未来が壊れる音
目を覚ました瞬間、嫌な汗が背中を濡らしていた。
――夢を見ていた。
藤崎ひなたが、俺の目の前で車に撥ねられる夢。
その直後、誰かが泣き叫ぶ声。警察の無機質な声。そして、あの、あまりにも静かな心停止の音。
俺は、彼女の死ぬ日が近づいていることを、本能で感じていた。
教室では、変わらない日常が流れていた。
誰かがゲームの話で盛り上がり、誰かがテスト勉強で嘆き、教師はやる気のない声でプリントを配る。
だが俺にとって、それは「終わりへのカウントダウン」だった。
ひなたは、変わらず笑っていた。
でも、その笑顔の下に潜む不安は、少しずつ色濃くなっていた。
昼休み、校舎裏のベンチで二人並んで座る。
「田中くん。最近、私のことばっか気にしてるけど……勉強とか、大丈夫なの?」
「正直、そんなのどうでもいい」
「ええー。将来に関わることだよ?」
「……俺の将来なんかより、君の今の方が大事だ」
ふざけ半分に言ったつもりだった。けど、ひなたは目を丸くして、それから少し俯いた。
「……重いな、それ」
「ごめん。でも、本気なんだ」
風が吹き抜け、春の匂いが微かに鼻をくすぐる。
彼女はしばらく黙っていたが、やがて小さな声で言った。
「田中くんって、前よりまっすぐになったよね。なんだろ……大人っぽい。っていうか、覚悟してる人の顔してる」
――そりゃしてる。43年分の後悔と罪悪感を背負ってるんだ。
そのとき、ポケットの中のスマホが震えた。
着信。表示された名前は――「香織(元妻)」
……なぜだ。なぜこの時間に?
恐る恐る電話を取ると、懐かしい、でも今は遠い声が聞こえた。
『信吾……って、信吾? あんた、今どこにいるの?』
まさか――現代の意識が、この時代の俺と繋がってる?
俺は慌てて通話を切った。胸の鼓動が速くなる。
「田中くん……大丈夫?」
「あ、ああ。ちょっと……変な間違い電話だった」
ごまかすしかなかった。でも頭の中はぐらついていた。
――タイムリープは、一方通行じゃないのか?
それとも、現代の俺は、まだ死んでない?
放課後。帰り道を一緒に歩いていると、ひなたが立ち止まった。
「田中くん、今日は一人で帰るね」
「え?」
「ちょっと……家のことで」
「大丈夫か?」
「……うん。たぶん。もし何かあったら、呼ぶから」
彼女はそう言って、小さく手を振った。無理して笑った笑顔は、どこか置き去りにされたような儚さがあった。
その後ろ姿が、小さくなっていく――
嫌な予感がした。
胸がざわついた。
この日じゃないか?と、心が叫んでいた。
事故の日が、今日なんじゃないかと。
――そして、未来が、静かに音を立てて崩れ始めた。
夕暮れの街は、どこか不穏だった。
風がざわめき、遠くで犬が吠える。ふだんなら気にも留めない雑音が、今の俺にはすべて警告のように聞こえていた。
俺の足は無意識に、藤崎ひなたの家へと向かっていた。
彼女は「今日は一人で帰る」と言った。でもあの表情は、明らかに、何かを隠していた。
歩きながら何度もスマホを確認する。けれど、彼女からの連絡はない。LIMEも、未読のままだ。
――なにかがおかしい。
俺の中で、過去の記憶と未来の断片が、せめぎ合っていた。
「事故」は、実際いつ起きたのか。何がきっかけだったのか。
思い出せない。
だが一つだけ、確かな確信があった。
――今日だ。
今この瞬間、ひなたの未来が壊れようとしている。
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住宅街の角を曲がったときだった。
――キィィィィィィィィィィィィィィィィッ!!!
タイヤの悲鳴が、あたり一帯に響いた。
その音に、心臓が跳ね上がる。俺は全力で駆け出していた。
角を抜けた先、交差点。
見えたのは、道路にうずくまる一人の少女。
ひなた――!
彼女の身体が地面に崩れ落ち、白いイヤホンが片耳から外れていた。交差点の端には急ブレーキで止まった乗用車。その運転手が青ざめた顔で降りてくる。
「おいっ、大丈夫か!? おい!」
叫ぶ声。サイレンの音が遠くから近づいてくる。
俺は彼女に駆け寄った。地面に両膝をつき、彼女の顔を覗き込む。
「……藤崎!」
彼女のまぶたが、微かに揺れる。
「……田中くん?」
弱々しい声。でも、生きてる。
「大丈夫、俺がいる。すぐ助かる」
「ふふ……私、やっぱりついてないな」
彼女の目に、うっすらと涙が浮かんでいた。
「なんで、ここに……来たの?」
「……お前が、来るって分かってた」
彼女の唇がかすかに動いた。
「田中くん、未来、見えてるんだよね……?」
「……ああ。お前が死ぬの見た」
「じゃあ、これ……止めに来てくれたんだ」
「当たり前だろ。誰が……誰が、お前なんかに死なせるかよ」
震える声で叫ぶ。涙が頬を伝った。17歳の涙じゃない。43歳の俺が流した、人生のすべてをかけた涙だった。
彼女は、微笑んだ。
「私、やっぱり……田中くんのこと、好きかも」
その言葉が、胸の奥に刺さった。
「だから、生きて。頼むから、生きてくれ」
救急車のサイレンがすぐ近くに来ていた。
彼女は意識を保ったまま、ストレッチャーに乗せられ、俺の手をぎゅっと握っていた。
「……お願い、もうちょっと、そばにいて」
「ああ。絶対に、離さない」
未来はまだ、壊れていない。
けれど、その音は確かに鳴り始めていた。
だからこそ、俺はこの命を懸けて守る。
――この子の、未来を。