彼女が選ばなかった夜
病室の天井は、白すぎるくらいに白かった。
無機質な蛍光灯が静かに灯り、点滴のパックがリズムよく液を落とす。
藤崎ひなたは、静かに目を閉じていた。
眠っている――けれど、その顔は穏やかだった。
事故から二日が経った。
幸い、命に別状はなかった。打撲と軽い脳震盪、あと数日の入院で退院できるという。
けれど、俺は彼女の隣を離れられなかった。
「もし俺が来なかったら、どうなってた?」
考えるたびに、背筋が凍る。
タイムリープしたことで、未来は確かに変わり始めている。
だけど――あの未来が完全に消えたわけじゃない。
運命の手はまだ、彼女の背後に伸びている気がした。
「……田中くん」
微かに開いたまぶた。かすれた声。
「おはよう。って言うには遅いか」
「……ううん。もう夕方?」
「そうだな。夕焼けが、窓の外に見えてる」
彼女は小さく笑った。
「変な夢、見てたの。昔のこと。お母さんがまだ笑ってた頃」
「……それ、どんな夢だった?」
「海に行ったの。貧乏旅行でさ、弁当もコンビニのだったけど……母さんが、笑ってた。ああ、この人にも、ちゃんと幸せだった時間があったんだって思った」
彼女の声は、どこか遠くを見ていた。
「だから私、ちゃんと笑いたいんだよね。誰かと心から。過去を恨むんじゃなくて、未来を……好きになりたい」
俺は、彼女の手をそっと握った。
「……未来は、変えられるよ」
ひなたは目を細めた。
「信じてる。だって……田中くんが、信じてくれるから」
そのとき、俺のスマホが震えた。
メールの着信。差出人は――俺自身。
「43歳の俺」から、17歳の俺へ。
そんなことが、あるのか?
だが、タイムリープが起きている以上、何が起きても不思議じゃない。
本文は、たった一行だった。
「次は、あの夜を越えろ」
あの夜――?
理解するのに、数秒かかった。
あの未来。彼女が命を絶った夜。
あれは、事故ではなかった。
俺が最初に見た彼女の死は、投身自殺だった。
駅のホームから、ひなたは誰にも気づかれず、静かに身を投げた。
事故は別の未来だ。
つまり、運命は複数ある。
一つ救っても、別の破滅が待っている。
俺は――もう一度、決意を固めた。
この子の未来を、たとえいくつ分岐していようとも、すべて止めてみせる。
そしてその夜、彼女の病室の窓の外に、妙な気配を感じた。
見下ろすと、路地の奥に、見覚えのある男が立っていた。
サラリーマン風のスーツ。けれどどこか違和感のある立ち姿。
そいつは、じっと病室を見上げていた。
目が合った気がした。
いや――確実に、俺を見ていた。
そして、にやりと笑った。
次の瞬間、その姿はふっと消えた。
――未来は、俺だけが知っているわけじゃない。
この戦いには、別のプレイヤーがいる。
そう、感じた夜だった。
深夜、病院の廊下はまるで時間が止まったかのように静かだった。
ナースステーションの明かりだけがぼんやりと灯っていて、誰もがそれぞれの眠りに沈んでいる。だが、俺の目だけは冴え続けていた。
気になっていた。あの男のこと。
病室の窓の外から、確かに誰かが俺たちを見ていた。
あれは幻覚なんかじゃない。あの目は、知っていた。俺のことも、ひなたのことも。
ひなたは浅く寝息を立てて眠っている。
表情は穏やかだ。安堵の入り混じったその寝顔を見ていると、ここが過去であることを忘れそうになる。
けれど――俺の胸の奥には、まだ一つの不安が居座っていた。
「次は、あの夜を越えろ」
43歳の俺が送ってきたメッセージ。
あの夜。ひなたが、本当は死んだ日。
事故じゃない。自分の意志で、飛び降りた日。
この夜のあとに、それが起きた。
つまり――
「この夜の何かが、彼女を壊すきっかけになる」
俺は直感的にそう思った。
日付が変わった頃だった。
カツ、カツ、と靴音が廊下に響いた。
誰かが病室に近づいてくる。
この時間に見舞いなんてあるはずがない。俺は反射的にベッドの陰に身を隠した。
そして――扉が、ゆっくりと開いた。
入ってきたのは、スーツ姿の男だった。
身長は180ほど、髪は乱れておらず、スーツも不自然なくらい綺麗だった。
だが、顔に見覚えがあった。
数日前、通学路で見かけた。駅のホームでもすれ違った。
――こいつ、俺たちを監視している。
男は、眠るひなたの顔を見下ろし、そして独りごちた。
「……なるほど。これが分岐点か」
その声は、どこか機械的で、人間味がなかった。
「彼女が選ばなければならない夜……だが、今回は君がいたから、生存ルートに流れた。なるほど、観測が必要だな」
男がポケットから何かを取り出そうとした瞬間――
「動くな!」
俺は立ち上がり、声を上げていた。
男がぴくりと動きを止め、ゆっくりとこちらを振り返った。
「……やはり、目覚めていたか」
「お前、誰だ。何のために彼女を……」
「君と同じだよ。未来から来た観測者だ」
その言葉に、頭が真っ白になった。
「未来……?」
「君がタイムリープしたように、我々もまた未来から過去を観測している。特異点の存在を探してね」
「特異点……って、ひなたのことか?」
「そう。彼女は、感情によって未来を変える存在だ。ごく稀に、人間の意思が時空に干渉するケースがある。彼女はその典型だよ。君が助けようとすることで、より多くの未来が分岐し、我々には観測できないほど複雑化していく」
「……それの何が悪い」
「悪くはない。ただ――過負荷が起きる」
男はひなたを一瞥し、冷たく告げた。
「分岐を繰り返しすぎた存在は、時空から拒絶され、存在そのものが矛盾として処理される。簡単に言えば……この世界から消える」
その言葉は、まるで冷水を浴びせるようだった。
「君のせいで、彼女は壊れかけている。だから……次の夜を越えられなければ、彼女の魂ごと消える」
男は、それだけを言って立ち去った。
足音が遠ざかると、部屋の空気が一気に戻ってきたような気がした。
ベッドで寝ていたひなたが、目を開けていた。
「……全部、聞こえてた」
「……ごめん、起こしちゃったか」
「ううん。たぶん、もともと……眠れてなかった」
彼女は俺を見て、微かに笑った。
「私、そんな存在だったんだ」
「……信じなくてもいい。俺だって混乱してる」
「でもね、思ったの。もしそんなに大きなものを背負ってるなら、逃げるのって、もうできないんだよね」
彼女は、自分の胸に手を当てた。
「私は……ちゃんと未来を選びたい。もう終わらせる未来は、選ばない」
その言葉が、どんな予言よりも、強く俺の胸に残った。
――そして、選ばれなかった未来は静かに消えていく。