第九話 早朝、黒田の5。ハナして知るべし
普段知る事のない、早朝の教室。運動部の連中が朝練でおらず、登校ギリギリのヤツらもいない。この時間にとって、自分は異邦人だ。
(ラノベなら異世界転生ってところか……)
別に心を入れかえて真面目に生きる、というわけではないので、転移かもしれない。
教室に入ると、予想通り、好機の目。
教室前列、廊下側。
(あさ……むらさんと、井上さん)
教室前列、窓側。
(成績優秀組が三分の二と、もう一人)
生徒会副会長のTanと、お調子者だが成績は良いIg。
もう一人は、クラスメイト男子Higだ。ちょっと面倒に思う。
Higは、特定のグループに常にいるわけではない。一人でふらふらと、色んなところに顔を出す。
それの何が面倒かと言えば、あっちこっちで聞いた話を、言いふらすのだ。
今からの事を思えば、気が重い。
(悪意のない悪癖というか……、アイツのせいで広まる話の影響まで考えたくない……)
とはいえ、今を逃せば、さらに動かない理由が増えるのも、なんとなく感じる。
(三島と……濱田は朝練みたいだし、今のうちといえば、今のうちか)
自分の席にカバンを置いて、最大の懸念要素がいない事を確認して、委員長の元へと向かう。
教室中列、廊下側。
委員長と口笛のKonが、談笑している。話に割って入るのも申し訳なかったので、一言目に謝罪。
「委員長、ちょっと、ごめん」
それに対して彼女は、一度、目を伏せ、静かにうなずくと、こちらを見返して、言葉を発した。
「うん……」
(一応、会話はしてくれる。か……)
最悪、取り合ってもらえない可能性も考えたが、どうやら杞憂だったようだ。
「その……、昨日は、ごめん」
再びの謝罪。クラスの視線――特に近くにいるKonが険しい顔をしているが、甘んじて受け入れる。
委員長が何か言う前に、再び言葉をかける。
「それで……、放課後……は、部活だから、昼休み。もう一度、美術室前で、話せないかな……って」
「……うん。わかった」
感情の読めない、静かな返答。
だがなんとか了承は取り付けた。「それじゃ」と言って、自分の席に戻る。
不穏な空気に、登校してきたクラスメイトが何事かといった様子だが、昼休みの面子よりは大人しい。
Higが情報屋気取りであちこちへと駆け回るが、そこまでは気にしていられない。
席に座り、外を眺める。
窓を揺らすような風はないのに、空の入道雲が大きく動いていた。
(天風、巨雲を運ぶが、地に事もなし)
そんな言葉があるのかは知らないが、気の重い一仕事が続く時には、そうあれと、信じたい。
*
昼休み。そそくさと食事を終え、先に美術室前で待つ。
なんとも言えぬ不安感に、委員長もそうだったのかと、考える。
ため息を吐きたい気持ちを堪えて、目を閉じ、思い出す。
彼女が何に怯え、なぜ泣いたのか。自分の一挙手一投足を、思い出す。
それら全てを戒める。それら全てに抜け道を探している。
「ふぅぅぅ」と、随分昔に見た、ドラマか映画の俳優の、前髪に息を吹きかける仕草を真似る。
思いのほか浮かぬ前髪に、息の吹き方、髪の質と長さ、メガネの有無、顔の形が違うのだと気づく。
(でも、息は抜けたか……)
「……おまたせ」
その声に驚く。まさに、気を抜いていた所だったからだ。
「あ、あぁ」などと締まりのない返事をする自分が、余計に恥ずかしくて、頭をかく。
(それでもまずは、きちんと謝ろう)
朝は、軽くに留めてしまった。周囲の視線が気になって、きちんと出来なかった事。
彼女を見る。握られた左手、それを体ごと抱くようにして抑える右手、体はこちらを向いているのに、斜め方向に下げられた視線。
思い込みでも、考えすぎでも、全て自分に起因する戒めだと、受け止める。
目で、耳で、肌で感じるだけで、取りこぼしそうなすべてを、大きく息を吸って取り込む。
「ごめんなさい!」
勢いよく頭を下げた。自分を縛るモノ、彼女を縛るモノ、全てを吹き飛ばせるように。下げられた彼女の視線に入るように、深く。
「え、ちょ、ちょっと」
少し、大仰にしすぎただろうか。戸惑う彼女の声に、安堵を覚える。
(また、泣かれるって事は……なさそう、かな?)
なんとも自己中心的な考えに、彼女に見えない下げた頭で、渋い顔をする。
(本当に俺は……、余計な事ばかり……)
「あ、あの、私……も、さっ……。私も、少し、感情的になっちゃってたかな……って……」
彼女の言葉を、黙って、しっかりと聴く。
「……っていうか、頭上げてよ。……その、私が、悪者みたいじゃん……?」
その言葉に、下げ続けるわけにもいかなくなった頭を起こす。
真剣に、彼女の言葉を、仕草を受け止めなければいけないのに、視線が言う事をきいてくれない。
気を抜けばすぐに、彼女の外に、視線が逃げてしまう。
しばしの沈黙。互いに言葉を探して、迷いだけが、呼吸に漏れている。
「それで……」「それでも!」
迷いながら発する彼女の言葉に、また、強く言葉を重ねてしまった。
後悔。それは続く言葉を弱く、脆いモノにしてしまう。
「それでも……俺は、……いま、描きたいものって……ないから……」
昨日と同じ言葉。それしか言えない自分を、酷く、嫌悪する。
だが……、彼女は違った。
「うん。……それでも、それでも私は……」
昨日と違う彼女に、逃げ出そうとする視線を無理矢理合わせる。
「黒田君に描いて欲しいです」
真っ直ぐと、自分を見つめる彼女の視線に、さっきまでとは違った感情で、視線が合わせられなかった。
昨日から、泣かせてしまった子供のように思っていた委員長。それが今は、すごく大人のように感じる。
「だから……うん。だから!私は黒田君に、絶対描かせてみせる!」
そう言う彼女の決意表明に、何も言い返せず、細く、長く、息を吐く。
「……好きにすれば」
そう言って、下手な強がりしか言えない自分を、彼女はどう思っただろうか。
自分には、彼女の横を通り過ぎて、頭をかくことしか出来なかった。