第六話 三. ゆい 糸口が、見つからなくて
美術室前の廊下。部活動のない木曜。美術室に明りはない。そんな寂しさの中、廊下を歩く音が聞こえてきた。振り向けば、明りの少ない曇り空でも、人影が近づいてくるのがわかる。
(よかった、ちゃんと来てくれた)
背格好とメガネで、なんとなく待ち人とわかる。
(昼間はちょっと、冷たく言いすぎたよね)
なんと言って伝えればいいのかわからず、簡潔になりすぎた自分に、少し反省。
(それでも伝わったなら……、大丈夫!)
これから伝える事に、勇気が欲しくて、自分を励ます。
(……よしっ!)
彼の顔がわかる距離になって、笑顔で、小さく手を振る。そんな私に彼は、首だけで軽い会釈をする。
ちゃんと話すのが初めてで、彼の小さな挙動一つが嬉しくて、つい「ふふふ……」と笑いがこぼれてしまう。
それを見た彼が、怪訝な顔をする。
(少し、警戒させちゃったかな……?)
「えーっと……。来てくれて、ありがと」
「ん? あー、あぁ」
お互いに、ぎこちない挨拶。少しずつ、自分の中から、言葉を探す。
「この絵、すごいよね。黒田君が描いたんでしょ?」
「ん? んー、まぁ」
いつもは友達と、普通に話しているのに、今はそれが、凄く難しい。
「あ、あのね! 私……この絵を見て、美術部に入ったの!」
「みたい……だね?」
少し驚き、彼を見る。どこかで、自分の事を、知られていただろうか。
窓の外を見ていた彼が、視線だけで、こちらを見る。
「あー、俺がいた時……、いなかったから? んー、なんとなく……」
ちょっと、恥ずかしい。自分の行動だけで、理由まで見透かされているようだ。
「え、えっとね! その……ぶ、文化祭の! 自由創作!」
転換するような話題もなくて、本題に持っていく。彼は変わらず、視線だけでしか、見てくれない。
「い、一緒に……一緒に、作って……欲しいん、だけど……」
しばしの沈黙。
「はぁ……」
そのため息に、体が強張る。彼のため息は……、怖い。
考えないようにしてきた。気づいていないフリをしてきた。自分が、何も考えていないようで。それが、全部見透かされているような、気がして。
怖かった。
「俺は、今、描きたいものって……ないから……」
何か言わなきゃと思うのに、パクパクと、口が、開閉するだけ。心臓が、やけに主張している。
唇を、真一文字に結んで、考える。
なのに、頭の中が真っ暗で、なにも、思い浮かばない。
「はぁ……」
また、あのため息。
「もう、行っていい?」
「待って!」
それだけは、止める。まだ、何も、何も言えていない。
「わ……私、黒田君の絵が、すごい、と思った……」
思い出す。自分の中のものを、全部。
「じ、自分じゃ、どうやったって描けないって!」
「はぁ……」
ため息に、体が竦む。
「こんなの、誰でも描けるよ」
その言葉に、急に頭が沸騰する。
「こんなのって!そんな……そんな言い方っ……!」
だが、彼の姿勢も、視線も、微動だにせず……、言葉が、続かない。
(こんな……こんなつもりじゃ……)
もっと楽しい話がしたかった。もっと……笑って話せると、思ってた。
今、言葉を発したら、ひどい事を言ってしまいそうで、また、唇を、強く、結ぶ。
「はぁ……」
(なんで、そんな、ため息つくの? 私って、そんなに、つまらない?)
紡げない言葉で、首が締まる。
「結局さ、委員長が何を思ったのか知らないけど……」
そこで言葉を区切った彼に『何も言わないでほしい』と、願う。
「全部、思い込みでしょ?」
「――ッ!」
思いを伝えたいのに。思いつく言葉は、どれも暴言で……。
(違うっ!ちがうっ!ちがう……ッ)
感じたものを共有したいのに。思い出が、黒く、塗りつぶされていく……。
(やだ……、なんで、こんな……)
彼の足が、こちらを向く。そこで初めて、自分が首を下げている事に気付く。
視線を上げれば、彼は、私と向き合ってくれていて、クイッと、アゴで、絵のある方を示す。
(あ……。見ちゃ、だめだ……)
そう思うのに、首は勝手に動いて……。
そこにあるのは、ただの『絵』だった。
(なん……、で……)
ゾワゾワと全身に鳥肌が襲う。
(なん、で……)
そこには、あの時の感動も、衝撃も、何もなくて……。
(うそ……)
(やだ……やだ、やだやだやだっ……)
思い描いていた事と、現実は、違っていて……。
(ダメ、考えちゃ……ダメッ!)
自分は、甘い夢ばかり、見ていたい、だけだった。
(ッ……)
スンっと、鼻をすする音。それを合図に、涙が、あふれて、止まらない。
「――っ」
彼が何かを言っている。差し出された手も、振り払う。
自分の嗚咽で、何も聞こえない。聞きたくない。その場にまだ、彼がいる事だけがわかる。
そのまま困ればいい。私の為に困ればいいと、思った。
(私……、そんなんじゃ……そんなんじゃ……ない、のに……)
酷い事を、考えれば、考えるほど、涙が止まらなくて。そんな酷い自分は、消えてしまえと、泣き叫ぶ。
息を吸い込む音に、身構える。
(また、あの、ため息だ……)
だが、ため息は、いつまで経っても、聞こえてこなくて。
「泣いてたんじゃ、何にもわかんねーよ」
そう言って去っていく彼の足音と、いつの間にか振り出していた土砂降りの雨音だけが、心に響いていた。