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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

ヴァニティ・バグ

作者: 水無月 俊

 物語とは、読み手と聞き手が居て初めて成立するものである。

 シナリオは誰かが演じなければ成り立たない。誰かによって紡がれた物語は、誰かに読まれなければ存在しないのと同じだ。



 怒号が飛び交う。何かが割れる音がする。

 少女はただ、小さな身体をさらに縮こませて震えることしかできない。窓から漏れる街灯の光の落とす影がかろうじて向こうの出来事を伝えてくれているが、少女はそんなもの見たくも無いと言わんばかりに俯いていた。

 誰かが倒れた。音にびっくりして少女は思わず顔をあげる。そして目の前におもちゃのように転がって来たそれが視界に入り、少女はそれに釘付けになった。

 何も知らない少女は、見たこともないそれに手を伸ばす。好奇心もあったのかもしれない。

 それはゴツゴツとしていてずっしりと重い、鉄の塊。文字通り、少女の手には余るものだ。

 だが、少女はそれを手にするなり、握り方を心得たらしい。ふらつきながらも立ち上がり、力無くぶら下がった腕でそれを握った手を運ぶ。

 誰かが叫んでいる。いつの間にか少女は喧騒の目の前にいた。

 取っ組み合っている大人が数人。叫んでいた女性の首元を掴んでいる、黒いマスクを被った大男が少女に気付いた。

 その大男は目の前の女性を殴り、床に捨てた後、振り返りざまに懐から銃を取り出して、少女に向かって構えた。

 再び叫び声がする。だが少女は逃げない。それを見た少女はそれが自分の持つものと同じだと気付き、両手で握るそれを前に突き出し、その勢いでトリガーを引いた。

 時が止まったようだった。

 反動で両手を挙げて後ろに転がった少女と同じ姿勢で、大男もまた後ろへ倒れていく。

「あはははは———」

 起き上がった少女は、大男がピクリとも動かないことを見て確認し、口を開いた。

 だがその声もまた叫び声でかき消される。少女は自身の横から勢いよく走って来た別の男に気付き、一瞬の躊躇いも迷いもなく再び手の中の銃を構えてトリガーを引いた。

 返り血を浴びながら少女は、初めての感覚に身を震わせた。自身の倍もあるような大人が、引き金を引くだけで倒れていく。

 先ほどまで叫んでいた女性が、事態の終息をいち早く感じ取り、少女に向かって駆け出そうとした。

 身体を起こして一歩踏み出そうとしたのと、三度目の銃声が響くのはほとんど同時だった。

 隣でそれを見ていた男性も身体を起こそうとしたが脳天を鉛玉で貫かれ、それは叶わなかった。

「あははは———」

 一人、少女は笑う。

 遠くでサイレンの音が聞こえる。

 口を開けたまま少女はフラフラと血溜まりの中を歩き、そのまま濡れた靴下を鳴らしながら廊下へ出る。

 そこには姿見があった。少女は鏡の中の自分の姿に気付き足を止めた。

 だが写っていたのは知らない姿だった。お気に入りのワンピースは薄暗い中でも分かるほど赤く煩雑に染まり、頬まで跳ねた赤はまるで涙の跡のようだった。

 これが自分なのだろうか。少女はふと冷静な思考を取り戻す。

 不釣り合いな拳銃が目に留まる。

 いつまで握っているのだろう。そう思うが、手はそれを離そうとしない。

 サイレンの音が近付いて来ている。

 どうしよう、と少女は考える。

 もう一度鏡を見る。

 鏡の中の少女は血に塗れながら、まだ笑っていた。

 少女はそれが気に入らなかった。手の拳銃を突きつけて引き金を引く。

 派手な音を立てて鏡はただのガラス片へと化した。

 だが、その欠片ひとつひとつに写る少女はまだ笑っている。

 少女は嫌気がさしてその場で座り込んだ。

 

