<3・Promise>
「見て見て、ローラ!」
アンディはこの時、ローラと同じ年であるはずだ。つまり八歳。体が弱いけれどとても明るい少年は、特に本の群れの中では水を得た魚のようだった。お気に入りの本を見つけてくると、ローラにおすすめしてくれたのである。
「このお話、ぼくが一番好きなやつ!ここにもあった!ローラは読んだことある?」
「ごめんね、記憶がないからわからないの。でも、もし忘れちゃってるなら、今もう一度新鮮な気持ちで読むことができると思うんだよね。ねえ、読んで聞かせてもらってもいい?」
「ぼく、読むのヘタだよ?」
「いいのいいの。アンディの声とっても素敵だから、読んでくれると嬉しいな、なんて」
自分はこの国の言語に不自由な可能性があるし、アンディの様子だと読み聞かせしてもらった方が本人も楽しいと思ったのだ。案の定、その冒険譚をアンディはとても嬉しそうに読んでくれた。書庫の床にぺたりと座り込み、二人きりの読書会である。
アンディの明るい金色の髪が、ふわふわと窓から入ってくる風に揺れている。ついつい撫でたくなるのを、ローラは必死でこらえていたのだった。
わかっている。今の自分は八歳の少女ローラ。それでも精神年齢は三十五歳の自分でほとんど引っ張られている。もし自分が真っ当にモテる人間だったなら、結婚してこれくらいの年の子供がいてもおかしくなかったはずだ。ついつい母性を発揮してしまうのはしょうがないことだろう。
この愛らしい美少年が、十八歳になればあんな麗しい美貌の青年に育つのだ。それが楽しみでないと言えば、嘘になる。
「……その後、騎士アーノルドはドラゴンと友達になって、新しい世界へと旅立っていきました。……おしまい!」
絵本を読み終えたアンディは、とても楽しそうにローラの顔を見た。
「ねえねえ、ローラ、このお話はどうだった?感想教えて!初めて知った人の感想知りたい!」
「そうだねえ。ドラゴンを倒さずに、友達になることで世界に平和を齎した……ってのが私的には凄くポイント高いかな。本当の意味で、みんな幸せになった結末だもの」
「だよね?ぼくもそう思うの!」
意見が一致したことがよっぽど嬉しかったのだろう、アンディは目に見えてはしゃいでみせた。
「あのね、ファンタジーのお話ってね、どうしても正義の味方が悪い魔王やモンスターを倒してハッピーエンド!っていうのが多いんだ。でも、ぼくはそういうのあんまり好きじゃなくって。だって、世界征服をする魔王だって、町を襲ったモンスターだって、それぞれどうしようもない事情があったかもしれないでしょ?それを、人間の都合でやっつけて人間だけ幸せになって、それでハッピーエンドっていうのはなんか違うなって思って」
昔父様が言ってたんだ、と彼は続けた。
「この世界では、戦争がたくさん起きてる。誰が正義で悪でって話をしょっちゅうしてて、今ぼくたちがこうしている間にも傷つけあってる人がたくさんいるって。だからこんなのは綺麗事。偽善と言われても仕方ない。それでもぼくは……誰かが要らない世界なんて必要ない、みんなで幸せになれる世界が一番いいんだって思うんだ……って」
「素敵な言葉だね」
「うん。ぼく、お父様のこと、とても尊敬してる。貿易商をしててね、いろんな世界を見ていて、だからこそ出て来る言葉だって」
彼は、ローラが将来の婚約者になることがわかっていたのかもしれない。彼はにっこり笑ってこう言うのだ。
「だから、ぼく、ローラがぼくと同じように思ってくれてすっごく嬉しいんだ。お嫁さんにするなら、ローラみたいな人がいい。ぼく、ローラと一緒に幸せになりたい!」
それは、幼い子供なりの、精一杯の愛の告白だったのだろう。まだ出会ったばかりの、たった八歳の少年。結婚の本当の意味だってろくに知らないし、目の前にいるローラが赤の他人が成り代わってしまった人間であることも、本当は全然ダメダメな女であることも知らないのだ。
あまりにも純粋無垢。申し訳なさと愛しさで胸がいっぱいになる。
「……うん」
少なくとも婚約破棄のあの瞬間までは、自分達は婚約者であり続けるはず。ならば、今ここでこう言ってしまっても問題ないはずだ。
「私も、アンディと一緒に幸せになりたいな」
わかっている。
この世界がもし、ゲームと同じ世界であるならば――ローラはちゃんと、正しく、婚約破棄されなければいけない。だってアンディは自分ではなく、マリーと一緒になることで幸福を掴む人物なのだから。
だから最終的には、なんとしてでも婚約破棄されるように仕向けなければ。自分は、それを受け入れなければいけない。彼の幸せを本当に望むのならば。
それでも今は。今だけはと思うのだ。
――今だけは。あなたのことを、愛していてもいいよね。
その髪をそっと撫でて、ローラは目を閉じたのだった。
