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コンコン、と静かな生徒会室にノックの音が響く。蓮見は書類に目を通しながら「どうぞ」と扉の外へ声をかけた。
「しつれーします」
ガラリと扉を開けて入ってきたのは、制服を着た生徒でも教師でもなく、見慣れない若い青年だった。
「えっ」
「え?」
(あの時の……!)
青年はハーフアップにした黒髪を揺らしながら、頭をぶつけないように扉をくぐり、驚きの声を上げた蓮見を見る。
ぱちっと目が合うと、にわかに頬が熱くなったような気がした。
じっと蓮見の顔を見ていたが、何かを思い出したかのように青年がポンと手を打った。
「あー、君この間の……」
「先日は、あの、ありがとうございました。生徒会長の蓮見幸太と言います」
慌てて立ち上がり、ペコリとお辞儀をする。
「バスケ部のコーチ補佐をしてます、山本紫です」
(やまもと、ゆかりさん……)
頭の中で、ずっと知りたかった名前を反芻する。
「あの後は大丈夫だった?」
「はい、特に何も。あの、いじめられていたとかではないので、大丈夫です」
「あー……なるほど?」
紫は納得したように頷くと、視線を逸らしながら言った。
「まあ、気をつけなっていうのも変だけど……蓮見くん可愛い顔してるし、同性でも用心した方がいいよ」
「え……」
同じ男子校出身だからか、あれが告白の現場だったことを見抜かれたようだ。お世辞に決まっているのに、可愛いという言葉に反応してしまい、顔がさらに熱くなる。
「あ、あの、何か御用でしょうか」
「あー、これ、宮センから持って行ってほしいって言われたプリントなんだけど」
「頂戴します」
震える手でプリントを受け取ると、緊張を悟られませんようにと内心バクバクしながら、プリントの内容に目を走らせる。学園祭期間中の体育館使用に関する要望書だった。
「確認しました。ありがとうございます」
「うん。じゃあ、お仕事頑張ってね」
ひらひらと手を振ると、くるりと振り向いて部屋から出ていこうとする後ろ姿に、慌てて声をかける。
「あっ、あの、紫さん!」
引き止めたい一心で思いのほか大きな声が出てしまったことに自分で驚きつつ、蓮見は机の上に置いていた携帯を持って、扉に手をかけている紫に駆け寄った。
「あの、ご迷惑じゃなければ、連絡先を教えていただけませんか。この間のお礼をさせていただきたくて……」
まるで全力疾走をした後のように早鐘を打つ心臓が少し痛いなと思いながら見上げると、驚いたような困ったような顔をしている紫と目が合った。その表情に拒否の意思を感じて、持っていた携帯を背中に隠す。
「あ、ごめんなさい……部員でもないのに、連絡先は教えられないですよね」
なんだかおかしい。自分で自分が制御できない。頭で考えるより先に体が動くことなんてめったにないはずなのに。
お礼なんて建前で、次に会うための口実が欲しかった。
あの日から一週間ほど、蓮見の頭の端にはいつも紫のことがあった。早川に聞いたら連絡先を教えてもらえるかもしれないと思ったこともあったが、一度しか会っていない見知らぬ生徒から連絡をもらってもきっと困らせるだけだろうと諦めた。
諦めていつも通りの日常に戻ろうとした矢先に、紫が生徒会室を訪ねてきてくれたものだから欲が出てしまった。
(変なやつだと思われたかな……)
紫はじっと黙ったまま何も言わない。自分のあさましい心のうちを覗かれているようで居心地が悪かった。
「プリント、ありがとうございました」
そう言ってそそくさと椅子に戻ろうと歩き出す。居たたまれなさで顔から火が出そうだった。
「待って」
片手を軽く引かれて振り返る。紫は頭をガシガシと乱暴に掻くと「紙とペンある?」と言って蓮見の机に歩み寄った。
「今携帯持ってないんだ。これ、借りていい?紙……」
「あ、これに、お願いします!」
蓮見はパアッと顔を輝かせると、自分のノートとペンを渡した。紫は黙ったままペンを走らせると、ノートにアドレスを書いてくれた。