「あははははははは」

 笑い声が聞こえてくる。

 ガラスの刺さる足が痛い。

 それ以上に声がうるさくて耳が痛い。

 耳を塞ぎたいが、手の自由は戻らない。

 目を閉じて痛みに耐えようとするが、頭の中で響く音が大きくなっただけだった。




 そして、静かになった。





**


「はい、それじゃあプリント回して」

 季節は秋。

 衣替えが始まり、長袖の制服が戻って来たもののまだ暑い時期。

 冷房だけはまだ消せないでいる教室の教壇で、先生は生徒たちに紙の束を渡している。

「お父さんお母さんとよく話をして、明日、書いて持ってくるように」

 教室は顰蹙の嵐が一瞬、そのあとは口々に将来への不安を呟いていた。

「はいはい、その調子で家でも不安や不満を打ち明けなさいな。じゃあ、今日は終わり。日直、挨拶!」

 起立、礼、先生さようなら。

 儀式のような挨拶を終え、教室は一気に放課後の雰囲気が漂う。

「ねぇ、橘花さん」

 窓際で荷物の残りをカバンに詰めていた少女に声をかける女生徒がひとり。

「このあと、駅前でクレープ食べに行くんだけど、良かったら———」

「———ごめん、今日はこのあと、図書委員の仕事があるから」

「そ、そうだよね。こっちこそごめんね、忙しいのに」

 それじゃあ、と女生徒は足早に去っていってしまった。

 いつの間にか教室でひとりになっていた少女、橘花は小さくため息をついて、首につけたチョーカーを撫でた。

 嘘をついた訳ではない。橘花は本当に図書委員のひとりであり、今日は小さな仕事が用意されていることも事実だ。

「こんにちは」

 いわゆる司書と呼ばれる職に就く人が座る席に今日も少女がひとり座っていた。橘花はその子に声をかける。

「あ、薫ちゃん。こんにちは」

「詩織、今日は何書いてるの?」

「今日はね、この間、話してくれたあの話」

「ああ、あれね。まだ続き書いてるんだ?」

 橘花は司書席の少女、詩織の前に座る。

 図書委員会の仕事は基本的に、返却された本の整理と貸出の対応。だがそれはここを居場所にしている詩織の仕事だ。だから他の図書委員の仕事はほとんどないに等しい。

 それ故に他の図書委員はほとんどが幽霊部員だ。それは橘花にとっても詩織にとっても都合の良いことだった。

「せっかく今日、また続きのプロットを話そうかと思ってたけど、その様子だとまだ良さそうかな」

「な、そ、そんな!? つ、続きがあるなら、聞かせてよ!」

 詩織は焦ったようにそう言う。橘花はクスと笑うと、「そう言ってくれると思った」と言いながら、カバンからシンプルな手帳を取り出した。

「次のターゲットは、悪徳企業の御曹司」

「……また、すごいところを狙うんだね」

「そうなんだ。彼らは相手の弱みに漬け込んで利益を得ている。それも、違法なまでに」

「そこを強調するってことは……きっと方法も正しく無いんだよね?」

「さっすが詩織、その通り。実は彼らは裏で犯罪組織と手を組んでいた。恐喝、暴行、脅迫、そんなものは彼らの常套手段でしか無い」

 そこまで聞いて詩織は少し目を閉じて何かを考えるそぶりを見せた。気になった橘花は話を止めて詩織の反応を待つ事にした。

「……それって、その御曹司の指示なのかな? そもそもその事を知ってるの? それに……仮に制裁が下ってその会社がなくなっちゃったら、その御曹司はどうなっちゃうの?」

 橘花は少し驚いた。詩織の興味が、その組織をどう解体するかではなく、解体された後の話に向けられていたからだ。橘花は少し考えて答えてみた。

「……これまでも、沢山の人を葬り去ってきた。檻に入れて反省の機会を与えるのも良いかもしれない。けどこれまでその選択肢を選んだことはなかった」

「主人公、パルファムの話、だよね? ……これまでの話から推測するに、彼女は他人に全く期待してない。だから、きっと裁きを下しても、反省しないって考えてるんだと思う」

 橘花はまたも驚かされた。詩織にこうしてパルファムの話を聞かせることは恒例行事になっていたが、その行動の一部始終を話したわけではなかった。だから、詩織の中でキャラクターとしての解像度が上がっていた事に気付けなかったのだ。

「どうして、そう思うの?」

 だから気付いた時にはそう問いかけていた。

「彼女が、なぜ他人に期待しないのか? うーん、……それは彼女の行動から言えるかな。作戦はいつも単独で独断専行。会敵必殺で慈悲が無い」

「スパイって、そういうものじゃないの? 結局は現場での判断って言うか……」

「……確かに、そうかも。パルファムは孤高の執行者だもん。ひとりで居るのは不思議じゃないもんね」

(そう、秘密工作員パルファムはわたしと詩織の創作したキャラクターで、現実には存在していない。何も気にする必要はない)

 橘花はそっとチョーカーを撫でた。

「……それより、攻略パートを考えてよ、いつものようにさ」

「うん、そうだね。……今日もまた面白い設定だね。薫ちゃんは本当に凄い」

「そんなに褒めなくて良いよ。シナリオもその後の話も、全部詩織が書いてくれるおかげで、パルファムの話は続いてるんだから」

「ふふっ……薫ちゃんも書いてみれば良いのに」

 それでは意味がない。詩織が書くことが必要なのだ。そんな事は、口が裂けても言えないが。

 微笑みながら黙っていると、詩織は何かを思い付いたように口を開いた。

「……こういうのはどうかな? その御曹司はお城のような場所でパーティーを開くの。関係会社のメンツを立てるのと、自身の財力を知らしめるために」

「良いね。それで?」

「パルファムは一流企業の秘書のひとりとしてパーティーに潜入するの。まずは護衛の数と位置、そして脱出経路の確認を行う必要がある。いつものようにね」

「でも、会場は広いんだよね? あまりキョロキョロしながら動いてると、目立ってバレちゃうんじゃない?」

「それは大丈夫なんじゃないかな。一流階級のパーティーは、基本はダンスパーティが多いって言うし、中央はステージみたいになってて、その周りを歩いていける感じだと思う。人は外周に集中するし、移動もそんなに目立たないんじゃないかな……」

 橘花は想像してみる。体育館のような広さの会場をシャンデリアが照らしている。ドレスで着飾った女性が各々集まって歓談しているのが見える。

 タキシードやスーツを来た男性がちらほらと居る中で、サングラスをかけた、如何にもなボディーガードを見つける。ひとり、ふたり。

 巡回しているウェイターからシャンパングラスを受け取って一口含みながら、ゆっくりと外周を歩く。と、「こんばんわ、お嬢さん」声をかけられる。

「……パルファムの外見は薫ちゃんのを借りてるから、きっと、歩いてるうちに御曹司に声をかけられるんじゃないかな? 薫ちゃん美人顔だし、スタイルいいし、ドレスも似合うんだろうなぁ」

「褒めすぎだよ。でも、想像上のキャラクターだし、美少女過ぎるくらいが丁度良いかもね」

 声をかけて来たのはターゲットの御曹司。金髪に白スーツ。これもまたいかにもと言った出立ちだ。身長はヒール込みの橘花と同じか少し高いくらい。だが思っていたよりも幼い印象を受ける。もしかしたら、同い年くらいかもしれない。そんな御曹司がこちらに手を差し出している。