***
自分にとって、アンディは命の恩人である。彼はもちろん、そんなことなど露ほども知らないだろうけれど。
令和日本でOLをやっていた時だ。データの入力を、大幅にミスしてしまったことがあったのである。簡単に言ってしまうと伝票を作る折、実際の№を一つずらして入力してしまったのだ。
その頃会社は繁忙期で、打ち込まなければいけないデータの量も膨大だった。なんとしてでもチーム一丸となってこのタスクを片付けましょう!というそんな空気になっていたのである。疲れ果てていても、残業できませんなんて言えない。頭がくらくらしていても、眠くても、どんなにへとへとでもみんなが頑張っているなら無理をしてでも頑張らなければいけない。そうやって強引に自分を奮い立たせて仕事を続けていた、その矢先のことだったのである。
一つ飛ばしに気付いた時にはもう、何百という伝票を記入してしまった後だった。うちの会社のソフトウェアは昔から使っている古いもので、後からデータの差し込みや修正に相当手間がかかるものだったのである。
ダブルチェックも後回しになっていたことで、ローラ(もちろんかつてはその名前ではなかったが)が何百と間違ったデータを打ち込んでから発覚したのだった。
当然、上司にはきつい御叱りを受けた。致命的なものではなかったといえ、修正にものすごい手間と時間をかけさせるものであったからだ。
『こんなこと言いたくないけどね。あなた、他の人より全然作業遅いし、ミスも多いの。自分が一番仕事できないって、自分が一番よくわかってるわよね?』
チーフの目が、完全に三角になっていたのを覚えている。
『それなのに、さらに仕事増やしてみんなの足を引っ張るって、さすがにどうかと思うわけ。お願いだから、もっと成長してちょうだい。それとも、そういうやる気もないってこと?』
『ごめんなさい……』
『ごめんなさい、じゃなくて次からもっと頑張って。もう二度としないわよね?これからはもっとできるわよね?』
『が、がんばり、ます』
『頑張りますじゃないでしょ、社会人なんだから!できるか、できないか、それを訊いているのよ!』
怒り狂っている女上司を前に、ひたすらローラは小さくなって平謝りするしかなかった。はっきり言って、努力はするけれどこれ以上精度と数を上げられる自信なんてない。それでも相手は、できます、以外の答えを求めていないなら、一体どうすればいいのだろう。できます、と言ってできなかったら、「できるって言ったくせに嘘ついたの!?」って怒られるのが目に見えているというのに。
いい年の大人の癖に情ないと思う。けれど結局、ローラは涙をこらえることができなかったのである。
自分は本当にダメ人間なんだ。明日から会社に行きたくない。否、会社以外のどこでも自分が役に立てる場所なんてない。いっそこの世から消えた方が、みんな幸せになれるのではないか――。
そこまで思い詰めていた自分を救ってくれたのは、あのゲーム『トパーズの空』だったのである。
膨大な魔力と魔法の知識を持つマリーは重宝されるが、一方で多くの人に嫉まれることにもなる。妨害も多く、またこの世界の仕組みに慣れていないせいで失敗も多い。最初はせっかくの魔法の力を生かせず、期待された仕事もろくにこなせない日々が続くのである。
そんなマリーを保護してくれているアンディは、まるで兄のようにマリーに優しく接してくれるのだ。失敗だらけで落ち込むマリーの姿は、ダメダメな自分と重なるところがあったのである。
そして、またうまくいかなかったと泣くマリーに、アンディがこんな言葉をかけてくれるのだ。
『あなたは、誰より努力しています。……努力っていうのは、確かに必ず報われるとは限りません。でもね、努力をし続ければ、必ず可能性の道は繋がります。うまくいく確率は、確実に上がっていくんです』
それから、と。涙で濡れたマリーの手を取って、アンディは微笑むのだ。
『真摯な努力は、必ず誰かが見ていてくれる。少なくともわたくしは、あなたの頑張りを知っています。……どうか、辛い時は相談してくださいね。微力ながら、わたくしも力を貸しますから』
その言葉は、マリーに向けられたもの。それでも、令和日本を生きる自分の心をも救ってくれるに充分なものだったのである。
努力し続ければ、可能性の道は広がる。
そしてその頑張りを見てくれる人が、きっといつか現れる。
自分の頑張りはきっと、無駄にはならないのだと。
――あなたはゲームの世界の住人。でも、あなたがいなければ私はきっと生きていくことさえできなかった。
アンディ・ベリルは、紛れもない命の恩人。だからこそ。
――私は、絶対あなたを幸せにしてみせる。たとえ、自分が悪役令嬢と呼ばれることになったとしても。




