彼女は笑っていた
日差しが教室のガラス窓を透かして差し込み、ノートの上に白い光がにじんでいた。
俺――田中信吾、現在17歳(肉体年齢)は、倫理の授業中、黒板の文字を眺めながら、内容を一切理解していなかった。
理由は単純だ。
藤崎ひなたの後頭部が、目の前にあるから。
「……」
昨日の帰り道、彼女がふとこぼしたあの言葉が、頭の中で何度もリフレインする。
『壊れたくないだけ』
あれは、笑顔じゃなかった。必死に自分を守ろうとする、痛みに近いものだった。
だとしたら、彼女の周囲で、何が起きてる?
「田中くん、なんかジッと見てた?」
授業が終わるチャイムと同時に、彼女が振り返った。
「あ、いや……ただの考えごと」
「ふふ、変な人。私の髪になんかついてた?」
「いや……そうじゃない」
何気ないやりとりの中にも、彼女の明るさはあった。だが、あれが仮面だと知った今、簡単には騙されない。
俺は、もっと深く知りたいと思った。
彼女の、本当の顔を。
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昼休み。俺は少し無理をして、彼女を屋上に誘った。
「ねぇ田中くん。最近、私のこと気にしてる?」
「……そう見える?」
「うん。ちょっとストーカーっぽい」
笑って冗談を言う彼女は、昨日よりずっと自然に見えた。
けど、今度は俺が笑えない。
「藤崎……君、家ではちゃんと眠れてる?」
「……うーん、半々かな。お母さん夜の仕事だから、帰ってくる時間バラバラで」
「何か困ってることないか?」
彼女の笑顔が、一瞬、止まった。
「ねぇ田中くん。そういうこと聞くの、ずるいよ」
「……ずるい?」
「心配されると、優しくされると、私……弱くなるじゃん」
風が吹いた。彼女のボブカットが揺れ、影が顔を隠す。
「強くいないと、崩れちゃうんだ。だから私、笑ってるの」
その言葉に、胸が締めつけられた。
十七歳のはずなのに、彼女はまるで、大人みたいな目をしていた。
「じゃあ、俺はどうすればいい?」
「……え?」
「君を助けたくて、でもどうすればいいのか分からない。でも放っておけない。そんな俺は、どうすればいい?」
彼女は、しばらく黙っていた。
それから、ぽつりと言った。
「……じゃあ、せめて一緒に笑ってて」
「それだけで、私はちょっとだけ強くなれるから」
俺は頷いた。何もできなくても、そばにいることならできる。
それが彼女を救う一歩なら、何度でもそうする。
この時間が、彼女の死を止めるためのカウントダウンであったとしても。
チャイムが鳴る。屋上の扉が閉まり、俺たちはゆっくりと階段を下りた。
この瞬間も、時間は進んでいる。彼女の運命に、確実に近づいている。
でも――
もし、それが止められるのなら。
何度でも、立ち向かう。
放課後、藤崎ひなたは「寄り道しよっか」と言って、俺を小さな公園に誘った。
ブランコが錆びついてきしむ音。砂場は誰にも踏み荒らされず、静寂に包まれていた。
「ここ、小さい頃よく来てたんだ」
彼女は、ブランコに腰掛けて、ゆっくりと体を揺らした。
その姿が、どこか儚く見えて――俺は、言葉を選びながら口を開いた。
「……藤崎。君って、何か……ずっと抱えてるよな」
「……うん、たぶんそうだね」
彼女の声は、風に消えそうだった。
「家ね、あんまり楽しくない。お母さん、夜の仕事してて、家にいない時間の方が長いし。お父さんは、小学生の時にいなくなった」
「……そうだったのか」
「誰にも言ったことないけど……私、時々、全部終わればいいのにって思うことあるんだ」
笑いながら言ったその一言が、俺の中に雷のように響いた。
「……それ、冗談に聞こえない」
「うん、冗談じゃないもん」
淡々とした彼女の声に、俺は握っていた拳を強く閉じた。
――未来の彼女は、本当にそれを選ぶ。
だから今、ここで変えなければ。
言葉が詰まった。でも、それでも言わなきゃならないことがあった。
「……俺、君がいなくなる未来を知ってる」
「え?」
「……本気で言ってる。信じなくていい。でも、君は、この先……」
その先が言えなかった。ひなたが、目を見開いていたからだ。
しばらくの沈黙のあと、彼女は微かに笑った。
「そっか。田中くん、未来から来たんだ?」
「……そうだよ」
「……じゃあさ、未来の私は……笑ってた?」
その問いに、俺は嘘を吐かなかった。
「……君は、誰にも頼らずに、最後まで笑ってた……でも、本当は泣いてたと思う」
彼女は静かに視線を落とし、そして、ブランコから降りて俺の目の前に立った。
「ありがとう、田中くん」
「え……?」
「私のこと、見てくれてるんだって、ちょっと思えた」
夕陽が差す。彼女の笑顔は、ほんの少し、本物に近づいていた。
その夜、俺は夢を見た。
過去の記憶なのか、未来の記憶なのか分からないけど――
病室で、誰かの手を握っている少女の姿。
それが藤崎ひなたであることは、直感で分かった。
笑っていた。
でもそれは、誰にも届かない場所での、最後の笑顔だった。
目が覚めて、朝日が部屋を照らしていた。
17歳の朝。
この時間は、もう二度とこぼさない。
「……絶対に、君を救ってみせる」
その決意が、胸の奥で灯り続けていた。