「パーティー会場で声をかけられたら、もちろんやる事はひとつ。中央に出て、クラシックの生演奏の中、華麗にワルツを踊るの。きっとパルファムはフリフリの可愛いドレスじゃなくて、機能性の高そうな大人な感じのを着てるのかな。ちょうどその中間くらいかも。でも踊るのに衣装なんて関係ないよね。だってパルファムは一流のダンスも心得ているから」



 手を取り中央に文字通り躍り出た二人は、タイミングを見計らったようなクラシックの音色に足を動かされ、華麗なステップを踏む。

「お嬢さん、どこの娘かな? 今日が初めて?」

 御曹司が踊りながら尋ねてくる。音楽とステップの音が鳴り響くホールでは、密室で会話しているのと変わらない。

「あら、忘れてしまったの? わたしは……」

「いいよ、大丈夫。キミのように可愛い子を僕が招待し忘れるわけがない。歓迎するよ」

 その返答はどちらとも取れた。でも目の前の女性がまさか自分の命を狙ってるとは思わないだろう。パルファムは何も言わずに微笑んだ。

「でも、もう少しリラックスした方がいい。こういう場所は初めてだろう? 良ければこのあと、館内を案内しようか? それとも、」

 御曹司はパルファムを抱き寄せて耳元で呟く。

「それとも、もう地図は予習済みかな?」

 突き放すようにパルファムは距離を取ろうとするが、繋ぐ手がそうさせない。

「良いね、その顔。気に入ったよ。だけどここで騒ぎを起こしたくないなら、もっと楽しそうにしないと。まさか、ポーカーフェイスを忘れた訳じゃないよね?」

(こいつ……どこまで気付いてる? それとも、ただのハッタリ? 何者なの……⁉︎)

「……悪いけど、僕は一度見た人の顔は絶対に忘れない性格タチでね。それに、最近のアイツらはやり過ぎた。あらゆる方面に敵を作っていることも知っている」

「アイツらって?」

「キミは知ってるんじゃないのかい? 僕の会社の事情ってやつをさ」

「……良いの? ただの一秘書にそんなこと話して」

「その返答が答えだよ。僕はもう、確信を持ってキミと話すことができる」

 曲が終盤に差し掛かっている。そして、パルファムにも選択の時が来ていた。

「……どこで気付いたの?」

「言った通り、キミは初めましての娘だった。だからもしかして、と思って賭けたのさ。もちろん、声をね」

「冗談が好きなら、さっきまでの独り言は冗談って事にしてあげる。わたしはただの秘書、あなたの会社の事情なんて知らない」

「誤魔化さなくて良い。この賭けは僕が勝ったんだ。キミは僕に看破されて、部外者だって事がバレた」

「でも、それを今知っているのはあなただけ。残念ね、あなたは死ぬのが少し早くなった」

「おいおい、ターゲットは僕なのか? ちょっと待ってくれ」

 パルファムが動きを見せた瞬間に御曹司はステップを崩して彼女に姿勢制御を強要した。

 その隙に肉薄し、手を自身の前で握り合わせ、行動を制限する。主導権は既に御曹司の方にあったのだ。

「取引をしよう。その銃を抜く前に」

「あなたとやり取りはしない。一方的に命を奪われて」

「それはできない相談だな。僕はまだやらなくちゃならない事がある。そしてそれはキミのやりたい事の一部のはずだ」

「わたしの目的はあなたを殺すこと。あなたは自殺したいわけ?」

「そうじゃない。そうじゃないだろ、キミの目的は。それとも、僕の期待はずれか?」

「……本当なんだね、犯罪組織と繋がってるって」

「ああ、認めよう。だが僕はそれを良しとしていない。いずれ僕のものになる会社の癌は消しておきたい。でも僕は無力だ。けどキミにならできる。そうだろ?」

「……あなたはこの先の未来を見ない方が良い」

「だから殺すのか? だったら僕をみくびり過ぎだ。それとも……キミが優し過ぎるのか?」

「冗談はやめて。とてもじゃ無いけど、その組織を解体した後にあなたの会社は存続できない。分かっているでしょう?」

「でも、100%じゃない。そうだろう? 僕を舐め過ぎなんだよ。……誓っても良い。キミがもし癌を摘出してくれるなら、僕は必ず会社にまともな道を歩かせる。それが何年掛かっても、僕が血反吐を吐くことになってもだ」

「……本気なの?」

「そうじゃないなら、キミにわざわざ話をしたりしない。僕は黙ってこの会場から消えて、キミを取り押さえる事なんて簡単にできる。でも、そうしなかった」

 曲が終わり、互いにお辞儀をする。周りからの拍手喝采を受ける。

「2階のVIPルームを用意する。殺しに来るというなら、それでも良い。待ってるから」

 去り際に耳元で御曹司はそう残し、人混みの中へ去って行った。



「ターゲットの方から接触されたからって、反応がオーバー過ぎたんじゃないかな。確かに、館内地図の載っているパンフレットが置いてある美術館じゃあるまいし、初めて来て地図を覚えてるか?って聞かれたら警戒する気持ちは分かるけど」

 詩織からのありがたいお言葉に橘花は苦い顔をした。

「パルファムだって人間の女の子なわけだし、驚きもするよ」

「うん、それはそうだと思う。パルファムはカッコいいけど、そういうところに人間味を感じられるのは良いことなのかもしれないね」

 うんうん、と詩織は頷いている。物語の紡ぎ手が納得してくれたなら良いかと、橘花はほっと息を吐いた。

「次のシーンはメイン会場から少し離れて、御曹司から指定のあった部屋に向かうところだね」

 詩織はノートのページをめくった。

「……確かにあの場ですぐに御曹司を射殺することはできたかもしれない。けど、まだ敵の数が把握できていない状況で、ましてやハンドガンだけで大多数の目撃者の全てを殺すなんて、流石のパルファムでも難しいと分かっていた。だから、場所を移すチャンスを黙って受け入れる事にしたんだ。もちろん、誰にも気付かれないように」




