第八話 四. 鈴木ゆい 温もりを、力に変えて
どこをどう歩いたのかも覚えていない。傘も学校に置いたまま、ずぶ濡れで帰ってきた。
玄関の鍵を開け、家に入る。
「た、……」
ただいまとすら言えない。泣いている自分が恥ずかしくて、こんな格好で帰ってきたなど、それこそ子供っぽくって恥ずかしかった。
「ユイ~? 帰ったのー?」
リビングから聞こえる、ママの声。こちらへ歩いてくるスリッパの音に、言い訳ばかり、頭をめぐる。
「ユイ? ちょっ、ど、どうしたの!?」
慌てるママの声に、怒られているような気分になって、口を真一文字に結ぶ。
(また、泣きそうだ……)
情けなくて、惨めで、……消えてしまいたい。
「ちょっと待ってて、今バスタオル持ってくるからっ!」
その言葉に、本当に待っていることしか出来ない。
(なんで、こんなことになったんだろう……)
想像していたのは、もっと楽しくおしゃべりする事だった。明るくて、優しくて、温かい、そして、そして……。
『全部、思い込みでしょ?』
「……ッ」
思い出して、また、涙があふれる。
「ほらユイ、こっち来て」
いつのまにか、ママが戻ってきていた。子供みたいに、髪をクシャクシャと拭かれる。
「傘は? どうしたの?」
「……わすれた」
どうしようもない、子供のいいわけ。もっと大人になれてると思っていた。来年には高校生なのに、惨めで、恥ずかしい。
「そっ、……こりゃ重症ねぇ」
当たり前に、ママにはお見通しで、……バカみたいだ。
「ふぅーっ。よぉし! お風呂! 一緒にはいっちゃおっか!」
「……へ?」
突然のママの提案に、混乱する。何を言っているのかわからなくて、ママの顔を見ようとするが、もう、すぐ近くに来ていて……。
「主婦の腕力! なめんじゃないわよっ!」
と言って、お姫様抱っこ。
「ちょ、ちょ、マ、ママっ!?」
「お買い物いけなくて、ちょーど力が有り余ってたのよねぇー」
恥ずかしくて、ドキドキする。ママが、とびっきりのイタズラ顔を近づけて言う。
「かくごなさぁ~い。すーみずみまで、洗っちゃうんだからっ」
首をノリノリで左右に振って、本当に赤ちゃんをあやすような態度。それに私は、泣いていいのか、怒っていいのか、わからなくなって笑ってしまう。
「わかった! わかったから! 自分で歩けるからっ!」
「だーめっ! 離してあーげないっ!」
どっちが子供かすらもわからない言葉に、また可笑しくなる。
「さぁ! とうちゃく~。自分で立てる?」
「っ……、うん……っ」
子供みたいな扱いに、もう笑いを堪えるので、精一杯だ。
「それじゃーっ、服を脱がすわよ~。バンザーイっ!」
「っ……、バンザーイ!」
もうどうにでもなれと、子供の真似事をする。そしたらなんだか、今まで悲しんでたのが、バカみたいに思えてくる。それがまた面白くて、意味もなく無邪気に笑えてくる。
ママも服を脱いで、いざお風呂の戸を開けると……。
「うわっ! さっむ……」
湯舟にお湯もはっていない。事前に浴室暖房もつけていない。ヒンヤリとしたお風呂場の空気。
さっきまで元気だったママが、梅干しを食べた時みたいに、顔をすぼめている。
「ガスはつけてきたから、シャワーシャワー。シャワー浴びましょっ」
なんでもお見通しなママの、どこまでもわからない出たとこ勝負。それについ、吹き出してしまう。
「あー、今笑ったでしょーぉ」
シャワーの温度を確かめながら、眉根を寄せる。頬っぺたまで膨らませて『怒ってます』の全力アピール。
「あ、よし。温かくなってきたっ。ささっ、お客さん。座って座って~」
次は美容院のおままごと。
(散髪屋さん? ん~、髪切るわけじゃないから、洗髪屋さんごっこかな?)
コロコロと変わるママの態度に、そんな、くだらない事を考える余裕が生まれてきた。
バスチェアに座って、目を閉じると、温かいお湯が、降り注ぐ。
冷たい雨とは違う、温かくて、優しい、楽し気な粒。一粒一粒が、まるで生きてるみたいに、私の頭の上で踊る。そんな、優しい、絵本の世界。
「ユイも大きくなったわねぇ……」
そんな事を言いながら、子供にするみたいに、シャンプーの泡で角を作って遊ぶママ。
「私、まだ子供だよ……?」
「それはとーぜん。ママにとっては、いくつになっても可愛い娘なんですからっ」
「ふふ……、なにそれ」
(大人になっても、ママには敵いそうにないなぁ……)
シャンプーをしっかり洗い流して、優しく軽く水気を絞って、コンディショナーを塗ってもらう。
頭頂から毛先まで、優しく、やさしく、撫でるように。
(私はここに居ていいんだって、勇気がもらえる……)
丁寧に塗り込んだら、しっかりすすぐ。
くすぐるように、何かを促すように。
(浸透したから、もう大丈夫って、ことかな?)
