観測者たちの微笑
6月12日、午前9時15分。
教室の窓際の席で、俺はぼんやりと外を見つめていた。
ひなたが教室に現れるのは、あと5分後。
この数日の変化に、俺はようやく追いついてきた。
――彼女は、存在している。
タイムリープを繰り返し、観測者たちに警告されながら、それでもこの世界に残るという選択をした。
それは、奇跡に近い出来事だった。
でも、その代償は小さくなかった。
「君の選択が、未来に過負荷をかける」
あの男の言葉は、今でも耳にこびりついている。
未来の観測者たちは、俺とひなたの関係が生む不確定性を、極端に警戒していた。
俺たちの絆は、世界を不安定にする。
でも、だからこそ。
彼女といる未来を、俺たちは選ばなきゃいけないんだ。
ガラリ、と教室のドアが開く音。
「おはよ、田中くん」
その声に、思わず笑みがこぼれる。
ひなたが、少し寝ぐせのついた髪を直しながら席につく。
「寝坊した?」
「ちょっとだけ。でもセーフだったでしょ」
「おう、ぎり合格」
いつも通りの会話。
それが、どれだけ貴重か、今はわかっている。
だが、ホームルームの終了後。静かな教室にひなたが立ち上がった。
「……田中くん、放課後、屋上に来て」
「え?」
「話したいことがあるの。ちゃんとしたやつ」
そう言い残して、彼女は先に廊下へ出ていった。
その横顔は、どこか決意に満ちていて――俺の胸に、かすかな不安が広がった。
──そして放課後。
校舎の屋上。
午後の光がまぶしい中、彼女はフェンスのそばに立っていた。
いつもより制服のリボンがきつく結ばれていて、髪もきれいに整えてある。
「ねえ、田中くん。あなたって、どのくらい……未来を知ってるの?」
唐突な問いだった。
「全部じゃない。見えてるのは、断片だけだ」
「でも、私が死んだってことも、知ってたよね」
「……ああ」
彼女は目を伏せる。そして、ゆっくりと口を開いた。
「私、自分が観測されてる存在だって知ったとき、怖かった。でも、それよりも……あなたが、何度も私を助けようとしてくれたことが、いちばん怖かった」
「……なんで?」
「だって、それって、私ひとりじゃ、生きられないって言われてるみたいだったから」
静かだった。
風が吹き、彼女のスカートの裾が揺れる。
「でも、今は違う。自分で選びたい。誰かに助けられるんじゃなくて、自分の意思で未来を決めたい」
その言葉に、俺はゆっくりとうなずいた。
「それが……君の答えなんだな」
「うん。だから、これから私、観測者たちに会いに行こうと思うの」
「……なに?」
「彼らに話したい。未来を変える特異点だって、自分の足で進めるって。田中くんだけに守られてるんじゃなくて、私も戦えるって証明したいの」
衝撃だった。
でも、それ以上に――誇らしかった。
「……カッコよすぎるだろ、お前」
「えへへ。私、そろそろヒロイン卒業したいのかも」
俺たちは、夕陽のなかで笑いあった。
――そのとき。
フェンスの外に、一瞬だけあの男の姿が見えた。
目が合う。
だが今回は、彼は微笑んでいた。
警告ではない。
それは、確かに承認の微笑だった。
その夜、俺とひなたは、ふたたびあの場所を訪れた。
人気のない神社の奥、誰も足を踏み入れない石畳の道。
その先にある、時間のゆがみ――観測者たちが存在する中間領域。
「本当に来るとは思わなかったよ」
薄暗い空間に、男の声が響いた。
無機質でありながら、どこか柔らかさを帯びている。
白衣をまとった観測者がひとり、石段に腰掛けて俺たちを見下ろしていた。
「彼女の意思だ。俺は付き添いだよ」
俺がそう言うと、男はひなたをまっすぐに見た。
「君は特異点だ。存在が未来を混乱させる。自覚はあるかい?」
ひなたは、短く息を吸ってから言った。
「ええ。十分に。でも私は、誰かに保護されて、守られて、檻の中で生きていたいわけじゃない」
「つまり?」
「私がここに立っている意味を、自分で作りたいの」
観測者はしばらく沈黙した。
その沈黙に、俺の胸もぎゅっと締めつけられた。
だが、ひなたは一歩も引かなかった。
「君は、世界を破壊する可能性もある」
「逆もあるんじゃない? 私が、誰かを救う可能性も」
その言葉に、男の口元がわずかにほころんだ。
「強くなったな」
「あなたのせいでね」
しばしの静寂のあと、男は立ち上がった。
そして、懐から小さな金属製のペンダントのようなものを取り出した。
「これは安定鍵。未来を確定させるための記録媒体だ」
「記録?」
「君がどのように生き、どのように選択したか。時間に抗う中で、唯一証明できるもの」
彼はそれを、ひなたに手渡した。
「持っておけ。これは君が、自ら選んだ未来の証拠だ。観測者の一部は、いまだに君の存在を危険視している。だが、記録があれば裁ける」
「裁かれる……可能性もあるってこと?」
「可能性だ。だが、選択し続ける限り、君はここにいられる。田中くんもね」
俺はそっと彼女の手を握った。
「選び続けよう。何度だって」
ひなたは、小さく頷いた。
観測者の空間が、やわらかく揺らいで消えていく。
それは、静かな肯定だった。
――そして、夜の町へ戻った俺たちは、手をつないだまま歩いた。
駅のホーム、人通りの少ない通学路、明かりのついたコンビニ。
どれもが、昨日よりも少しだけ確かに感じられた。
「……ありがとう」
ふと、彼女が呟いた。
「なにが?」
「信じてくれて。私がここにいていいってこと、ちゃんと伝えてくれて」
「こっちこそだよ。お前が立ち止まらなかったから、俺も戻ってこれた」
「でもね」
ひなたは立ち止まり、俺を見上げた。
月明かりの下で、彼女の瞳が揺れる。
「もし、未来でどれだけ怖いことが起きても――絶対、逃げないから」
「俺もだ。何があっても、お前と未来を選び続ける」
言葉は誓いになり、誓いは絆になった。
それはもはや、時間にも観測にも壊せない。
俺たちが、選び取った未来。