、ほとんど言葉を交わさなかった人が、私の戸口に立っていた。
「リリア」
その声で、私の名を呼ぶのを、初めて聞いた気がした。
「鐘のことだ。——王宮で、何が起きているか、君なら分かるだろう」
「私はもう、鐘から外された者です」
私は、目を伏せた。
「外された者が、口を出すことではありません」
ノア様は、何か言いかけて、やめた。
そして、静かに言った。
「……すまない。十年、君が一人で背負っていたものを、私は、見ていることしかできなかった」
私は、顔を上げられなかった。
その夜、ノア様は、それ以上は何も言わずに帰っていった。
——私も、悪夢を見た。
鐘から外されて、初めての夜だった。
仕切る者を失った闇は、私の眠りも容赦しなかった。
十年、毎朝祓ってきたはずの澱が、今は自分の胸に重く溜まっていく。
ああ、と思った。
私が守っていたのは、これだったのだ。
捨てられた私にも、その重さは、等しくのしかかった。
◇ ◇ ◇
【二日目】
二晩目の朝。
悪夢は、祓われないまま、また一夜分積み重なった。
王宮の空気は、目に見えて重くなっていた。
廊下で、侍女がすれ違いざまに肩をぶつけ、互いに睨み合う。文官が、些細な書き損じで部下を怒鳴りつける。誰もが眠れず、誰もが苛立っていた。
そして、最も苛立っていたのは、王だった。
その日の謁見で、私は遠くからその様子を聞いた。
「うるさい。下がれ」
レオン様の怒鳴り声が、扉の外まで漏れていた。
異変を告げに来た文官を、彼は最後まで聞かずに退けたのだという。
「妙な夢を見ただと? 寝不足の言い訳を、私の前でするな」
——けれど、レオン様自身も、眠れていなかった。
その目の下には、誰よりも濃い隈が刻まれていた。
王とて、悪夢から逃れられるはずもない。夜ごと、彼もまた、得体の知れぬ夢に苛まれていたのだ。
ただ、彼はそれを認めなかった。
自分が眠れぬことも、王宮が壊れかけていることも。
認めれば、それは「己の治世の綻び」になる。だから、ないことにした。
己の不調すら、寝不足だと言い張って。
臣下が、悪夢のことを口にするたび、レオン様は不機嫌になった。
自分の治める王宮が、得体の知れぬ理由で軋みはじめている。それを認めることが、彼には耐えられなかったのだろう。
だから、認めなかった。
異変を口にする者を、片端から怒鳴りつけて黙らせた。
「次に世迷い言を申す者は、職を解く」
そう言い渡されて、臣下たちは口をつぐんだ。
異変は、もう誰の口からも王に届かなくなった。
——後で聞いた話だ。
その日、ノア様だけが、王に進言を続けていた。
「兄上、これは寝不足ではありません。王宮の眠りそのものが、壊れかけている。今すぐ手を打たねば」
「お前まで、その話か」
レオン様は、弟を冷たく見据えた。
「鐘係の女がいなくなった程度で、王宮が揺らぐとでも? くだらん。お前は昔から、あの地味な女に肩入れしすぎる」
「兄上——」
「黙れ。私が王だ。お前の指図は受けん」
ノア様は、それ以上、何も言えなかった。
王が「ない」と言ったことは、王宮では「ない」ことになる。
たとえ、人が壊れていっても。
その夜、ノア様は来なかった。
来られなかったのだと、私は知らずにいた。
◇ ◇ ◇
【三日目】
三晩目を越えた朝、王宮は、明らかにおかしくなっていた。
仕切りを完全に失った夜が、人と人のあいだで混じり合っていた。
複数の者が、同じ夢を見た。
自分のものではない悪夢が、眠りに流れ込んでくる。
知らない誰かの恐怖、覚えのない後悔、聞いたこともない泣き声。
目を覚ましても、それが自分のものなのか、他人のものなのか、分からない。
侍女が、廊下で突然泣き出した。近衛兵が、何もない壁に向かって剣を抜いた。文官が、自分の名を思い出せず、机の前で固まっていた。
誰もが、三晩の悪夢に、心を削られていた。
王宮は、緩やかに、壊れはじめていた。
その日の夜、戸が叩かれた。
ノア様だった。
二日ぶりに見るその顔は、疲れ果てていた。けれど、その目には、昨日までの遠慮が、なかった。
