誕生日に願いを
七月十三日。
蒸し暑い夏の朝。セミの声が、朝の空気をざらつかせている。
目覚ましが鳴る少し前に目を覚ました俺は、机の上の箱を見つめていた。
昨日、仕事帰りに時間をかけて選んだ、小さなプレゼント。
ラッピングの中身は、銀色のブレスレット。
ひなたの好きなシンプルなデザイン、そして内側には小さく刻まれた言葉。
「君と、同じ時間を歩く」
伝えきれない感謝や、これからの願いを込めた。
ラッピングを鞄にしまいながら、俺は少しだけ深呼吸をした。
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放課後、俺は駅前の待ち合わせ場所でひなたを待っていた。
制服ではなく、私服で現れる約束をしていた。誕生日だから、特別な一日にしようと。
十数分後、ひなたはやってきた。
「待たせた?」
――思わず、言葉を失った。
紺のワンピースに、少し緩めに結ばれた白いリボン。髪を後ろでまとめていて、いつもより大人っぽい。
「……いや、待った甲斐あったわ」
「ふふ、そう言ってもらえると、がんばった甲斐ある」
ひなたは少し照れながらも、笑って言った。
その笑顔が、今日という日の始まりを彩ってくれる。
俺たちは、電車に乗って郊外のレトロな遊園地へ向かった。
この時代には珍しい、手書きのチケット、木製の観覧車、古いポップコーンの屋台。
「懐かしい雰囲気、なんだか落ち着くね」
「なんで俺のほうが童心に返ってはしゃいでんだろな……」
「それはきっと、精神年齢が……」
「言ったら罰ゲームな」
笑いながら、俺たちはジェットコースターに乗り、空中ブランコに揺られ、射的で全敗した。
小さなテーマパークなのに、何時間でもいられるような気がした。
時間が経つのも忘れて、夕暮れ。
俺たちは、観覧車に乗った。
「やっぱり最後は、これじゃないと」
密室の中、静かに回るゴンドラ。
景色がだんだんと高くなるにつれて、街のざわめきが遠ざかっていく。
「誕生日、おめでとう」
そう言って、俺はポケットから箱を取り出した。
ひなたは驚いたように目を丸くした。
「……いいの? これ」
「もちろん。お前のために選んだ」
彼女はおそるおそる箱を開け、中身を見て、小さく息をのんだ。
「……これ、刻印?」
「うん。君と同じ時間を歩くって」
ひなたは黙ってブレスレットを見つめていた。
やがて、ゆっくりと手首に通し笑った。
「ありがとう。すごく、すごく嬉しい」
「ならよかった」
観覧車が最上部に達する頃、ふと彼女がぽつりと呟いた。
「ねえ、田中くん。未来って、怖くなくなったと思ってたけど――」
「うん?」
「……怖いことも、やっぱりある。でも、それを怖いって思えるくらいには、幸せなのかもしれないね」
俺は彼女の手を握った。
「未来が怖いなら、一緒に震えればいい。ひとりで立たなくていい」
「……甘やかしすぎるよ」
「お前が甘えてくれるうちはな」
観覧車がゆっくりと下降しはじめる。
この時間も、やがて終わりに近づいていく。
でも。
俺たちには、まだ選べる未来がある。
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観覧車のゴンドラがゆっくりと地上に戻る。
中でふたりきりだった静かな時間が終わり、現実の喧騒が少しずつ近づいてくる。
ひなたは、俺の手を握ったまま、小さく笑っていた。
「田中くん」
「ん?」
「今日みたいな日、ずっと覚えていたいなって思った」
「だったら、覚えてるよ。俺も。絶対に忘れない」
「……なら、ひとつだけ、お願いしてもいい?」
彼女がそう言ったとき、その表情に少しだけ迷いがあった。
「お願い?」
「うん――何があっても、私を信じていて」
その一言に、俺は一瞬だけ戸惑う。
だが、即座にうなずいた。
「当たり前だ。信じるよ。何が起きても、何度でも」
ひなたは、ほっとしたように目を細めた。
そして――そのときだった。
空が反転した。
一瞬だけ視界が暗転し、世界の輪郭がにじんだ。
観覧車のゴンドラの外。地上の景色が、異様に歪んでいた。
人々が止まり、音が凍り、時がねじれるような感覚。
「――っ、これは……!」
あの感覚は忘れない。タイムリープの発火点。
だが今回は、俺も、ひなたも巻き込まれた。
次の瞬間――世界が跳んだ。
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気づけば、俺たちは観覧車のすぐそばに立っていた。
ただ、何かが違う。
スマホを見る。時刻は――午前9時。
……いや、ありえない。観覧車に乗ったのは夕方だった。
「田中くん……」
ひなたの声が、かすかに震えている。
彼女も気づいたのだ。この歪みに。
「なんだ、これ……また、時間が――」
すると、背後から、聞き覚えのある声が聞こえた。
「ようやく、ここに来てくれたんだね」
振り向くと、そこには――未来がいた。
そう、あの消えたはずの少女。
でも、彼女は前とは違っていた。
制服姿。目には明確な意志の光。
「ここは、あの夜に存在していた可能性の狭間。あなたたちが交差してきた時間が、また溶け合いはじめているの」
「未来……どうしてまた?」
「私、やっぱり納得できなかったの。消えるだけの存在として終わるのが」
彼女の言葉は、悲しみに満ちていた。
「あなたが私を忘れなかったように、私もあなたを覚えてた。ずっと、どこかで……誰かの未来になりたかった」
沈黙の中、ひなたが前に出た。
「……未来ちゃん」
「ひなたさん……」
「それなら、あなたは、まだ存在してる。私たちがこうして話してる。それは、あなたが消えなかった証拠だよ」
未来は、目を見開いた。
「でも、私は正規の未来じゃない。私の時間は矛盾してる」
「それでも、あなたがここにいるなら、私たちは――共に歩ける」
ひなたは、自分の手首から外したブレスレットを未来に差し出した。
「これは、田中くんがくれたもの。でも今は、あなたに渡したい。ちゃんと、自分の未来を見つけて」
「私に……未来を?」
「うん。名前が未来なら、自分自身のために生きていい」
未来は、泣いていた。
静かに、そして確かに、彼女はそれを受け取った。
そして、時の波が再び満ちる。
次の瞬間、目の前が白く染まり――
気づけば、俺とひなたは再び観覧車の下にいた。
時間は、夕暮れ。
まるで何もなかったかのように、世界は静かだった。
「田中くん……戻ってきた?」
「ああ、でも……」
彼女の手首を見た。ブレスレットは、もうなかった。
だが、彼女は笑った。
「いいんだ。あの子の未来のためなら」
そう言って、俺の手をぎゅっと握る。
「今度こそ、本当に始めよう。これからを」
俺も笑った。
「そうだな。俺たちの時間は、これからだ」