私を知らない君へ
目が覚めた瞬間、俺は知らない天井を見ていた。
……いや、知っている。けれど、それは今の俺には明らかに異物だった。
壁に貼られたカレンダー。机の上の参考書。制服がかかった椅子。
タイムリープだ。
また、飛ばされた。
「……どうしてだ」
頭を抱え、思考を巡らせる。つい昨日まで、俺は病室にいたはずだ。ひなたの手を握っていた。なのに、また時間が巻き戻された――しかも、ひなたが入院する前に。
何かが大きく狂っている。
部屋のドアがノックされた。
「直樹、朝よー! 遅刻するわよ!」
母親の声。懐かしい響きだ。タイムリープを繰り返していると、懐かしさと今の境界がどんどん曖昧になっていく。
けれど、のんびりしている時間はなかった。
もしこの世界線で、ひなたが「事故」や「投身」ではなく、まったく別の死を迎える可能性があるとしたら?
未来はすでに一本ではない。複数の破滅ルートが彼女に絡みついている。
制服に着替え、家を出た。
電車に揺られながら、スマホの連絡先を確認する。メッセージアプリには、ひなたの名前がない。履歴も、写真も、通話も――消えている。
まさか。
俺は駅を飛び出し、彼女の通っている高校へと走った。
途中、二人がよく寄っていたコンビニの前を通る。
けれど、そこに彼女の姿はない。
学校に着くと、ちょうどホームルームが終わった時間だった。
俺は構わず校舎に入り込み、職員室へと向かった。
「おい君、どこ――」
教師の制止も無視する。いまは非常識だとか関係ない。
そして、生徒名簿を手に取った瞬間――確信は現実になった。
藤崎ひなたの名前がない。
この世界では、彼女は初めから存在していない。
血の気が引いた。喉がカラカラになる。
それでも俺は、町中を走った。中学の名簿、SNSの検索、彼女の家――何一つ、痕跡がない。
まるで、最初からこの世界にいなかったかのように。
――いや、違う。
彼女は確かにいた。笑っていた。泣いていた。俺の手を握っていた。
それが、いまはなかったことになっている。
何が起きた?
なぜ、この世界では彼女が消えている?
……いや、わかってる。
あの男が言っていた。「分岐を繰り返しすぎた存在は、時空から拒絶される」と。
もしこの世界が、彼女が消されてしまったルートだとしたら?
なら、このままじゃ終われない。
夜、自分の部屋に戻った俺は、タイムリープのトリガーを探し始めた。
最初に飛んだとき、俺は過去の自分に戻っていた。
2度目のリープは、彼女の死の直前だった。
共通するのは――「強い感情の瞬間」だ。
だったら――いま一度、強く願えば、彼女のもとへ戻れるんじゃないか?
俺は目を閉じ、心の奥底にある願いに触れた。
笑っていた彼女。照れくさそうに笑ったあの夏の日。
「また明日ね」と言った声。
涙を浮かべながら、「もうちょっと、そばにいて」と言った病室の夜。
……戻りたい。
彼女に、もう一度――会いたい。
そのときだった。
世界が、音を失った。
すべての光が反転し、景色がモノクロに染まり、
――そして俺は、落ちていった。
目を開けると、そこは見覚えのある公園だった。
ブランコがきぃこ、きぃこと鳴る音。赤く錆びた滑り台。夕焼け色の空が、まるで記憶の中そのままに染まっていた。
――戻ってきた。だが、いつの時点かはわからない。
ポケットのスマホを取り出す。画面に表示された日付は、6月5日、放課後の17時12分。
ひなたが、まだ存在していた時間だ。
胸の奥が、じわりと熱くなる。
この世界線では、彼女は――まだいる。
「探さなきゃ……」
俺は立ち上がり、町を駆けた。
――きっと、ひなたは自分の存在が不安定だって気づいている。
未来から来た観測者の言葉、俺の必死な行動、そして彼女自身が何かを感じていたはずだ。
だから、もう一度言いたかった。
「君は、ここにいていいんだ」と。
そして、探し続けて1時間――
人影がひとつ、川沿いのベンチに座っていた。
制服のスカートが風に揺れ、長い髪が光を反射している。
「……ひなた!」
思わず声を上げると、彼女はゆっくり振り返った。
その顔は、どこか戸惑いに満ちていた。
だが次の瞬間、彼女の目に涙が浮かんだ。
「……なんで、わかったの?」
俺は、言葉にならないまま、彼女の隣に座った。
「いなくなってたんだ。俺の知ってる世界では、君の名前も、顔も、記録も全部消えてた」
「うん。私も……見てた。違う世界の記憶。田中くんと一緒にいた日々が、夢みたいに溶けていくのを感じた」
彼女の声は震えていた。
「きっと、もう存在できないんだって、思った。私、世界から拒絶される存在なんだって……怖かったよ」
「……違う」
俺は、そっと彼女の手を握った。
「君がこの世界に存在してることに、理由なんていらない。未来がどうなろうと、誰が何を観測しようと、俺は君を忘れない」
その言葉が、彼女の涙を零させた。
「でも、私……」
「俺が、何度でも呼び戻す。何度でも探し出す。君がどの世界にいても、どんな未来にいても……君を知らない世界なんて、俺がぶっ壊す」
風が吹いた。
ひなたは、笑った。
それは、最初に会ったあの日と同じ、少し拗ねたような笑顔だった。
「そっか。じゃあ……信じてもいい?」
「信じろ。俺は、お前を忘れないって誓ったから」
その瞬間、ひなたの身体が、光に包まれた。
まるで、再びこの世界に確定されていくように。
彼女の存在が、消える側から、戻ってくる側へと反転していく。
「……田中くん」
「なんだ」
「私、未来を選びたい。あなたと一緒にいる未来を」
世界が再び色を取り戻していく。
彼女の名前が、スマホの連絡先に戻っていた。
メッセージの履歴も、通話の記録も――全部、戻っていた。
この世界線は、まだ続く。
彼女と俺が、未来を選ぶための世界線だ。