 人混みから誰にも悟られずに抜け出すことは、パルファムにとって容易い事だった。理髪師に髪を切らせるのと同じくらい簡単だ。

 メインホールから離れると一気に雰囲気が変わり、華やかな印象から一転、まるで真夜中のビルに忍び込んだかのような緊張感が漂ってくる。このなんとも言えない緊張感は何度こうしても慣れないし、慣れちゃいけない感覚なのだと、パルファムは自覚している。

 指定された部屋は二階にあるので、素直に階段を上がり、誰もいない廊下を歩いて探すことにした。不気味なくらい誰も居ない。見張りの一人や二人居てもおかしくないが、御曹司が何か言ったのだろうか。

「ここだね……」

 拍子抜けするほどスムーズに部屋に辿り着いた。この扉の向こうにどれだけの罠が仕掛けられているかと思うと、パルファムは胃が痛かった。だが、罠と分かってから銃を手にしても遅いという事はない。

(……それに、御曹司はああやって言うけれど、結局は自分が助かりたいだけなんじゃ無いかな)

 『誓っても良い』、彼はそう言った。その言葉を信じて良いのだろうか?

(『彼女は他人に全く期待してない』、か。確かにそうかも。わたしが彼を生き残らせたとして、彼がこれから成功まで旗を振って導くとは思えない。けど……)

 悔しいとか、むかつくとか、そんな感情的なものでは無かった。どちらかと言えば、認めたく無い、否定したいという気持ちがあった事の方が大きいのだろう。

「これが、最後だから」

 パルファムはその扉を開けた。

「やぁ、待ってたよ、可愛いお嬢さん」

 出迎えてくれたのは御曹司ひとりだった。足元に鼠取りがある訳でもなく、天井から針が落ちてくる訳でもなく、壁から銃口がのぞいている訳でもなく、ただ、部屋の奥で彼は立っていた。

「答えは決まったかい? それとも、まだ迷ってる最中かな」

「……まずは」

「うん?」

「まず、取引の内容を聞く。それから考えさせて」

「うん、賢明な判断だね。話を聞く気になってくれて嬉しいよ」

 御曹司は爽やかに笑うと、そのまま手を挙げるでも近付いてくるわけでもなく、続きを話した。

「改めて言わせてもらうけど、確かに僕の会社の主な収入源は今や犯罪組織の持ってくる汚れた金だ。そいつを洗浄することで利益を得ている。けど、今日来ている関係会社には手を出させてない。少なくとも、僕が知る限りこの“ビジネス”は僕の会社だけが行なっている」

「続けて」

「僕はやっぱり、こんなのは間違ってると思うんだ。いずれ僕のものになる会社には、あるべき姿でいて欲しい。その代償に、僕の人生を引き換える事になったとしても」

「……わたしは」

「うん?」

「わたしは、あなたをどうすれば信じられる? その言葉が嘘じゃ無いって、どうすれば信じることができるの?」

 御曹司は驚いた様子で口を開けた。だがすぐに余裕そうな笑みを浮かべた。

「……僕はね、信用は最も大切なパラメーターだと思っているんだ。だからこそ、キミの信用を得るために手段を選ぶつもりはない。でも、その前にひとつだけ聞かせてくれ」

「なに?」

「キミは、ひとりか?」

 御曹司の睨むような、試すような目がパルファムの目を捉える。パルファムはその目を見ながら考えた。

 素直に答えるなら「YES」、正確に答えるのであれば「NO」だ。

 オペレーターも、頼れる仲間も、ここには居ない。そういう意味ではひとりだ。

「……キミのチョーカー、気になってたんだ。それは普通じゃない。通信機なのかい?」

「そうとも言えるし、そうとも言えない。……正直に話すと、これはわたしの雇い主がつけた首輪なんだ。アイツの裁量でわたしの首から上は無くなる」

「それは……また恐ろしいものをつけてるんだね。話してくれてありがとう」

 御曹司は少し考えるそぶりを見せた。パルファムはチョーカーを撫でながらその様子を見ていた。

「……まだキミの首が繋がっているのを見るに、この状況をキミの主人は知らないらしい。それもあってキミはここへ、この先どうするかを決めに来た。そうだね?」

 パルファムは頷く。空気が緊張していくのを二人とも感じていた。

「状況が分かったところで、本題に入ろうか。……キミに信用してもらうために、まず僕がキミを信用する。だから、キミへの援助は惜しまない。好きな武器を言ってくれれば、どこへでも届けよう。組織図や奴らの潜伏場所の情報が必要なら全て渡す。僕が知ってる範囲の情報で、だけどね」

 パルファムは考える。支援物資はもちろんありがたい。情報も出るのなら、手っ取り早く組織を解体する事ができる。聞いただけなら、こちらにメリットしかないようにも感じる。

