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第十二話 普通の日曜、黒田の6。

 ありきたりな日曜の朝。朝食はインスタントのコーヒーと一口サイズチョコ1個。


「このっ! 税金ドロボー!!!」


 口に含んだチョコが、コーヒーで溶けるのを楽しんでいたら、母親の怒声に邪魔された。ニュースの内容にご立腹らしい。

 以前にもグチグチとうるさかったので、反論を試し見たことがある。だが、返ってきたのは『じゃあアンタが政治家になればいいじゃない』と、さも名案を思い付いたとでも言わんばかりの顔。気色の悪い喜色満面。

 どこのご家庭でもよくある罵詈雑言。そんなものを浴びせられる職業に、誰がなるというのか。そんな言葉を受け止めて『それでも』と、言える人間だけがなればいい。

 自分には、そんな強さなど……無い。自分は所詮、モブでしかないのだから。


 父親を見れば、こちらも普段通り。困った顔で微笑むばかり。『イヤなら自分で動け』という事だろう。


「はぁ……。かーちゃん。チャンネル。変えるよ?」

「フンッ、どうぞっ」


 不満たらたらの母親を無視して、チャンネルを変えた先は旅番組。地域情報の中継が無ければ、ニュース一辺倒(いっぺんとう)になりがちな平日の朝と違って、チャンネルを変えれば丸ごと情報の種類が変わるので、土日の朝は助かる。


 ただ、こちらはこちらで「いいわね旅行!」とか「見て見て! 綺麗ねぇ~」とか「旅行行きたいわねぇ~」などなど、ひっきりなしに実りの無い感想を投げられる。

 3DKの集合住宅。両親の寝室に繋がる一部屋を居間として使っているが、そこには使われなくなった無数のダイエット道具。

 経済的余裕とやらも、計画的貯蓄とやらも無さそうに見えるが、本気で言っているのだろうか。

(だけどまぁ、ニュースでギャーギャー叫ばれるよりはいいか)


 いつの間にか口の中のチョコは溶けていて、冷めきったコーヒーの残量も少ない。

 仕方がないので、残ったコーヒーを一気に飲み干して、自室に戻ることにする。母親の「あら、もういいの?」なんて言葉も、何度目だろう。スマホを見ていた父親が、徳用パックからチョコを一つ取り出して振って見せるので、首を振って不要を伝える。


(昼までゲームして……、どうせ昼から掃除機かけるだろうから、今日は図書館行くか……)

 掃除機の音、母親の声。集中を途切れさせられるのは苦手だ。反抗期というものが万人の通る道と知っていなければ、頭に血が上る感覚のまま何をしているかわからない。衝動的な人間の後悔など、マンガやアニメでいくつも知っているのに。



「出かけてくる」


 母親の「お昼ご飯はー?」という毎度の言葉。いつも通り「いらねー」と返せば「アンタはまたそんな事言って!」と五百円玉を渡される。ささやかな臨時収入。

 一昨年までお金すらいらないと拒んでいた自分を、随分とガキだったなと後悔する。

(黙って貰ってれば得だったろうに)


 玄関で靴を履いていると、居間の方から「行き先はー?」という父親の声。顔も出さない必要最低限な態度に「としょかーん」とだけ、気の抜けた返事をする。

 律儀に見送る母親が「いってらっしゃい」と穏やかに言うので、仕方なく「いってきます」と通過儀礼。

 母親の態度の波に翻弄(ほんろう)されて、出かける前から疲れる気分だ。


(そういえば……)

 最近、そんな風に態度がコロコロ変わる人間が、学校で一人増えた事を思い出す。

 女性の本性とは皆そうなのかと、大げさで大雑把な考えを「まさか」と言って自嘲する。


 まだ梅雨は明けていないらしいのだが、照りつける日差しは、世の中の厳しさを教えるように暑かった。



 自転車で片道15分。役所の二階に、市立図書館の分館がある。蔵書量はあまり多くないが、近くて便利だ。

 トシに言わせれば『サブスクでよくね?』との事だが、小遣い天引き制度の我が家では、昼食代を貰った方が得である。

(往復三十分。月1、2回。時給にして千円。昼飯を抜けば丸儲け)

 ちなみに月に出かける回数を3回、4回と増やしてみた事があるが、昼食を抜いている事が何故かバレかけたので、2回が限度である。


 入り口の自動ドアをくぐると、左右にまた自動ドア。左が役所、右が図書館に繋がる階段だ。

 図書館側の自動ドアに入れば、一気に本の香りに包まれる。読書家というわけでもなく、空調目当ての身としては、慣れるまで少し、部外者のような居心地の悪さがある。

 自分がここに居ていいのか、試されている気分になるからだと思う。


 階段を上がると、正面に本棚、右手側奥に読書スペースがある。

 まず先に、読書スペースに向かい、ちょっとした儀式を行う。

(見覚えのある顔が数人、知ってる人間は二人か)

 部外者感を拭うのには、十分な人数だ。知っている人間はクラスメイトの井上さんと……。

(wak……わき……)