洗い終わったら、次はママの番。バスチェアを譲って、お客さんと店員さんの、かわりばんこ。
「次のお客様どーぞー」
「あら、新人さんかしら?」
「今日からなんですよー」
「じゃあ、たっくさんお仕事、覚えてもらわなくっちゃ」
「お手柔らかにお願いしまーす」
二人一緒に「ふふふ……」なんて笑う。
ママがしてくれたみたいに、シャワーで優しく、お湯をを含ませる。
「熱くないですかー?」
「とーっても、きもちいいわー」
泡立てたシャンプーで、丹念に洗う。
(髪、傷んでるのかな……?)
「あー、今、おばあちゃんみたいって思ってるでしょー」
「イーエ、滅相もゴザイマセーン?」
些細な指の動きで、バレバレだ。
「『おかあさん』って、大変なのよー?」
(ママの教えてくれる『おかあさん』)
覚えなくちゃいけない、お仕事。
「どう大変なんですかー?」
シャンプーで遊びながら聞く。
「家の掃除は大変だし。誰かさんはパパに内緒で『パパの下着と一緒に洗うのはイヤ』なんてワガママ言うし」
(あはは……ゴメンナサイ……)
「パパはパパで、娘にデレデレ甘々だし、家族のご飯は毎日作んないといけないし」
(今度から、てつだいます……)
「おまけに食器洗いで手はボロボロ……。あーぁあ。若い頃のワタシはどこにいっちゃったんだろー?」
(それも、お手伝いさせていただきます)
普段聞かないママの愚痴に、お手伝いを心に誓う。それに……。
「それに、泣いてる娘さんのお世話まで! ですか?」
申し訳なさで、ちょっとの自虐。
「なーに、言ってるのー? それが一番やりがいがあって、楽しんじゃない」
シャンプーの泡を洗い流す。ママに甘えてばかりじゃ、恥ずかしいから。
それからコンディショナーを塗って、すすぐ。ママの教えてくれた通りに。
そしたら次は、体を洗いあいっこ。洗い合っている間に、湯舟にお湯をはる。
泡まみれの体を流して、半分しかたまっていない湯舟に、二人で浸かる。
「ふぅー。こーいうのも、たまにはいいわねー」
「『たまに』じゃないと、恥ずかしいけどね」
「とーぜんでしょっ」
二人でひとしきり笑って、湯舟がたまる頃に、お風呂からあがる。
お風呂からあがって、ママの『しまったっ』という顔。それで私も気が付く。下着も着替えも、持ってきていない事に。
ママが真顔になっていう。
「大丈夫! パパはまだ帰ってきてないからっ!」
二人して、裸ん坊で家の中を駆ける。まるで子供みたいに。きっとママも、まだ『おかあさん』になれていないのだ。
でも私は、そんなママに、なれたらいいなと、思う。
*
パジャマを着て、リビングで、髪を乾かしてもらう。今日の事を、話そうと思う。
「ねぇ、……お母さん」
「……ん? なぁに?」
いつもと違う呼び方が、こそばゆい。
自分が、子供みたいに泣いてしまった事。彼を悪く言わないように、慎重に言葉を選びながら。
「ふぅー。男の人って頑固だからねぇ。こだわりとか、覚悟とか、プライドとか……、なんかそーいうの」
「パパも……?」
普段、そんなものが全然なさそうなパパを思い返す。
「そーよーぉ! 家じゃあんなのだけど、会社じゃスゴいのよー?」
パパとママは職場恋愛だと言っていた。ママが上司で、パパが部下だったらしい。
寿退社からの専業主婦の道を選んだのだと、聞いた事はあるが、そのあたりの話を、私はよく知らない。
「パパに告白させるために、ママがどれっだけ! 苦労したことかぁ……」
「へー。例えば、どんなの?」
面白そうなので、聞いてみる。
内容としては「好きなのはバレバレなんだから、とっとと告白すればいいのに」とか「こっちは寿退社狙いで、そこそこの会社を選んだんだから、早く解放してくれ」だとか「プロポーズですら『キミより出世してからでないと』とか言い出しちゃって、まぁっ!」と言った、なんとも豪快な話だった。
「だから大変よー。奥手な男を好きになるとっ」
「――っ。べ、べつに……好き……とかじゃ、……まだ……」
面白い話の代金は、少し高かった。
「『まだ』ねぇ……」
イジワルな顔のママに、唇をとがらせて抗議する。
玄関から「ただいまー」と、パパの声。リビングに入ってきて、パジャマ姿の私とママに、驚いた顔をする。
「あれ? もうお風呂はいったの?」
「ユイが学校に傘わすれてきちゃったんだって」
「こんな土砂降りで……?」
ママの深い、ふかーい、ため息。
「これだから男って、デリカシーがないのよ……」
言葉を途中できって、微笑んで私にウィンクしてくる。
「「ねぇー?」」
大成功。息ぴったりのママと私。情けない顔で寂しそうなパパが、余計に可笑しくって、家族みんなで笑う。
この温もりは、きっと力に変わるから。