「どうだい? 少しは僕を信用してくれる気になったかな?」

 御曹司は答えを急かす。パルファムはため息をついた。

「……分かった。犯罪組織の場所が分かるのなら、今夜は見逃してあげる」

「ありがとう。その言葉が聞けただけで嬉しいよ」

「早速だけど、帰りの切符が欲しいの」

「車でも手配しようか?」

「そうじゃない。アサルトライフルを1……いや、2本ちょうだい」

「おいおい……まさか会場で2次会をやるつもりかい?」

「出せないの? どこへでも届けてくれるんでしょう?」

 今度は御曹司がため息をつく番だった。指を鳴らすと、壁の本棚が開き、中から壁にかけられた武器たちが姿を現した。

「キミと撃ち合う気はない。僕の分は良いから、好きなものを持って行ってくれ。それと、これは僕の連絡先。ここに連絡してくれれば、武器と場所の情報を提供する」

 パルファムは武器屋のように並んだ銃たちを眺め、目に留まったアサルトライフルを手に取った。

「運が良いね。わたしの姿を見て生き残る人は殆どいないのに」

「確かに今日の僕は最高にツいてる。こんなに可愛らしいお友達ができたのだから」

「友達? わたしが、あなたの?」

「そうさ、マイフレンド。利害関係の一致した僕たちはもう友達さ」

「ふーん」

 パルファムは興味なさげに返事をすると、準備を終えたのか、扉の方へ歩みを進めた。

「……あなたは今日ここで死んだ。もしやり直す気があるのなら、新しい名前を騙って、新たな人生を始めることね」

「それで思い出したよ。キミのことは何と呼べば良いんだい?」

 少しだけ振り返って、パルファムはこう答えた。

「わたしは秘密工作員エージェントパルファム。さようなら。もう会わないといいわね」




「ねぇ、詩織」

「どうしたの、薫ちゃん。そんなに御曹司が気に入らなかった?」

「いや、そうじゃないけど、大丈夫なの? コードネームとはいえ、顔を知られた相手にここまで話すなんて」

「大丈夫よ。御曹司はパルファムに協力的だったし、パルファムの雇い主に悟られないようにアリバイ作りにも納得してくれたじゃない」

 詩織は楽しそうにそう話すが、やはり橘花は納得がいってなかった。せっかく穏便に御曹司を殺すチャンスが来たと言うのに、主の命令に背くような真似、いつ首が文字通り飛ぶかも分からないリスクを背負う意味が分からなかった。

「それに、今日パルファムがここに来たことを証言できる人は居なくなるもの。御曹司ただひとりを除いて」



 ここからがパルファムにとって最も簡単で、最も大変なシーンだ。パルファムはため息をつく。

 部屋を後にしたパルファムはまず初めに鏡を探した。フルパワーを出すためにはちょっとしたおまじないが必要だったからだ。

 ホールへ続く階段の踊り場に設置されている鏡がちょうど良かったので、パルファムはそこで足を止めて、鏡の中の自分と対峙した。

(あの時のわたしはまだ笑っているの? どんなに笑顔を作っても、心から笑えている気がしない)

 ドクン––––激しい鼓動が内側を叩いた。パルファムは思わず胸を押さえる。

 滲む汗が床に落ちていく。鏡から赤い何かが反射しているのを視界の端に捉える。それはチョーカーが発している危険信号だった。

(……頭の中がうるさい。あの頃から何も変わらない。この瞬間だけは、ずっと。これからも)

 ———早く解放して。その身体を返して。

 うるさい住人に返事をする気にもなれず、パルファムは諦めて目を閉じた。



 ゆったりとクラシックが流れるホールに、乾いた音が混ざる。そしてその直後、爆発音が全てをかき消した。照明が消え、爆煙が会場を包む。

 突然の事態にホールにいた皆が混乱していた。慌てて出口に駆け込もうとする人が居たが、その脳天が爆ぜて倒れてしまい、それは叶わなかった。

 音のした方に視線が集まる。銃声を鳴らしたのは、ドレスを着た少女。ただ、今日は両手に機関銃を構えていた。

 もしその姿を見て生き延びた人がいるのなら、あまりの衝撃に肖像画を描いて残していたかもしれない。それほどに印象的な光景だった。

挿絵(By みてみん)

 照明が消えた会場に、月明かりが差し込む。手榴弾の煙が部屋を覆い隠していくが、彼女の前には道ができていた。まるでステージのスポットライトに導かれるように彼女は中央へ歩き出す。両手の機関銃から弾を放ちながら。

 ワルツを踊るように放たれた弾丸は正確に逃げ惑う人たちの頭を吹き飛ばしていく。舞う血飛沫と流れ弾が作る破片が飛び散って、会場はますます混沌を極めていく。悲鳴と薬莢の跳ねる音が場を盛り上げる。まるで音楽が聞こえてくるようだ。

 出口は手榴弾で破壊して吹き飛ばし、逃げ場を失った人たちを一斉に撃ち殺していく。例のボディガードがすぐに反撃に出るが、それらも正確に弾き返されてしまう。跳ねた弾丸がシャンデリアに当たったのか、凄まじい音と共に床に落下した。巻き上がる粉塵の中で光る赤。それは彼女の首元のチョーカーだ。まだ彼女のバイタリティについて警告されているようだった。だがそれは一層彼女の姿を不気味にするスパイスにしかならない。

 ついに静まり返ったステージの中央で、シャンデリアの破片を背中越しに見ながら、あたりに動く影がないことを確認した彼女は、思い出したように息を吐いた。そして、膝から崩れ落ちて胃の中のものを全て吐いた。

 ようやく彼女のチョーカーは落ち着きを取り戻した。それは彼女が彼女自身を取り戻したことを意味する。

 パルファムは死屍累々を蹴り分けて出口へ進んだ。今日は店仕舞いだ。これだけ暴れておけば十分だろう。

 誰もいなくなったホールを後にして、外で待つ車に乗り込む。

「今日はまた、随分と派手にやったな」

 席に着くなり前の運転手に声をかけられる。パルファムは鼻を鳴らして「いつものことでしょ」と興味なさげに吐き捨てた。

「大丈夫、まだシナリオ通りの展開になってる。シナリオ通りにしているうちは問題ないよ」




「目撃証言ができる人を全て華麗に消したパルファムは、日を改めてから、御曹司に連絡を取るの。約束通り、組織を解体するための武器の調達と、組織の人が居る場所を聞くためにね」