 あ、か、さ……と脳内で思い浮かべて『た』でシックリくる。

(ワキタ……くん……か)

 あまり話すことのない同世代、同性の敬称に、妙なこそばゆさがある。普段の言動が雑な相手であれば、雑に呼び捨てに出来るのだが、そうでない相手には、どう呼んだものかいつも悩み、保留にする。

(棚上げ、繰り越し、将来の負債、大人たちの常套(じょうとう)手段)


 儀式が終わり、いつものように本棚を眺めて時間を潰そうと思ったら、いつもと違う視線……のようなものを感じた。

 井上さんが顔を上げていたのだ。顔を上げて、顔をこちらに向けている。

 ただ、それだけ。ただし、視線がどこを見ているのかわからなかった。

(斜視……って、言うんだっけ……)

 ネットの動画で、そういう人がいる、という事は知っていた。だけど、身近にいるという事に、初めて気が付いた。

(こっち、見てる……よな?)

 視線の先が自分かどうか半信半疑で、試しに首だけで会釈してみる。すると、やはりこちらを見ていたようで、座ったままながら折り目正しい礼を返してくれた。

 自分の簡易な会釈が申し訳なくて、少しだけ腰を曲げてお辞儀をして、本棚の奥に退散する。


(物が、二重に見えるんだっけ……)

 動画で聞きかじった知識を反芻しながら、本棚の間を眺め歩いた。



 背表紙のタイトルを眺めながら、練り歩く。他人から見れば『一冊手に取って読んでみろ』と言われるような無駄な時間。

 ただ、そこには自分なりの意味がある。誰からの強制や思惑でない、自らの意志。毎日サムネばかり眺める動画サイトと同じだ。自分で選び、自分の中だけに取り込むのなら、内容も解釈も、自分の物だから。

 それだけで満足なはず……だった。


「はぁ……」


 久々にでた、普通のため息。これも自分で選んだ事。

 人を知ると、少しだけ窮屈になる世界。窮屈な世界で、許される範囲の模索が始まる。

 だから、人は間違う。まさに、知恵の実を食べて楽園を追放され続ける人間。

 あげく、鎖国をすれば黒船襲来。


(知恵、食さずば、外因来たりて内因立つ)

 ため息一つから、随分と大きくなった話を鼻で「ふんっ」と、笑い飛ばす。


 内因の自滅思考から逃げるように、本棚の列を変える。

(ふぅ……)

 身の置き場を変えただけで、少しだけ気が休まる。ただ、思考まではすぐに変わらなかったようだ。

(『油絵』『はじめかた』……)

 そんなキーワードを拾ってしまった。


 ちょっとした心残り。水と油、考えればわかる事に気付かなかった、小さな失敗。

 本を手に取り、数ページめくる。

 しかし目次を覗いても、中身を流し見ても、欲しい解答は得られなかった。

(『はじめかた』じゃ、しょうがないか……)

 これも考えればわかったはずなのに、気付かずに(さら)した己の愚かさだ。

 近くに『入門』や『中級者向け』などのキーワードもあるが、きっとその中にも答えはないだろう。

(たぶん『上級者向け』があっても、書かれていないかもしれない)

 本を閉じ、元あった場所に戻す。


『何かを変えたいなら、自分で動きなさい』

 と、父親が言った。

『遊んでばっかいないで、勉強もしなさい』

 と、母親が言った。


 勉強をしたくないから、遊んでいるのに、父親と母親のデッドロックで何も出来ない。

 ずっと、逃げ道を探し続けている。その逃げ道すら、何の意味も無かった。

 衝動のまま作り上げた小さな世界では、世の中は何も変わらない。

 分かっていたし、気付いてもいた。それでも我慢出来なかった。

(それを……今さら……ッ)

 思い出して、胸と頭が熱くなる。一般に『良くない』とされる感情に眉を(しか)める。

 悔しさ、だと思う。過ぎた事、割り切った事をいつまでも後悔している。

 自分はきっと、どうしようもなく『イヤな奴』なのだろう。

 奥歯を噛みしめ、目元を拭う。涙を流すような、弱者になりたくないから。


「はぁ……」


 また逃げて、読書スペース側に出る。

 読書スペース側には、通常の本棚と別に、キャスター付きの棚がある。

 そこには愛嬌のある手作りの札に『マンガコーナー』と、書かれている。

(ラインナップはやや古め)

 ただし、読んだことのないマンガも多い。

(アニメで見た、タイトルは知ってる、読んだ、読んだ、まったく知らない……)

 背表紙を眺めながら『テキトーに読める』本を探す。

 そんな考えで選んだキーワードは……。

(古事記……)

 以前に、イザナギとイザナミを題材にしたゲームを遊んだ事がある。その時に気になってネットで調べたのだ。現代語訳された文章から感じた内容は……。

(古代日本の保健の教科書……)

 そんな自分のあんまりな感想が、少し笑えたのを思い出して、その本を手に取った。


 読書スペースは、簡素ながら(くつろ)げる椅子と机が並んでいる。

 その一つに腰を掛け、数ページめくる。

(あれ?)

