たった一つだけ手に入らない物
「…足りるのか」
「……はい」
外面ばかり良いこの男を相手にするのは、正直うんざりだった。
これでも友人はいたしそれなりには本気だったから黙って見ていたが、少しばかり売れた途端に謙虚さが搔き消えたものだからその友人とやらも去って行ってしまった。
「今度こそ、アクセサリー販売で一山当てて返すから!」
「…………」
そのアクセサリー輸入で一山当てるつもりが独断専行を働き有能な部下に去られ、会社を潰した男が何を言うのか。
この男の兄も弟も、かけたくもないサングラスの下で冷たい目線を浮かべたかった。
自分がこのしょうもない男に向ける以上に、冷たい目線を向けられている事を知っているから。
この男が会社を潰して抱えた負債、1億円。それこそ残る生涯を全うに働いても返せるかわからないほどのそれも、100垓円と言う存在からしてみれば小銭も小銭だった。100兆円もあるのに1円を惜しむのは、倹約ではなく吝嗇である。
そして、厳格ではなく自己満足でもあった。
元から二十半ばになっても人に使われるのはやだとか言って放蕩生活に明け暮れ、三十路過ぎてやっと起業したと思ったらこの有様の男など、本当は助ける義務はないしその気もない。
しかし、ノブレスオブリージュと言う言葉の魔力には勝てなかった。
本来なら、自業自得の四字熟語だけ投げ付けて放っておきたかった。
だがそれこそ、世界中の「恵まれない子供たち」に寄付しまくった所で100垓円などと言う金が使い切れる訳もなく、それこそ偽善者とか八方美人とか言う烙印を押されかねない。
「僕らが係長と平であるのもまた欺瞞だと言われているんですよ」
「シーッ!」
弟が兄に苛立ちをぶつけようとするが、係長である長兄の反応は「黙れ」でしかなかった。
100垓とか言う金を持っている以上、20億ですらお遊びでしかない。それこそ多くの不出来な二代目・三代目様が社を潰して来たように同じ道をたどった所でいくらでも復活できるのになぜそうさせずに未だに係長や平社員にしているのか、それこそ偽善ではないのかと言う評判が既に流れ出していた。
(これが甘やかしではなく保身行為になるとはな……)
家族一同、嘆くしかなかった。
既に後継は独立時から付いて来た今の専務だと決める程度には清廉潔白だったはずのに、この金で全て狂った。
1億円の負債を肩代わりした所で、あと99垓9999京9999兆9999億円ある。もちろん税金で相当持って行かれはするだろうが、世間様の目はとにかく冷たい。
「別にさ、お前のために払ってやったんじゃないからな、勘違いするなよ!」
まごう事なき本心だったはずなのに、ものすごく安っぽく聞こえた。
どこかの漫画やライトノベルにあふれているような、素直に好きと言えない女子高生とかが強引に絞り出したような愛の言葉。
本当の本当に、保身だけのための言葉だったはずなのに。
両親兄弟四人を含む会社内の誰もが、言葉が正確に伝わらない現実を嘆いた。
もしかして100垓円とか言う金が、このためだけに舞い込んで来たとしたら。
そして、その100垓円がもし、戦争の兵器や麻薬や犯罪の道具から供出されているとしたら——————————。
そのなおの事悪い想像を振り払うように、この放蕩経営で身上を潰したバカへの手切れ金を払って帰る事にしたかった。
だが、それでも問題は止まない。
100垓円と言う無限に近い現金を本来受け取るべきは自分たちではあるが、それこそ自分たちを支えている存在を蔑ろにはできない。
社長としてどうするかとなると、どうしても給料袋の中身を分厚くする事しかできなくなる。いくら休暇などの福利厚生を充実させても限度と言う物がある以上、それこそ結局のところそこに帰結してしまう。
なにせ100垓円だ、月給1億円を100人の社員に払っても年間1200億円、夏冬のボーナス各4か月分を入れてもほんの2000億円であり、単純計算で500億年払い続けられる計算になる。太陽が消えてなくなるまで50億年しかないのにだ。
年収20億とか言う桁外れをやったとしても使いきれないほどの金を、どうすれば消費しきれるか。それこそ宇宙旅行でも50億とか言われており、あるいは世界中の建物や土地と言う土地を全部買収してもまだ余るかもしれない。
「なあ、お前。頼むから、頼むから……」
借金を肩代わりしてやったくせに、土下座でもするような体勢で泣きわめく。
自分がどう思われているのかは六十三歳の男はわかっていた。だがそれでも、この言葉だけは言わなければいけないと思っていた。
「頼むから、頼むから……コツコツ働いてお金のありがたさをわかってくれ…!!」
「わかったよ」
至極真っ当な言葉だったのに。
誰もが言うべき言葉だったのに。
今の四人が口にするだけで、その重みは水素電子1個よりも軽く、耳に届くかさえも分からない。
このボンボン様をしつける事が出来ない自分たちの無力が、四人とも哀しかった。
「どっかの工場にでも放り込めばいいんじゃ」
「駄目だ。どうせ100垓の金を持つ一家の一族扱いされてヘコヘコされるのがオチだ。いくら上が厳しくしても横が放っておかない」
いくら愛は金には負けないとか嘯いた所で、それこそ文字通り桁が違い過ぎる。
自分たちが財布の紐を締めた所で、俗人たちはその財布の中身を求めて来る。無論そこまで人類に絶望する気もないが、1億円を1円同然の感覚で使えるようになってしまったと言うか使う事を要求されてしまった、世界一の大富豪国であるニッポンに住む世界一の金持ち一家に取り入らない奴がいない訳などない。
仮に二人っきりにしたとしても、住民を含む関係者様が飛びつく。と言うか、これから先数億単位の小銭を惜しめばええかっこしいの烙印を押され続ける事となる。
(……人生って何だろうな)
これまでの人生を否定された100垓と言う金を恨む事も出来ない元小市民の反戦主義者で平和主義者の社長様は、ただ重たい重たい体を引きずって歩く事しかできなかった。