ノア様は、私の顔を見て、力なく笑った。
「ひどい顔をしているだろう。——この三晩、ろくに眠れていない。幼い頃と、同じ夢を見るんだ」
その言葉に、胸を衝かれた。
幼い頃、悪夢に泣いていたあの子。私の鐘に、初めて救われたあの子。
鐘が止まった今、ノア様は、あの夜に引き戻されていた。
「君の鐘がない夜が、どれほどのものか。私は、誰よりも知っている。——昔、君に救われたからだ」
だからこそ、と彼は言った。
「だからこそ、もう、見ていることしかできない自分を、許せない」
「リリア。全部、話す」
ノア様は、部屋に入ると、低い声で言った。
「兄上は、何も認めない。異変を口にする者を、片端から黙らせている。私の言葉も、もう届かない。——あのままでは、王宮の誰も、まともな朝を取り戻せない」
「兄上を、玉座から下ろすつもりだ」
息が、止まった。
「君を侮って捨て、王宮の眠りを壊し、それでも己の非を認めない。民の顔も覚えず、人を飾りとしか見ず、君を父上の遺した道具としか思っていない。——あのような方に、この国の民は、守れない」
「……それは、反逆です」
「ああ。分かっている」
ノア様は、否まなかった。
「だが、王に正面から弓を引けば、ただの反逆で終わる。私一人が捕らえられて、それまでだ」
「だから、この二日、人目を忍んで、味方を集めてきた。重臣を、一人ずつ。鐘が何だったのか。それを失えば、どうなるのか」
「でも、彼らは、まだ半信半疑だ。鐘が、ただの音ではないということを——頭では聞いても、心では信じていない」
ノア様は、私の前に膝をついた。
王族が、外された女の前に。
「だから、見せてやりたい。君の鐘が、何を守っていたのかを」
「私が……?」
「明日の朝、鳴らしてくれないか。兄上の許しはいらない。重臣たちに、ただ、平穏な朝を一度、味わわせてやってほしい」
私は、震える声で訊いた。
「……私が鳴らして、何になるのですか。私はただ、捨てられた道具です」
「違う」
ノア様の声は、即座だった。
「君は、道具じゃない。十年、この王宮の朝を、たった一人で支えてきた人だ。——私は、それを知っている。誰よりも、知っている」
その言葉が、十年分の何かを、私の中で崩した。
道具ではない、と。
誰も、言ってくれなかった言葉だった。
「この十年」
ノア様は、続けた。
「私はずっと、君の鐘の音だけを数えていた。その朝の数だけ、君に救われていた。——本当は、ずっと前に、こう言いたかった」
「君の鐘は、世界で一番、得難いものだ」
夜明けの遠い気配の中で、その言葉は、嘘のひとつもなく響いた。
私は、頷いていた。
「……鳴らします」
兄の許しもなく。誰に命じられたからでもなく。
初めて、私自身の意思で。
別れぎわ、ノア様は、そっと私の手を取った。
冷たい夜に、その手だけが、温かかった。
「明日、隣にいる」
その手を、私は、振りほどかなかった。
◇ ◇ ◇
【そして、夜明け前】
まだ暗いうちに、ノア様が迎えに来た。
私たちは、誰にも見られぬよう、鐘楼への階段を登った。
十年、務めとして登ってきた階段。
けれど、今日は違った。
隣に、人がいた。
鐘楼の上で、私は綱を握った。
「いいのか」
ノア様が、静かに訊いた。
「兄上に知られれば、ただでは済まない」
「いいえ」
私は、首を振った。
「もう、誰かの許しを待つのは、やめにします」
私は、鐘を鳴らした。
私の意思で、初めて。
朝が、王宮に満ちた。
三晩のあいだ溜まっていた悪夢が、混じり合った夜が、澱が晴れるように祓われ、また、そっと仕切られていく。
王宮が、深く、息を吐いた。
◇
その朝、王宮の者は、嘘のように穏やかに目を覚ました。
三晩、人を苛んだ悪夢は、影も形もなかった。
侍女は、よく眠れた顔をしていた。近衛兵は、背筋を伸ばして立っていた。人々の顔から、隈が消えていた。
久しく忘れていた、ただ穏やかなだけの朝。
重臣たちが、顔を見合わせた。
——この朝は、なぜ戻った?