 内容が、ネットで見たものと少し違っていた。

(あぁ……、まぁ、当然か……)

 子供への配慮。足りない部分と余った部分。そんな内容をマンガに描く事が躊躇(ためら)われたのだろう。

 ただ、本当に(はぶ)いてよかったのかと、思う。

(本当に、身体だけの話をしていたのか……?)

 ジェンダー平等、多様性、適材適所。

 男女の違い。身体の差異。心の変化。

 聞きかじった知識では、男性の中にも女心があり、女性の中にも男心があるそうだ。

(俺の有り余った過去の産物と、委員長に足りなかったモノ。委員長の突飛な行動と、俺に足りないモノ……)

 自分の状況に当てはめて――鼻で笑った。

(……ロマンチストすぎるか)

 こじつけ、妄想、思い込み。そんなもので踊ったところで、痛い思いしかしない。

(それでも、そこで踊っている人間は……)

 楽しそうに……、見えてしまう。


 ウェストポーチの中から、振動が伝わる。マナーモードのスマホだ。

 スマホのメッセージアプリに届いたのはトシからだった。


『なにしてるー? 』

 気のない問いに、簡潔に返す。

『 図書館』

『うおっまじも 』

 入力ミスを指摘。

『 まじも』

『マジメマジメ 』

 特に返しも思いつかないので、そのままスマホを仕舞おうと思ったら、続けてトシからメッセージが来た。

『なに読んでる? 』

 これも簡潔に返す。

『 古事記』

『うおっなんかさすが! 』

 数ページ開いただけの事を『さすが』と呼ばれるのも居心地が悪くて、嘘にする。

『 ジョーク』

『嘘かよっ! 』


 そんな取り留めのない会話を続けながら、開いたページを眺める。

(イザナギとイザナミの次は、アマテラスとスサノオだっけ……?)

 詳しくは知らないが、岩戸隠れの伝説が歌の題材に使われていて、少し調べた事はある。

(要するに引きこもり対処法)

 まさか神様も、岩戸の中で楽しみが完結出来る時代が来る、とは思わなかったのだろう。


『ところで花火どーする? 』


 そんな風に誘うトシは、アメノウズメかアメノタヂカラオか。

 そのまま誘いに乗っても良かった。けれど、ふと委員長の姿が浮かんで、誤魔化してしまった。


『 テレビで中継やってたらソレみるかも』

『そかー 』

『だよなー 』

『また誘うわー 』

 トシの連投から漂う哀愁(あいしゅう)が可笑しくて、静かに笑いを堪える。

『 またなー』

 気のない返事をして、今度こそスマホを仕舞った。


(しかしまた……希望的観測だよなぁ……)

 父親の(げん)では、何を変えたくて、何を行動すればいいのかわからない。

 母親の言なら、無駄を省いて、大人の敷いたレールに従えという。

(そんな道具に、なりたくない……)

 だとすれば……。

(委員長誘って、……ダメならトシを誘い返すか)

 無駄な遊びを、無駄にしたくない。描きたい物がなくて、描きたい物が欲しい。

 そんな事を考えながらも、実際に出来るかどうか、いまひとつ心持ちが定かにはならなかった。



 気づけば夕暮れ。結局、本のページは進まず、雑多に考え事をするだけで時間が過ぎていた。

 図書館から出て、身体を伸ばして、全身をほぐす。


「おつかれさま」

「え!? あ……? あぁ……」


 唐突に声をかけられて驚いた。井上さんだ。

 彼女はクスクスと口元に拳をあてて笑っている。


「ごめっふふっ……、そんなにっ、驚かすつもりじゃなくてっ」


 そう言いながらも、彼女は笑い続けている。何か、変なツボに入ったのかもしれない。

 しばらく見守っていると、深呼吸をして息を整え始めた。


「ふぅー」

「おちついた?」

「へ!? あ! う、うん……」


 仕返し成功。井上さんの笑った理由がなんとなくわかった気はするが、彼女ほどツボることはなかった。


「それで? 何か……用事……?」

 そこが疑問だった。今まで彼女と話した事はなく、用事でもなければ、声をかけられた理由がわからない。

「えっと……、そういう、わけじゃないんだけど……」

 顔を少し俯かせ、彷徨(さまよ)う彼女の視線に、気付く事があった。

(あぁ、片目だけ見れば、普通か……)

 両方の目を見ていると、どこを見ているのか分からない戸惑いがあった。だが、左目だけを集中して視ると、こちらをチラチラ窺っている事が分かる。

 そんな当たり前な事に安堵していると、続けて彼女が口を開いた。


「挨拶……が、したかった。……っていうのは、変……かな?」

 彼女の声のトーンが一段下がり『変』という言葉を意識してしまう。

 視線が、彼女の外向きな右目に行きそうになるのを、わざと顔ごと背ける。

 罪悪感から、咄嗟(とっさ)に先ほど考えた言葉が漏れた。


「普通、……なんじゃない?」

 会話の内容と頭で考えている内容が、すれ違っている事に気付きながら、話を合わせる。

「そう!そうっ……だよね」

 魚が餌に喰いつくような勢いに驚いたが、彼女自身も同じだったようで、すぐに声を抑えてくれた。

(委員長、かーちゃんに続いて三人目……)

