目を覚ませば17歳
人間、人生に疲れすぎると、朝の通勤電車ですら刃物みたいに思えてくる。
ホームに立った俺、田中信吾・四十三歳。冴えないスーツ姿に、冴えない人生の疲れを背負いながら、ただ線路を見下ろしていた。
「……何やってんだろ、俺」
会社では尊敬もされず、家庭にはもう居場所もない。妻とはすれ違い、娘は病気で逝った。
心が折れるって、こういうことなんだろうなって思った。
ふと、電車が来る音がした。ゴオ――ッという風圧と金属の音。
あの一瞬、世界がスローモーションになった。
そして俺の視界は――真っ白になった。
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「……おい、田中。起きろって」
誰かが俺の肩を叩く。目を開けると、そこには高校の制服を着た見知らぬ男子生徒がいた。
「は?」
「なに寝ぼけてんだよ。もうHR始まんぞ」
見渡せば、そこは古びた教室。黒板、木製の机、外から差し込む昼下がりの陽光。窓の外には桜の花びらが舞っている。
目の前にあるのは、俺が十七歳だった頃の、あの教室だった。
「え……ここ……高三の教室……?」
鏡を見ると、自分の顔が十七歳になっていた。
「ふざけんな……夢か? いや、違う……」
掌を叩く。痛い。頭もはっきりしている。
夢にしてはリアルすぎる。現実にしては荒唐無稽すぎる。
でも、どうやら――俺は、過去に戻ってしまったらしい。
昼休み。俺は校舎の屋上で、一人ぼんやりしていた。
混乱はしていたが、心のどこかで、確かに感じていた。
「もう一度やり直せるなら、あの時の自分に……何か伝えられるかもしれない」って。
「やっぱり、ここ好きなんだ」
ふと、背後から声がした。
振り向くと、そこにいたのは一人の女子生徒。制服の襟を少し崩し、風に揺れるボブカット。大きな瞳に、どこか無理をしたような笑顔。
――藤崎ひなた。
確か、俺のクラスにいた女の子だ。よく笑うけど、あまり深く付き合う人がいなかったような……
「え、ああ。ここ、静かだから」
「うん。あと、空がちゃんと見えるし」
彼女は隣に腰を下ろした。風が吹いて、彼女の髪がふわりと揺れる。
俺はなぜか言葉に詰まった。
見てはいけないものを見ているような――いや、今ここにいるべきじゃない誰かに触れてしまったような、そんな感覚だった。
「田中くん、だっけ? ……なんか、変わった?」
「え?」
「前より優しい目してる」
冗談っぽく笑った彼女の瞳は、どこか寂しげだった。
――この子は、死ぬ。
それは、確かな未来の記憶。
あのときニュースで見た。藤崎ひなた、交通事故で死亡。時間は放課後、場所はこの学校からの帰り道。
まさか……このタイムリープって、彼女を助けるための……?
それとも、何かの罰か。
ただ、今この瞬間だけははっきりしている。
彼女の命を救えたら、俺の人生にも意味が生まれる気がした。
「藤崎……ひなた」
「うん?」
「君のこと、少し教えてくれないか」
彼女は驚いたように目を丸くして、それからまた、少し寂しげに笑った。
「……変な人。でも、いいよ」
――それが、始まりだった。
そしてこのとき、俺はまだ知らなかった。
この出会いが、何度も繰り返す「別れ」の始まりだということを。
放課後。オレンジ色の光が教室の窓から差し込む。生徒たちの喧騒が少しずつ遠ざかっていく中、俺はまだ机に突っ伏していた。
頭が混乱していた。自分がなぜ過去に戻ったのか、どうして藤崎ひなたと再会したのか。けれど、それ以上に、俺の中に残ったのは彼女のあの笑顔だった。
「前より、優しい目してる」
たったそれだけの言葉が、胸に深く刺さって離れなかった。
俺はふと、席を立ち、下駄箱へ向かった。
校門の先で、彼女が待っていた。
「やっぱり来た」
笑うひなたは、今日も明るかった。だけど、やっぱりどこか無理しているように見える。
俺たちは並んで歩いた。春の風が冷たく、桜の花びらが舞い上がる。
「田中くんってさ、昔からこんな人だったっけ?」
「どうだろうな。最近、自分でも分からなくなる」
「でも、なんか……あったんでしょ?」
「……うん。ちょっと大事なものを失くした」
「そっか……私も、似たようなもんだよ」
声が、風にかき消されそうなほど小さかった。
俺は歩く足を止め、思わず聞き返した。
「ひなた……君、なにか抱えてる?」
彼女は立ち止まり、夕陽の中で小さく笑った。
「ねえ、田中くん。人って、どこまで一人で平気だと思う?」
「……分からない。俺も、ずっと一人だったから」
「でも、誰かが手を伸ばしてくれたら、変われるのかな」
その横顔には、強がりと希望が同居していた。
――この子は、ずっと誰にも言えずに、笑ってきたんだ。
その笑顔の下に、どれだけの涙が隠れていたんだろう。
そしてその涙は、未来で命を絶たれるほどの絶望に、つながっていく。
「ひなた」
「ん?」
「君が笑ってるのって……本当に、楽しいから?」
彼女は驚いたように目を丸くし、それから少しだけ寂しそうに、唇を噛んだ。
「ううん。壊れたくないだけ」
その瞬間、俺は確信した。
この子は、自分の心を守るために、笑ってるんだ。
――守らなきゃ。俺が、彼女を守らなきゃ。
だけど、それが簡単じゃないことも、同時に理解していた。
彼女の家庭環境、孤独、そして未来の死。
変えられるのか? 俺なんかに。たった一人で、すべてを。
いや、違う。
やれるかじゃない。
――やるしかないんだ。
その夜。眠れずに空を見上げた。
十七歳の空は、あの頃と同じで、どこまでも高かった。
あのときは何もできなかった。
でも今度こそ――
「藤崎ひなたを……俺は救う」
小さく呟いたその言葉は、誰にも届かないけれど、俺自身の胸には確かに刻まれた。
目を覚ませば、過去は目の前にある。
やり直せる奇跡の意味を、今はまだ知らない。
だけど、それでも。
俺は、彼女を助けたいと思った。