その問いの答えを、ノア様が、謁見の間で告げた。
「今朝の鐘を鳴らしたのは、リリアだ」
ざわめきが、走った。
「陛下が、地味でつまらぬ女と呼び、婚約者からも鐘からも外した、あの娘だ。——この三日の悪夢と、今朝の違いを、皆、その身で味わったはずだ」
重臣たちは、言葉を失っていた。
頭で聞いても信じられなかったものを、彼らは今朝、確かに体感していた。
三晩の悪夢と、穏やかな朝。その落差そのものが、何より雄弁な証だった。
老いた宰相が、長い沈黙の末に、口を開いた。
「……我らは、とんでもないものを、失いかけていたのですな」
そして、深く、頭を垂れた。
私に向かって。
一人、また一人と、重臣たちがそれに倣った。
「この朝を作れる娘を、陛下は、自ら手放された」
宰相は言った。
「その値打ちも知らず、道具と呼んで」
「異変を告げる我らを、片端から黙らせ、三晩、王宮が壊れるのを見過ごした」
「……そのような方に、この国の民は、託せませぬ」
重臣たちが、静かに、ノア様の側へ歩み寄った。
誰に強いられたのでもない。
ただ、今朝の穏やかさと、この三日の苦しみが、彼らをそうさせた。
◇
そこへ、レオン様が現れた。
「何の騒ぎだ」
朝の異変に、ようやく気づいたのだろう。
けれど、もう、遅かった。
謁見の間の空気が、自分に背を向けていることに、彼はすぐには気づかなかった。
「兄上」
ノア様が、進み出た。
十年、兄の後ろで口を閉ざしてきた弟が、初めて、玉座の前にまっすぐ立った。
「今朝、王宮は穏やかに目覚めた。三晩の悪夢が、嘘のように消えた。——なぜか、お分かりになりますか」
「鐘が、鳴ったからだろう」
レオン様は、苛立たしげに言った。
「誰が鳴らそうと、鐘が鳴れば朝は来る。それだけのことだ」
「いいえ」
ノア様の声は、静かだった。静かなほど、重かった。
「リリアが鳴らしたからです。あなたが、誰でも鳴らせると侮り、捨てた、あの人が」
「この三日、別の者が鳴らした鐘は、王宮の眠りを救えなかった。今朝、リリアが鳴らした鐘だけが、それをした。——その違いを、ここにいる全員が、その身で知っています」
レオン様が、周囲を見回した。
そこで、初めて気づいたのだろう。
重臣たちの誰一人、自分の側に立っていないことに。
「……お前たち」
「己を支えていた者の価値も知らず、侮り、捨てる。異変を告げる声を、力で黙らせる」
宰相が、静かに言った。
「その方に、この国の民は、託せませぬ」
レオン様の顔から、血の気が引いた。
玉座は、もう、彼を支えていなかった。
権力で人を捨て、力で声を封じた王は、その人がいなければ守れぬ朝に、見放された。
「レオン」
ノア様が、王宮中に届く声で、言った。
「あなたを、玉座から下ろす」
レオン様は、何かを言おうとして——
言葉を、見つけられなかった。
最後まで、自分が何を失ったのか、分からないまま。
それが、終わりだった。
◇ ◇ ◇
レオン様は、その日のうちに、遠い北の離宮へ送られた。
王位を剥奪され、表舞台から、退くことになった。
連れ立つ者は、ほとんどいなかった。
カミラ様は、真っ先に去った一人だった。
彼女は、王妃になれるからレオン様の隣にいた。王でなくなった人の隣に、留まる理由はなかったのだろう。
見栄えのいい飾りとして選ばれた人が、王の座を失った男を、飾りごと捨てて去る。
人を飾りとしか見なかった男は、最後に、飾りに見限られた。
去り際、レオン様は、一度だけ私を見た。
その目は、最後まで、問うていた。
なぜ、自分がこうなったのか。私の何が間違っていたのか、と。
その答えに、彼が辿り着くことは、きっと、ない。
何も私は言わなかった。
もう、彼に告げる言葉を、持っていなかった。
◇
ノア様が、王位に就いた。
夜明けの鐘は、もう、王の婚約者の義務ではない。
王宮の正式な職として、扱われることになった。
鐘楼の上で、ノア様は私の手を取った。
今度は、ためらわなかった。
「もう、誰の後ろにも隠れない。兄上の婚約者だからと、君から目を逸らすことも、しない」
ノア様は、笑った。
そして私にそっと近づいた
「これからは、ずっと君の隣にいる」
私は小さく頷いた。
◇
時が経ち、私は、一人の弟子をとった。
下働きの娘だった。「夜のあいだ、人の悲しい夢が視える」と、怯えていた子。
私には、分かった。この子は、私と同じものを持っている。
「鐘など、誰でも鳴らせる」と、あの人は言った。
違う。誰でも、ではない。
けれど——私一人、でもなかった。
「あなたの力は、得難いものよ」
私は、その子に言った。誰も、私には言ってくれなかった言葉を。
今朝も、私たちは並んで鐘楼に登る。
たどたどしくも、確かに朝を呼ぶその子の鐘を、隣で聞きながら。
そして、その朝を——王になっても変わらず鐘楼へ登ってくる、あの人と、共に迎える。
私の十年は、道具の務めではなかった。
受け継がれ、認められ、そして愛された、一つの人生だったのだ。