 何気ない会話中の感情の乱高下(らんこうげ)に、やはり女性とはそういう生き物なのだろうか、と考える。

(サンプリング不足。人数も、一人当たりの情報量でも、足りなすぎる)


 だからだろう。

「それじゃあ……、私、こっちだから」

 そう言って、立ち去ろうとする彼女を呼び止めた。

「あー、待って。……方向、同じ」

 方向が同じだけなら、自転車で追い越してもよかった。ただ、読み進める事のなかった本の続きが、気になったのだ。


 キョトンとする井上さんに「自転車だけ取ってくる」と言い残して、小走りで駐輪場から自転車を運び出す。すると彼女は、先ほどと同じ位置で立ち尽くしていた。

木陰(こかげ)に誘導とか……、すればよかったか……?)

 歩道の真ん中で、こちらを向いて西日を背に浴びる彼女を見て、申し訳なく思う。


「ごめん。木陰……入っててくれれば、よかったのに」

 そんな、少し責める様な口調しか知らない自分に、もっと本を読んでいれば、と後悔する。

「え? あ! 私の方こそ……ごめん」

 謝罪の鏡合わせ。まるでマンガかアニメで見たような光景に、思わず鼻から気の抜けた笑いが漏れた。

「あ、あはは……。私が……謝るのも、変、か……」

 そんなやり取りも含め、いくつのコンテンツで繰り返された事か。

「いや。やっぱり、普通だよ」

「……」

 彼女の沈黙に、自分の言葉を振り返る。

(あー。『やっぱり』って、マズったか……?)

 少しの気の緩み。『普通』が別の意味になってしまう。そんな不安を掻き消したくて……。

「あー……っとー。……歩こっ……か」

 下手くそな誤魔化しに、顔が熱くなる。

 幸い、夕方の日差しは味方だったようだ。渋い顔も、顔の熱さも、西日の責任にして、一人で先に歩きだす。

(敵も味方も裏表。厳しさも時には役に立つ)


「く、黒田君ってさ……、か、変わって、る……、よね……?」

 その言葉に、驚いた。先ほどまで『(へん)』という言葉を随分と気にしていた素振り(そぶり)の彼女が、他人に『変わってる』というのは、どういう心境なのか、理解出来なかったからだ。

 振り返って井上さんを見れば、彼女はまだ歩き出していなかった。

 まじまじと彼女を観察する。

 (うつむ)いた顔。垂れた髪の隙間から見える、引き結んだ口。(すく)んで縮こまった肩。

(……(おび)えて……る?)

 その姿を見て、何か言葉にならない『気づき』を得た。

 そう思った瞬間、笑いがこみ上げてくる。始めは「ぷっ……」と、吹き出して。徐々にクツクツと喉が鳴り。抑えきれずに鼻から震えた息が漏れ。終いには口から大笑い。

 大変失礼な事だと思う。だが、止められない。

 突然笑い出した事に対して、井上さんが驚いた様子が視界に入る事もまた、可笑(おか)しい。

(あぁ、そうか。可笑しいって、笑う事が(よし)だもんな……)

 遂には自転車を支えたまま、膝を折って「ヒー、ヒー」と、息も絶え絶え。


『箸が転んでも可笑しい年頃』

 きっとニュートンだって笑い転げたはずだ。

 可笑しいとはつまり、自分の知識や経験、想像力の無さの露呈(ろてい)。初めて気づいた事実の喜び。答え合わせの実践。危険の無い予想外の可能性だ。

 本をもっと読めば、選択肢が増えるのだろうと思っていた。

 そんなところに丁度『変』や『変わってる』という言葉に縛られた斜視の彼女が現れた。

 きっと彼女も、自分も、他の人たちも同じなのだと気づいた。そんな中で儀式だなんだと、言い訳をしている自分こそ()()()()のだ。

 今、この場面を大人達が見れば、きっと『笑ってはいけない辛い事情』と叱られるのだろう。

(人間が何故笑うのかも履き違えていそうな大人たちが、だ)

 笑うという行為は、こんなにも自身の矮小さを示す表現なのだ。だったら『相手の辛い事情を笑わない』だけでなく『どうしようもなく笑ってしまったら、相手に謝罪と感謝をする』という選択肢も必要だ。