 詩織は一番大変だった戦闘パートをあっさりと片付けて、次のシーンを描写していた。色々引っかかるところはあるものの、橘花は話の続きを促した。

「御曹司は早速連絡してくれた事に喜んでるんじゃないかな」

「どうだろう。関連会社のお偉いさんとか秘書の人、みんな殺しちゃったんでしょ? さすがに恨まれても文句言えないけど」

「仮に恨みを買ったとして、彼に何ができるの? もし復讐心があるのなら、パルファムに嘘の情報を流すこともできるだろうね。送る武器に爆薬を仕込んでおくこともできるかも。でもそれは、せっかく拾った命を自ら捨てにいくようなものだと思うんだ」

「……だから、御曹司は裏切らないって?」

「だから御曹司は何もしない。もし海外へ逃げる気が少しでもあるなら、連絡先は全くの嘘のものを渡しておくべきだったと思う。彼が暗号通信で返事をしてきた時点で、彼の中の決意は固いものだという事が分かるんじゃないかな」




 実際に、武器は指定の場所に貨物偽装して送り込まれた。それらを装備して、受信した位置情報の場所へ向かうと、確かにそれらしき建物にたどり着いた。

 パルファムは扉を蹴り破って中へ入った。

「誰だ!?」

 中はオフィスのようだが、そこに居る人たちからはただならぬオーラを発していた。パルファムは鼻を鳴らす。血と金と、邪悪な臭いがした。

「正気じゃない。こんな昼間から街中でドンパチやらされて、無事で済むわけない」

「何ぶつぶつ言ってんだ! 突っ立ってないで、さっさと出てけ!」

 近くにいたスーツの大男が歩いてくる。

 パルファムはため息をついて銃を抜いた。

「!?」

 その場の誰もが凍りついた。彼女が銃を握っていると認識した時には、スーツの大男は地面に倒れていたからだ。

「悪いけど、全員死んで」

 そこからの銃撃戦は特筆すべき点がないほどあっけなく、一方的な殺戮がなされて幕を閉じた。

 最上階で座っていた偉そうな男を射殺したパルファムは、動くものがないことを確認してようやく息を吐いた。

「やぁやぁ、さすがマイフレンド。見事な掃討ぶりだね」

 その直後、背後から声が聞こえてきて銃を構えようとするが、込み上げる吐き気を抑え込むのに精一杯になってしまい、動作が遅れた。

「おっと、君の見事な早撃ちは側で見させてもらってたけど、ここまでとは」

(避けられた……! 外した事なんて無かったのに……!)

「脳天に一発。正確過ぎるね。まぁ、そのおかげでまだ僕は生きてるわけだけど」

 開け放たれていた扉から入ったであろう御曹司はスッとパルファムに近づくと、撃った反動で振り上げられていたパルファムの腕を取り、そのまま床に押し倒した。

 パルファムの顔色は依然として悪い。気を抜いておまじないを解く直前だったこと、銃を抜いて殺せなかった相手に覆い被さられている状況に混乱していることからだろう。

「……何が目的? 取引は終了したと思うけど」

「そうだね、マイフレンド。この状況でも強気なキミは素敵だよ」

「冗談はやめて。あんたは武器と位置情報を提供した。わたしは犯罪組織を解体した。あんたは約束通り、会社を再建しにどこへでも行ったら?」

「そう冷たい事言わないでくれよ。僕は迅速な契約遂行に感謝の言葉を伝えに来たんだ」

「これが人に感謝を伝える時の作法なの? あんたは親から何を学んだわけ?」

「親は関係ないだろ。あいつらもあの場に居ればよかったのに」

 御曹司は一転、冷たくそう言い放った。パルファムは急に御曹司が態度を変えたことが気になった。だが今はそこに言及している場合ではない。

「……それで、何がしたいわけ? 今更、警察に突き出すなんて言わないよね?」

「警察に渡しても意味がない。それじゃあただの送り狼止まりさ。僕はまだキミを帰したくはない」

「どういう意味?」

「あれだけ派手にやられて僕が何もせずに逃げると思ったのかい? もちろん見てたよ。キミが警察車両に乗って帰っていくのをね」

「……っ」

「キミはそろそろ状況を理解した方がいい。取引は終わり、僕とキミは対等な関係になった。そして今、形勢は既に逆転したんだ。だからここで、キミについて答え合わせをさせてもらう」

 御曹司はパルファムを押さえつけたまま顔を近づけた。パルファムはようやく落ち着いてきた吐き気の代わりに湧き上がってきた嫌な予感に顔を歪めた。

「キミのことは調べさせてもらった。通常のネットワークでは出てこないから少しだけ苦労したよ」

「…………」

「キミの所属は警察庁特殊武装課第0班、通称"オルガン"の"アトマイザー"だね? いわゆる警察の用心棒。普通の武装じゃ相手にできない今回みたいなケースに駆り出される、使い捨ての兵器」

「………」

「キミの主人……"パフューマー"は随分とキミのことを気に入ってるみたいだね。肩書は最上のパルファム級。ここまで長生きする兵器は確かに重宝するだろうけど、どうも甘やかし過ぎたみたいだ」

