第二話 一. 鈴木結 赤いリップクリーム
「はぁ……」
家に帰って、部屋に入るなり、ため息ひとつ。「うっ」と、マスクから漏れて目にかかる息で、さらに顔をしかめる。
(今日は暴走しちゃったなぁ……)
マスクを外してゴミ箱へ。
(後悔も一緒に捨てられたらいいのに……)
メガネを外して、オフモード。ヘアゴムも外して、ポケットのリップクリームと一緒に、勉強机の上に置く。
何年か前の生徒会長が、学校側に許可を取り付けたのだと、誇らしげに語られる、色付きのリップクリーム。
(ラメ入り、発色の強い物禁止)
そんな中で『赤色』は、議論が紛糾するモノだ。男性教師たちの多くは、知らぬ存ぜぬと黙認してくれる。だが、一部の女性教師たちに見つかれば、鬼の首を取ったかのように叱責を受ける。
(危ない橋は……、渡るもんじゃないっ)
そんな思いと共に、リップクリームを机の引き出しに封印する。
(でも、見てたよねぇ……)
手のひらを眺めて、彼の顔を思い出す。
春には短かった髪が、少し伸びていた。
(髪型とか、気にしないのかな?)
苗字と同じ、黒髪、黒目、黒いフレームのメガネ。
(黒が好きなのか、派手なのが嫌いなのか……)
彼の視線が、私の手から、腕、髪、目元、鼻、輪郭と移り、最後に唇で止まって……。
――トクンッ
と、心臓が、現実に引き戻してくれる。
(そういうんじゃない! そういうんじゃないしっ!)
恥ずかしくなって、慌てて、手で顔を覆おうとして……。
「……ッ!くぅ……」
僅か1㎝。彼の顔を思い出すその手を、ギリギリで止めた。
「あ~っ! もぅっ!!」
階下からママの「ユイ~?」という非難の声に「なんでもなーい」と、返す。
両手を擦りあわせ、手もみして、なんとか平常心を取り戻そうとするが、それすらも……。
「んん~っ!!」
両手を離し、握って開いて、ベットにダイブ。枕に顔をうずめて、盛大にため息。
「はぁぁぁ…………」
そうして視界を塞いでいると、シトシトと、雨の音。昼から降ると言っていた予報は、どうやら夕方にずれ込んだらしい。
(天気だけが、私の味方……)
まるでドラマのヒロインのような言葉を「あはは……」と、自嘲する。
少し冷静さを取り戻し、改めて暴走の理由――そのきっかけ――を思い返す。
残暑も薄れた秋の頃。中学生活にも慣れ始めた一年の時。どこかの美術コンクールで、顔も知らない同級生が、賞を取ったのだという。その作品が、コンクールから返ってきて、美術室前の廊下に飾られた。
友人たちが『面白い』と、一言で済ますそれに、私は常識を打ち砕かれる思いだった。
(画材はクレヨン、色紙を千切った貼り絵、色鉛筆、ボールペン、墨、水彩絵の具。土台の画用紙ですら、紺と白の二枚重ね)
紺の画用紙に穴を空け、白の画用紙を下に重ねることで、星々を表現していた。
水彩絵の具の濃淡で、花火の光の強弱が伝わってきた。
紺地に墨で描かれた山から、おぼろげな夜の山が想像出来た。
(他の画材にも、きっと……)
私では想像しきれない、何かがある気がする。
うつ伏せから仰向けになり、両手を見る。そこにはもう、彼の顔はない。
(どうすれば……)
あんな発想が生まれるのか。勉強とは、百点を目指すものだとばかり、思っていた。そんな好奇心に突き動かされて、美術部に入部したというのに、彼は……。
『黒田くん? あー、しばらく来てないねぇ』
フライドチキン屋のマスコットおじさんを、さらに丸くしたような見た目の、美術部顧問。――武田先生は、たっぷりのアゴ肉を、たぽたぽと叩きながら、そう言った。
そこから一年半。在籍はしているのだから、いつかは来るのかと思ったが、そんな事はなく。
中学最後の三年生で、ようやく同じクラスになった彼は、窓ばかり見ているだけの、普通の男子中学生だった。
「はぁ……」と小さくため息。
(ヤな感じだったよねぇ……私)
接点のないまま過ごした三ヶ月。クラス委員長として、先生の手伝いをしていたら、たまたま降って湧いたプリント回収任務。
私に付き合って、先生の手伝いをしていた友達が提案したイタズラ。
『黒田ってさ、いっつも窓ばーっか見てんじゃん? こっち振り向くかどうか、賭けしない?』
(千晶、恨むよ~)
などと、落ち度のない友人を責める。
(落ち度のない……。っていうかリップも千晶じゃんっ)
日曜日に一緒に買い物に行って、月曜日に使わないのかと茶化された。マスクの着用も不自然でないからと、冒険してみよう、なんて唆された結果がコレだ。
(不真面目だとか、遊んでるとかって、思われてないかなぁ……)
変なイメージを持たれないか不安で、両手で顔を覆う。
「あ……」
再び思い浮かんでしまった彼の顔を、かき消すように、頬をペチペチと叩く。
階下から「ただいまー」と、パパの声。
(ふぅ……早く着替えよ……)