 なにせ無知な自分が知識を得ることは、こんなにも止めどなく笑って、楽しいのだから。


 恐る恐る、といった足音。

 自身で感じた『気づき』を言語化して、心を落ち着かせる。荒い息を、肩で呼吸して整える。

「えっ…と……、大……丈夫?」

 そんな彼女の戸惑いと心配の声すら可笑しく思える自分は、やはり『変わってる』のだと思う。

「あぁ……うん、ごめっフフ、ハッ……」

 そう言いながらもニヤケ顔が治まらない。『勝手に想像したアナタの過去で、人間が何故笑うのか気づけました』などと、口が裂けても言えない悪辣さだ。

「あー、はは……。それに……、ありがと」

 お礼を伝え、喉元まで引っ込んだ笑いがまた、クツクツと音を鳴らす。

「えっ、と……、……えぇ……?」

 未だ困惑顔の彼女に、とりあえず歩く事をハンドサインで提案して、二人並んで歩き出す。


「ふぅーっ、治まった」

 という事にする。言葉と共に呼吸は一息ついたが、顔はまだニヤケたままだ。

「ふふふ……、まだ、顔がニヤケてる」

 自転車を挟んだ右側。正面を向いたまま、左目の視線だけでこちらを見る井上さんに、罪悪感が沸く。

「……ごめん」

「へ?」

 やめておけばいいのに、また、勝手な想像で謝罪がこぼれた。

(どうしようもない無限ループ)

 数歩分の無言すら耐えられなくて、無理矢理言葉をひねり出す。


「えーっと……。斜視……って、……言うんだよね?」

 事実確認。知らなければ、距離感が……わからない。

「っ! ……うん」

 息を()む音、引き結んだ口、外された視線、怯えの表現。泣かれるのは、困るから、慎重に、傷つけぬように……。

 すーっと、歯の隙間から息を吸い、頭の空冷。普通に呼吸するよりも、口腔内が冷やされる気がする。

「えっと。物……が、二重に見える、ん、だって……?」

「えっ!?」

「あ! いや、その、動画で……見たっていうか、聞いたっていうか……気ぃ悪くしたら、その……」

 彼女の驚きに合わせて、しどろもどろな弁明が早口で飛び出した。ばつの悪さで、勝手に顔がそっぽを向いてしまう。自分の身体一つ、自分の意志で制御出来ないのは、何故なのか。

「あ。ううん。全然! むしろそのっ、黒田君って、物知りだな……って……」

「……いや、、、」

 否定の言葉の先は、口にしなかった。自らの知識の浅さを、力説するのも恥ずかしい。

(気遣ってくれてるのに、水を差すのも……な)

 そんな建前だけ頭に残して、気になった事を質問してみる。

「それより、本って……どうなの?」

 言葉の足りなさが、少ない知識を何より雄弁に語っていた。井上さんも困惑顔だ。

「あーそのっ。二重に見えてるんだったら、どう……なのかな? って」

 質問を口にして、気付く。普段、国語の朗読は、意識に残らないほど普通ではなかっただろうか。

 だとしたら、聞く必要もなかったかもしれないが、あくまで会話を主目的と考えることにする。


「んーっと……」

 そう言って、考えるポーズをする井上さん。左手を右肘に、右手を(あご)に添え、伸びた人差し指で右頬をとん、とん。

 左腕に押し上げられた胸が強調された姿に、思わず視線が引き寄せられた。

(でっか……)

 女性である事を失念していたわけではない。ただ、緩めでひらひらとした服に、隠されていただけだ。


 そんな事実が、また別の気づきを生む。

(目の違い、身体の違い……男女の差異)

 障害者、という言葉がある。ただ、そう呼ばれる人達が自分の隣にいたとして、いったい何の障害になるのかと、不思議に思っていた。

(障害者とは、いったい誰にとっての障害なのか……)

 身体の違いというなら、男女の差異ですら、障害だ。ただそれが、大枠として集団に受け入れやすかったから、集団という枠組みの中で当たり前のものと判断されているだけ。

(個人の間で、良き隣人として接する分には、誰にも何の障害もない)

 動画を見ていて『男性として産まれ、成長と共に身体が女性になっていった』という人がいる事を知った。その動画を見て『魚の中にそういう種類がいたな』と、本人に聞かれれば傷つけてしまう事を考えた。

(人類全体で見るのなら……進化の模索)

 本人にしてみれば、そんなものに成りたくはなかっただろう。ただし、親や周囲の心構えとして持っていれば、変化や違いに苦しまずに済んだかもしれない。


「片目に意識を向けてれば、普通に読める、かな? でも小説とか、文字が多いのを長く読んでると、つか……れ……」


 言葉尻がしぼんでいく彼女の声に、意識を引き戻された。視線に気づかれたようだ。

 そういう意図は無かったが、何も弁明出来ない。

 胸を押し上げる左腕が、身体を守るように、より強く胸を押し上げている。

(……逆効果だと伝えたい、が、伝えるわけにも、いかないよなぁ)