「放して」

「まだダメだよ。大丈夫、ここまで僕が知ってることは、"紡ぎ手"は知らない」

「っ⁉︎ そんなことまで……一体どうやって……」

「"シナリオ"にない展開で焦ってるのかい? ……キミの"ノート"は少し特殊らしいね。中でも"栞付き"なんだとか」

「何をしたの⁉︎ そんな情報、誰から……」

「あまり警察連中を信用しない方がいい。キミは知らないかもしれないけど、キミのような人をよく思ってない輩は沢山いるんだ」

「……あいつら」

「心当たりがあるのかい? 心配しなくていいよ。そいつらは僕が消しておいたから」

「なっ……」

「キミは気付いてたよね。そしてこのシナリオを書いた紡ぎ手はずっと前から気付いてる。これだけ力のある犯罪組織をなぜハンドルできていたのか。なぜ今回、僕が狙われる事になったのか」

「……信じてたのに」

「裏切られたと思ってるのかい? それはキミの一方的な感情に過ぎないよ。でも、その言葉が聞けて良かった。一瞬でも信じてもらえたとすれば、それが最も僕にとって嬉しい事だ」

 余韻を楽しむようにはぁ、と御曹司は息を吐いた。「シナリオに戻ろう。筋書きから無闇に外れるのは良くない。そうだろ?」と呟く。

 パルファムは何も答えられなかった。

「僕は友達が多いんだ。だからキミのことをよく知れたし、キミがどうやってあの惨状を作り上げ、この虐殺劇を成し遂げたのか知る事ができた。……本当はここでキミを始末するつもりだった。けどキミは生き残った。だから気が変わったんだ。僕の新たな人生の幕開けに相応しい取引をしよう、マイフレンド」

「……もう、あなたとわたしは友達なんかじゃない」

「そうかい、それは寂しいね。だったら、僕の仲間にならないか?」

「なに?」

「二重スパイにならないかって聞いてるのさ。キミたちのやっている事には興味がある。僕も一枚噛ませて欲しいんだ」

「……でも、それは」

「僕の情報収集能力は分かっただろう? きっとキミたちの役に立てる。どんな凶悪犯だってゲームのテーブルに座らせてみせよう」

「じゃあ、あなたは?」

「うん?」

 パルファムが問いかけると、御曹司は訳がわからないと言いたげな表情をした。

「あなたは、それでどうするの? あなたの友達のいくつかを、わたしに殺されるかも知れない。そしたら、あなたはどうするの?」

 御曹司は少しだけ考えて、こう言った。

「また新しい友達を探せばいい。キミたちが思うほど、この世界は善人ばかりじゃない。けど、信頼できる人は沢山いる。たとえそれが、どんな凶悪な犯罪者でもね」

 その答えを聞いたパルファムは、この先のシナリオを思い出した。



「取引を受けたパルファムは、御曹司に自身が二重スパイになることを承諾し、その拘束から逃れた。そして御曹司が背中を見せた瞬間に彼は前のめりに倒れ込んだ。パルファムは容赦なくその脳天を弾丸で貫いたから。……残酷だけど、彼こそが最も凶悪で強大な力を持つ犯罪者のトップだったのだから、殺さない理由がない。今回のターゲットが彼だったのも、犯罪組織の解体が今回の目的では無かったことも、それが理由。……なぜ力を持った犯罪組織を自分の意のままに操る事ができたか? それは、彼らよりももっとすごい力が御曹司にはあったからだよ」

「結局、一度は見逃したけど、御曹司は殺すしか無かったんだね」

「そりゃあそうだよ。今回のターゲットは御曹司だもん。……彼は信頼を重んじた。相手が凶悪な犯罪者であっても、信頼関係を築いて自身のネットワークの一部にする能力があった。確かに人を率いるその力は御曹司の名に恥じないものだけど、それは私たちにとっては悪でしかない」

「悪を裁くのは正義の仕事。孤高の執行者パルファムはその力を以って正義を成す……」

「そうそう。ついに悪の根源をその手で裁いたパルファムは、車に乗り込み去って行った……めでたしめでたし」

 橘花はパチパチと拍手をする詩織を見ながら、最後の展開について考えていた。

 力を以って正義を執行、悪を裁く。その力は、果たして正義なのだろうか。



「……シナリオによれば、あなたはこのあと死ぬ」

「そうだろうね。ここでキミの手を離せば、僕は死ぬ」

「それで良いの? 本当に、そんな結末で良いの?」

「…………それは、僕に聞いてるのかい? それとも———」御曹司は真剣な顔で見下ろす。「———キミへの問いなのかな」

 パルファムは混乱していた。何を口走っているのか、自分でもよく分からないでいる。

 その目には涙が浮かんでいた。強く御曹司を睨みながらも、今にも崩れてしまいそうだ。

「……わたしは、スパイなんかじゃない。殺し屋なんて綺麗なものでもない。ただ殺すのが得意なだけの、殺人犯なんだ」

「…………」

 今度は御曹司が黙る番だった。

 静かに続きを待っている。

「……わたしはあなたを一瞬だけ信じた。あなたは本当に今の会社の体制に不満があって、やり直したいだけなんだって」

「その気持ちは嘘じゃないよ。だから関連会社のお偉いさんがみんな消された時は正直、そこまで怒る気にはなれなかったね」

「……でも本当は、あなたは犯罪組織を裏から操るフィクサーそのものだった」

「そこは今更否定してもしょうがない。僕に沢山友達がいるのは事実だ」

「……あなたは、どうだったの?」

「うん?」

「あなたは、わたしを信じた? それとも……」

「……」

「それとも、最初から期待してなかった?」

 御曹司はその言葉を聞いて、ゆっくりとパルファムの腕を放した。そして上体を起こし、立ち上がった。

「これが僕の答えだよ。……僕はね、信頼こそが最も重要なステータスだと考えてるんだ」

 ようやく解放されたパルファムはゆっくりと身体を起こした。座り込んで、御曹司を見上げるような形になっている。

「仮にキミが二重スパイを断ったとして、僕はそれでもキミの手を放したよ。だから、僕が死ぬかどうかは、キミのトリガー次第だ。シナリオに従うか、キミのやりたいことに従うか、それを決めるのは、キミだ」