「お礼とかはいいよ。連絡も、あんまり返せる自信ないけどごめんね」
「い、いえ、ありがとうございます!」
嬉しそうにはにかむ蓮見の頭をポンと叩くと、「じゃあまた」と言って部屋から出ていく。緩やかに遠ざかっていく足音を聞きながら、蓮見はノートに書かれたアドレスを見て、はあぁ、と長い溜息をついた。ノートを抱きしめると、どさりと椅子に腰かける。
(なんだこれ……)
耳元で心臓がドキドキとうるさい。手は震えているし、頬も熱い。でも、いやな気分じゃない。むしろ叫びだしたいような、踊りだしたいようなそんな高揚感さえある。
(紫さん、山本紫さん)
心の中で何度も名前を呟く。まるで魔法の言葉のように、繰り返すたびに何か温かいものが胸に広がる心地がした。
その晩、蓮見はベッドの上に腰かけて携帯を握りしめていた。ノートに書いてもらったアドレスを登録し、いざメールを送ろうとしているのだが、なんと送ればいいか文面を考えては書いたり消したりしていた。
結局一時間ほど悩んだ末、「こんばんは。蓮見幸太です。この間はありがとうございました。登録よろしくお願いします」というなんとも可愛くない文章を送り付けると、力尽きて携帯を握ったまま眠ってしまった。
翌朝、寝落ちした後に届いていたメールを見て跳ね起きた際にベッドから転がり落ちた。家族に心配されたが、頭にできたたんこぶなど気にならないほど、蓮見は幸せな気持ちでいっぱいだった。なんて返事をしよう、紫はもう起きているだろうか。そう考えるだけで蓮見の頬は緩みっぱなしだった。
それからというもの、他愛のないメールを送りあう日々が続いた。すぐに返信がくるわけではないが、紫は律儀にメールを返してくれる。大学の講義やバイトが入っているとき以外は、たいてい部活に参加しているという情報を得た蓮見は、放課後に校舎と体育館を繋ぐ渡り廊下を歩く時に、必ず紫の姿を探すようになった。
蓮見が放課後に体育館に入れるのは、顧問である宮部先生に用事がある時や設備の確認などをする時だけだったが、校舎から別館にある生徒会室に行くために必ず渡り廊下を通るので、その一瞬に目を凝らして探すのだった。少しでも紫の姿が見えると嬉しくなったし、目が合って微笑まれた時などはしばらく天にも昇る気持ちだった。
ある日、いつものように放課後の体育館を横切ろうとした時、ちょうど休憩中だったのか「会長!」と入り口付近で座っていた後輩の田端が声をかけてきた。
彼は今年から書記として生徒会でともに活動する仲間だった。
「お疲れ。休憩中?」
「はい!会長は何か用事ですか?」
「職員室から戻るところだよ」
「そうだ、会長、今度の土曜なんですけど、生徒会の会議に参加できなくて……」
「え、もしかして試合?レギュラーとれたの?」
「はい!」
「よかったね。こっちは気にしなくていいから試合頑張って。会議内容は連絡するから」
「ありがとうございます」
素直に喜ぶ田畑の背後に、ついていないはずの犬のしっぽが見える。人好きする好青年な彼が生徒会と部活の両立を頑張っていることを知っているのは、自分だけじゃないはずだ。
「田端、そろそろ休憩終わるぞ」
「おもっ!重いっス、早川先輩!」
突然現れた早川が、のっしりと田端の頭に顎を乗せる。二人とも蓮見よりも背が高いので、さながら大型犬二頭がじゃれ合っているようだ。ちなみに早川と蓮見は槻谷学園に入る前からの幼馴染である。
その時、集合をかける笛の音が体育館に鳴り響いた。「じゃな」と言って慌てて中に戻る二人に手を振っていると、体育館の舞台に凭れた紫と目が合った。蓮見は二人に振っていた手を下ろして、ぺこりと会釈する。
すると、紫が微笑みながら片手をあげて、蓮見に手を振った。たったそれだけの仕草で、蓮見の胸は喜びで溢れる。目を逸らせずにいると、練習が再開されたようで紫は部員たちの方へ歩いて行った。
それを見届けて、名残惜しさを感じながら生徒会室へ歩き出した。