 まさか『アナタの胸で生物(せいぶつ)の進化に思いを()せていました』などと、言うわけにもいかない。かなりサイテーな言い訳、としか受け取られないだろう。

 だからと言って『ごめん!』と謝って、素直に許される未来が想像出来ない。マンガもアニメも小説も、だいたい一旦(こじ)れて、解決を図る筋書きばかり思い出す。

 視線は意思に反して、何度()らしても、また彼女の胸に吸い寄せられてしまう。後から考えれば、顔ごと逸らせば良かったと気づいたが、この時はそこまで頭が回らなかった。

 彼女の右手が、急かすように、髪の毛を高速でクルクルと回している。

 彼女を傷つけず、歩みと共に固まったこの場の空気をどうにかする言葉を探して、選んだ答えは……。


「フツー!! フツーナンジャナイ!?」

 困った時のトシ、様様(さまさま)だ。上擦った声も、変なイントネーションも、下手な誤魔化しも隠せないのなら、道化になるのも(やぶさ)かではない。


「へ……?」

 しかし、ジョークがジョークとして通じなければ、困ってしまう。

「あ、いや。えっ……と……小説! 俺も……長く読んでると、つか……れるし……?」

 いつもより高い声に、もっとスマートに誤魔化せるスキルが欲しいと、切に願った。

「え? あ、あぁ! そ、ソウダヨネーぇ……」

 なんとも不格好な即興劇。二人でしばらく見つめあって、まばたき二回。どちらからともなくクスクスと笑いあった。


「やっぱり、黒田君って変わってる」

 不格好ではあるが、変に拗らせることなく窮状を脱した充足感で、身体が満たされる。

「まぁ休日とか寝坊すると、母親に『人間の生活をしなさい!』だとか言われるくらいだからねぇ」

「えぇ……、それは……、私もお父さんに言ってるかも。そこまで辛辣じゃないけど『休日でもちゃんと朝に起きようよ』って」

「そういうの、お母さんじゃないんだ?」

 なんとなく、自分の家がそうだったから、朝に家族を起こすのは母親だと思い込んでいた。ただ、返答はそれ以上の衝撃だった。


「あ、えっと。私の家……お母さん、亡くなっててね」


「あー……っと……」

「ううん。気にしないで。もう、何年も前の事だから」

 そう言う彼女の顔に、暗さは無い。自信に満ちた顔で「こう見えて、家事全般任されてますからっ」と、小さくマッスルポーズ。本人が『気にしないで』というなら、必要以上に触れる事もないだろう。


「ん? あー、ひょっとして、それで『オカーサン』? その、浅村(あさむら)さんから呼ばれてるやつ」

 話題を変える為にも、普段から気になっていたあだ名について、質問してみる。

「んん゛っ」

 すごい呻きが漏れていた。

「あれは、その……(こころ)――浅村さんの、家も、父子家庭でね……」

 そう言って井上さんは、困った顔で嬉しそうに笑いながら、訥々(とつとつ)と語りだした。


「こころと仲良くなったのは、ちょうど、私のお母さんが亡くなった頃かなぁ」

 一つ一つ、思い出すように、丁寧に、優し気な顔で。

「当時の私は、小さい頃から目の事で揶揄(からか)われたりして、すっごく暗かったの。おまけにお母さんがいなくなって、お父さんは毎日お酒に逃げて、弟の面倒まで見て……。もうホンット! 絵に描いたような不幸家族!」

 そんな事を言いながらも、口角が上がっていて、楽し気だ。


「そんな時にこころが『わたしもだよ』って、声をかけてくれたの。まばゆい笑顔って、ああいう顔の事を言うのかな? 私、同じお母さんがいない同士なのに、どうしてそんな顔が出来るのか、気になっちゃって……」

 こちらを確認する視線、言葉を選んでいるような、口の開閉。

(『気になっちゃって……』……?)

 予想するのなら『友達になった』だろうか。ただそれだと、言葉を選ぶような、何と迷っているのか分からない。とりあえず先を促すように、彼女の顔を見ながら小首をかしげてみる。

「……それでね!」

 強引な話の転換。言葉を続けず先を話すのは、それだけ些細な事、なのだろうか。


「それで……、こころと話していく内に、分かっちゃったんだ。こころのお父さんは、有名企業のエリートで、優しくて、娘のわがままをなんでも聞いてくれて、見た目は私のお父さんより若くて格好いいのに、歳はそんなに変わらなくて。『あぁ、不幸な境遇を跳ね除けられるのは、やっぱりこういう家の子だけなんだ』って。……そう、思っちゃったの」


 その言葉は、なんとなく自分にも当てはまると思った。

 彼女のような不幸はない。だから、それを抱えた悪役にも、跳ね返すヒーローにもなれない。

 恵まれた境遇などない。だから、その幸せを分け与える聖人にも、驕る悪役にもなれない。

 そんな風に、今でも思っている。


「イヤな子だよねぇ、私……。せっかく仲良くしてくれてるのに、勝手に嫉妬しちゃって。あの子がお父さんを自慢する度に、私はお父さんの悪口を言って。……たぶん、お互い子供だったんだと思う。ある時ね、こころが『そんなダメな父親なら、捨てちゃえばいいじゃん』なんて言うから、私、頭に血が上っちゃって、怒鳴りつけちゃったの」