 シナリオの強制力は、シナリオに従っている時のみ有効だ。シナリオから外れた行為は、その強制力を弱め、シナリオの結末と異なる結果を産むことに繋がる。それは、安全ベルトを自ら外すようなものだ。

 そして今回のターゲットを殺さないということは、パフューマーに嘘をつくだけでなく、職務怠慢とみなされて、最悪、頭が吹き飛ぶかも知れないという事だ。

 だからパルファムにとってこの選択はあまりにも重かった。本来は選択の余地など無いはずなのだから。

「……キミは僕に言ったよね。肩書と名前を変えて、第二の人生を歩むように。それは不可能な事じゃない」

 続きを話せないパルファムへの助け舟のつもりか、御曹司は代わりに言葉を紡ぐ。

「僕がここで死んだことにするのは難しくない。死体を偽装する事だってできる。そして、キミがこれから銃を抜いて、僕を殺す事だってできる」

「…………ひとつ、聞かせて」

「なんだい?」

 パルファムは俯いて、肩で息をして、ようやく声に出した。

「わたしは、まだあなたを信頼して良いの?」

 信頼。それは他人への期待。きっと応えてくれるという思いだ。なんの根拠もない。保証もない。それでも信じてしまう。

 期待しなければ裏切られない。裏切られなければ傷付くこともない。だからパルファムは他人に期待しなかった。傷付くことは痛くて怖い事だから。

 でもそれはとても寂しい事だった。パルファムはひとりで戦い続けることに限界を感じていた。おまじないも万能ではないからだ。

 詩織には本当のことは話せない。孤高の執行者パルファムは架空の存在というのが前提でシナリオは描かれているからだ。リアルとフィクションでは物語の展開に大きな差が生まれてしまう。それは避けなければならない。

 他のアトマイザーは大半がコロン級。特攻兵のような使い方が通常だ。一緒に任務へ向かえるようなスペックじゃない。

 だからこそ、パルファムは信頼できる仲間を心の底では欲しがっていた。この悩みは誰にも打ち明けられず、ずっと胸の奥にしまわれていたのだ。

「……そうだね、僕がこう呼んでいるうちは信頼してくれて良いよ、"マイフレンド"」

「凶悪な殺人犯でも?」

「もちろん。キミが凶悪な殺人犯であっても、僕はキミを信頼する」

 パルファムはそれ以上考える事ができなかった。

「じゃあ、ここで死んで」

 銃を構える。銃口を向けられた御曹司は笑みを浮かべたまま、飛んでこない弾丸を待った。

「……また会いましょう。次の名前が決まったら教えて」

 返事を聞かずに弾丸を発射したパルファムは、ヒビ割れた窓ガラスに突っ込んでそのまま外へ飛び出した。

 御曹司はその後を追って様子を確認したい気持ちを抑えて、はぁ、と諦めたように息を吐いた。

「やれやれ……また元気な友達が増えて嬉しいよ。……さて、少し準備するくらいの時間をくれても良かったと思うけど、まぁ良いか」

 遠くからサイレンの音が聞こえてくる。きっと彼女のお迎えだろうと御曹司は理解した。

「まずは新しいお友達の要望を叶えるとしますか」

 御曹司は袖口からスイッチを取り出すと、それを押し込んだ。すると、階下から何かが爆発する音と振動が響いてきた。

「そうだね、小さなキッカケが大きな結果を産む。まさにこの出来事を忘れないよう、"バタフライ"と名乗ることにしようか」

 そしてバタフライの足元が崩れ去り、ビルは倒壊した。




*****



 チャイムが鳴る。放課後を告げる鐘だ。

「はーい、じゃあ今日はここまで。進路希望表は今週いっぱいまで受け付けてるから、よく考えて書いてきてね。じゃあ日直、号令!」

 起立、礼、先生さようなら。

 儀式のような挨拶が終わり、教室に放課後の雰囲気が流れ込む。

「やめときなって双葉」

「そうだよ、もうほっといて行こうよ」

 コソコソとした話し声が聞こえる。荷物をまとめ終わった橘花は勢い良く立ち上がり、その三人組のところへ向かった。

「———ねぇ!」

 ビクッと声をかけられた三人が軽く飛び上がる。橘花自身も、思っていたよりも声が出たことにビックリしていた。

 橘花は小さく咳払いをして気を取り直した。

「……ねぇ、今日も行くんでしょ? クレープ。わたしも連れてってよ」

「え? でも、図書委員は……」

「今日は無いから良いよ! この前は誘ってくれたのに行けなくてごめんね!」

 赤い髪と青い髪の子の間にいる、頭ひとつ小さい儚げな少女双葉は、それを聞いて嬉しそうに笑った。




 最後まで読んでいただきありがとうございました。「スパイものを書いてみたい!」と思い立って書き始めてみたものの、虚構と現実が混ざり合う独特な雰囲気を作ろうと、いつの間にか目的がすり替わっていました。設定としては我ながら面白いとは思っているので、共感できる!って方はぜひ、コメント一言でも頂けましたら幸いです。

 好評でしたら続編も検討します。読み切りを書いて、反応が良かったらそのまま連載するやつです。よろしくお願いします。

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