未来の足音
夏の風が教室に流れ込んでくる。
期末試験まであと数日ということもあって、放課後の教室はいつもより静かだった。参考書を開く者、うたた寝する者、廊下で軽音部がかすかに音を鳴らしている。
その中で、俺はぼんやりと窓の外を見つめていた。
――時間は、動いている。
観測者たちに会い、ひなたの意思が認められてから数日。何も変わらないように見える日常の中で、確実に未来は歩みを進めていた。
「田中くん、ねえ、問題出して」
隣の席で、ひなたが教科書をぱたんと閉じて言った。
「お前、今のページ開いて三分も経ってないだろ」
「だって全然集中できない。田中くんの横顔見てたら眠くなってきたし」
「褒めてんのか、煽ってんのか分からん」
彼女はくすっと笑ったあと、まじめな顔に戻った。
「でも、ほんとに……こういう日が続くって、すごいことだね」
俺は答えず、ただうなずいた。
彼女の言う通りだ。
普通の日常――それが、これほどかけがえのないものだったなんて。
彼女がいなくなった世界線で、俺は知った。
彼女がいるということは、何よりの奇跡だった。
だからこそ、忘れてはいけない。
この日常は、奇跡のうえに成り立っているのだと。
「なあ、ひなた」
「ん?」
「未来って、どんなふうに見えてる?」
彼女は、少しだけ考えてから答えた。
「……まだ、ちょっと怖い。でも、前みたいにひとりで震えるような怖さじゃないよ」
「それは、よかった」
「田中くんがいるから」
その一言に、胸がぎゅっと締めつけられた。
――俺も、同じだ。
そしてその日、俺たちは帰り道を並んで歩いた。
駅前のロータリー、商店街のアーケード、踏切の前。
季節は、確実に夏へと向かっている。
ひなたが言った。
「田中くん。もうすぐ、私の誕生日なんだ」
「あ、そうなのか?」
「うん。7月13日」
俺はスマホのカレンダーを確認し、すぐに予定を入れた。
「何がほしい?」
「うーん、まだ内緒。でも、田中くんと一緒にいられたらそれでいい」
冗談めかして言った言葉だったのかもしれない。
でも、俺の心にはその言葉がしっかりと残った。
「……わかった。最高の誕生日にする」
「うん、楽しみにしてるね」
彼女が笑った。
その瞬間、ふと――視界の隅で、誰かの影がよぎった。
改札の奥、雑踏の向こうに立つひとりの少女。
見覚えのない顔。
だが、その瞳は、俺を見つめていた。
時が止まるような錯覚。
俺の記憶には存在しないその人間が、俺を知っている顔で立っていた。
ひなたが振り返った。
だが、そこにはもう誰もいなかった。
「……どうしたの?」
「いや……なんでもない」
だが俺は、直感的に悟った。
あれは、次の波の予兆だった。
――見知らぬ少女の姿は、確かにそこにあった。
俺を知っているような目で、じっと見ていた。
そのわずか数秒の邂逅が、胸の奥に重く残っていた。
その夜。
俺は、夢の中であの場所に立っていた。
観測者たちの空間。闇のなかで揺らめく時の狭間。
「また来たのか。いや、今回は連れてこられたと言うべきか」
白衣の観測者――あの男が姿を現す。
「……何が起きてる?」
「境界が緩んでいる。君たちの選択が、別の可能性に干渉を始めた」
「……別の?」
観測者は小さく頷いた。
「選ばれなかった未来が、揺り戻しを起こしている。見たんだろう? 少女を」
俺の脳裏に、昼間の光景がよみがえる。
「彼女は、もうひとつの未来で、君の命を救った存在だ」
「……は?」
観測者は淡々と語る。
「タイムリープを繰り返すうちに、複数の因果が重なり、あなたの命すら危うくなる未来線がひとつ存在していた。ひなたが間に合わなかったその世界で、彼女が代わりに君を救った」
「つまり、彼女は……」
「消された未来の遺構だ。通常なら、観測外に溶けていく存在だが……君が彼女を思い出した」
――記憶にないはずの誰かを、俺が認識してしまった。
それは、決して偶然ではない。
「彼女は再び現れるだろう。自分の存在意義を問うために」
「……また戦いになるのか?」
観測者は小さく笑った。
「戦いではない。君たちは、また選び直しを迫られるだけだ」
そして、夢から覚めた。
次の日。
ひなたに、そのことを話すべきか迷った。
でも、彼女は俺の表情を見てすぐに察した。
「また……時間の波?」
「……ああ」
「私じゃ、守れない相手?」
「違う。お前だからこそ、立ち会ってほしい」
ひなたは少し黙ったあと、笑って言った。
「じゃあ、行こう。ちゃんと、会いに行こう。その子に」
その日の夕方、再び改札口に立った俺たちは、少女を見つけた。
白いワンピース。黒い髪。中学生くらいだろうか。
彼女はこちらに気づき、逃げるように背を向ける。
「待って!」
ひなたが声を上げた。
少女の足が止まる。
振り返ったその顔に、確かに涙が流れていた。
「あなたが、田中くんを助けてくれたんだよね」
ひなたがゆっくり歩み寄り、そう言った。
「……覚えてるの?」
かすかな声。
それは、まるで消えかけた音のようだった。
「私は、何のためにここにいるの? 消えたはずの未来なのに……どうして、まだこんなに苦しいの?」
俺は彼女の前に立った。
「忘れてた。いや、忘れさせられてた。でも、君がここにいてくれたから……思い出せたんだ」
少女は顔を上げる。
「だから、君がいてくれて、ありがとう」
その瞬間、彼女の体がふわりと光に包まれた。
「……よかった。ちゃんと、最後に名前呼んでもらえて」
「え?」
「私の名前、未来っていうの」
光はやがて空へと昇り、静かに消えていった。
その帰り道、ひなたがぽつりとつぶやいた。
「彼女もまた、未来の一部だったんだね」
「……ああ。忘れないよ。あのとき、お前がそばにいてくれたことも、彼女が俺を守ってくれたことも」
「うん」
肩を並べて歩く。
ひなたが、そっと俺の手を握った。
「次は、私の誕生日。ね?」
「絶対、忘れない」
小さな過去が閉じ、また一歩、未来へと進んだ。