「怒鳴り……?」

 今の彼女からは想像できない行動。思わず聞き返してみると、彼女は「意外だった?」と、したり顔だ。

「怒鳴りつけて、泣き叫んで、嫌味も言って。そしたらあの子、なんて言ったと思う?」

「え?」

 それは、普通、喧嘩になるのではないだろうか。小学生くらいの子供同士であれば、そういう事もある。それに自分も……。


「花が咲くような笑顔って、あの事だと思う。最初の怒鳴り声で(すく)んで、(しぼ)んだ顔が、本当に花が開くみたいに笑顔になって、怒ってる私に向かって『おかーさん!』だって」

(それは……)

 思考回路がずいぶん、ぶっ飛んでいないだろうか。

 聞かされた思い出に困惑していると、井上さんが「眉間に(しわ)が寄ってる」と、イタズラっぽく笑って、指摘する。

「私も訳が分かんなくて。頭真っ白になっちゃった私に、こころが抱きついて。私が必死に引きはがそうとしても、こころはニコニコで頬ずりしてきて。もう、怒ってたのなんて、どうでもよくなっちゃった」

(あ……)

 それには、共感する近しい思い出が、自分にもあった。


「まぁでも、今なら何となく、こころの気持ちが分かるかな……」

 流し目と、無表情。

(? なんだ?)

 その顔に名付ける感情が、まだ自分の中からは、選び出せなかった。

 だがその顔も一瞬の事。すぐに微笑みで覆い隠され、疑問ごと霧散してしまう。


「なんでも叶えてくれる親と、なんでも人任せな親。率先して甘え上手なこころと、引っ込み思案で独りになりがちな私。たぶん、お互いに片親同士だから、二人で丁度いいんだよ」


(それは……)

 図書館で考えていた事と、薄く繋がった。

(足りない部分と、余った部分……だったら……)

 世の中の余りに余った問題は、どこの足りない部分に埋めればいいのか。あるいは、足りない事が問題なら、どこの余りで埋めればいいのか……。


 クスクスと……鈴が鳴るような笑い声に顔を上げて見れば、井上さんが楽しそうにしている。

「そんなに深く考えなくていいよ」

「え?」

 トントンと、彼女が(あご)を摘まむ仕草をみて、自分も同じように摘まんでいる事に気づいた。

「さっきから、ずーっと触ってる。それって、考えてる時、だよね?」

「あぁ……、気づいてなかった、かも」

「ふふふっ、うちのお父さんと一緒っ」

(それは……、どういう心境だ?)

 笑っているのだから、悪感情ではないのだろう。ただ自分が、目の前の彼女を自分の母親と同一視するような言葉は、あまり言いたくないように思う。

(親に向ける感情の差、か……)


 楽し気に「うちのお父さんね――」と、語る彼女を静かに見守る。

 ふと、前をみると、歩道の右側に電柱がある。このまま進むと、井上さんが歩きづらいかもしれないので、少し左に寄ってスペースを確保する。

 しかし、彼女はおしゃべりに夢中なのか、気づいた様子はない。

(あ、そっか。斜視って、たしか……)

 動画で聞きかじった知識。人間、両目で視るから、物を立体的に捉えられるのだという。片目では、平面的にしか視れず、距離感などが分かりづらいらしい。

 このまま進んでも、少し肩を(かす)めるくらいかもしれない。咄嗟(とっさ)にでも気づけば、身体を傾けて避けられる程度。

 正面の西日が落とす影は、電柱の根本を分かりにくくしている。

 語りを止め、不思議そうにこちらを見る彼女と、迫る障害。

(って考えてる場合じゃっ……)

「えっ!?」

 注意を促す言葉を失念し、手っ取り早く彼女の腕を掴んで引き寄せた。


「あーっと……、前、前」

 顎で電柱を示し、互いの失敗を誤魔化すように笑いかける。言葉足らずと、前方不注意。

 しかし彼女は黙ったまま俯いてしまった。気にしているのだろうか。

「あー……んー……」

 どんな言葉をかければいいのか分からず、頭を掻いていると、勢い良く上がった彼女の顔には、何かを隠すガチガチの笑顔。


「ゴメン! 私、買い物思い出しちゃったからっ!」


 そう言って離れる彼女に、信号機の青色表示が味方した。

 横断歩道を渡り、道路を挟んだ反対の歩道を、一緒に歩んだ方向と逆に戻っていく井上さん。

 途中で歩みを止め、こちらを振り返る彼女に、呆然(ぼうぜん)としながらも手を振ってみた。

 呆けた顔の自分とは対照的に、彼女は笑顔で手を振り返してはくれたが、その笑顔が何かを隠しているのか、本心なのか……。黄昏(たそがれ)時の離れた距離からは、(うかが)い知れなかった。

 来た道を見れば、他にも渡れたはずの横断歩道。

(イエローカード二枚で退場。……嫌われた、かな?)

 どこかで聞いた話だ。『男の視線に気づかない女はいない』という。

(内心はどうあれ、視線を()らしきれなかったわけだし、下心と判断されても仕方がない)

 他にも『好きでもない男に突然触られるなんて気持ち悪い!』なんて強い言葉も聞く。

(人付き合いの経験不足。知識や言葉を知っていても、場数が足りないんじゃ意味がない)


 せめて笑顔でいてくれた彼女に学びを得ようと、スマホを取り出す。

 開いたアプリから母親にメッセージを送る。


『 コンビニ寄るけど、なんかいる?』

『アイス三つ! 』


 カラスの鳴き声と腹の虫。

(アホーと言われても、ぐうの音が腹に響く)



 夕食も終わった風呂上り。冷凍庫から出したばかりのカチコチなカップアイスを突きながら、PCの画面にかじりつく。

 

 画面上では、いつか調べようと思ってそのままだった言葉を検索する。


『深淵をのぞく時』

 途中まで入力して、出てきたサジェストのそれらしい物を検索。

 出てきた結果から、言葉を残した人物が『ニーチェ』だと知る。情報の溢れる世の中の、どこかしらで耳目に触れる名前だ。

 その言葉の解釈をざっくり言うと……。

(ミイラ取りが、ミイラになる……)


「……」


 吐き気を感じるほどの思い当たりに、それでも考えをまとめたくて、PCのメモ帳を開いてテキストに文字を入力していく。


 暴力を振るった事が、二回、ある。

 一度目は幼稚園。

『ヒーローごっこの、なりたかったヒーローをとられたから』

 そんな事で、友達を叩いた。

 あの時の自分には、なりたかったヒーロー役を取った友達が悪者で、それを取り返す自分が正義の味方のつもりだった。

 ただ、世界を一つ広げると、悪者は自分になっていた。

 悪者は、正義の味方(せんせい)に叩かれて、怒られた。好きな、先生だった。

 叩かれた痛みより、好きな先生に怒られた事の方が、ずっと、ずっと痛くて、苦しくて、涙を流した。声を上げて泣いた。

 だから、暴力はいけない事だと学べた。

 だが、それからすぐ後、その先生はいなくなっていた。

 友達を悪者だと思って、叩いた。そんな自分こそ、悪者だった。そして先生まで悪者にされて……、その、次は……?

 なんとも言えない不安感に、飛びつくように、他の先生に自分が悪いのか聞いた。

『トオルくんは、まだ子供だから――』

 子供だから、なんなのか。大人だったら、どうなのか。

 体罰はいけないと言いながら、大人に向けて社会的体罰を与えている。

『深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ』

 前文には、次のような言葉あるのだという。

『怪物と戦う者は、戦ううちに自分も怪物とならないように用心した方がいい』

 自分は今、どんな怪物と戦おうと考え、その先では、どんな怪物になってしまうのか……。

 

「はぁ……」

 目元をほぐし、自分の入力した文字を鼻で笑う。なんとも痛々しい。

 そんな大それた怪物、成れるはずもない。精々、母親の言うように、人間の生活もまともに出来ない成り損ないだ。

 メモ帳に意識を戻し、続きを書く。


 二度目の暴力は小学校で。

 ヤンチャで、人の顔色など気にしないような奴だった。

 他人の机を蹴る。わざとぶつかってくる。『ごめんごめん』と言いながら、すぐにゲラゲラと馬鹿にしたように笑いだす。

 毎日、毎日。飽きもせずに繰り返す嫌がらせ。大人に注意されれば、大人のいない所で繰り返す。不快な奴。

 ある時、友達の間で『クラスに好きな子はいるか』なんて話が流行った。特に考えた事もなかったので、クラスを見回して、一人の女の子に目が止まった。それを勝手に『あの子が好きなんだ!』と決めつけられた。それ自体もあまり気分は良くなかったが、友達の言う事なので、考えるようになった。

 ただ、タイミングが悪かった。

 たまたま、その不快な奴が、隣の席だった。

 注意しても無駄だと思って無視する自分と、嫌がらせを繰り返しエスカレートするそいつとでは、相性が最悪に悪かった。

 どこかで誰かが言ったのか、好きな子の話が、そいつの耳に入った。

 毎日繰り返される机を蹴る行為に『お前、アイツの事が好きなんだろ』というセリフが付け加わった。

 瞬間的に、頭の中で『コイツは殺さなければいけない』と思った。思った時には、暴力はいけないなんて考えも、なにもかもどうでもよくなった。

 だからそいつを蹴り飛ばした。気分が良くなって、倒れたそいつに追い打ちをかけようとした。

 だが、それはクラスの()()()()()に妨害された。

 今まで散々、見て見ぬふりをしてきたオトモダチ。そいつの行動に、自分と同じように嫌な顔をして、それでもどうするべきか分からなかったオトモダチ。()()()()が、一斉に、『俺』の怒りを否定した。

 ずいぶん気分が良かっただろう。だって、自分がそうだったのだから。曖昧な嫌がらせと違って、間違いなく悪い事だと言われる暴力を止める人間は、周囲にも褒められる、正義の味方なんだから。

 だったら、自分がそいつらを悪人に落としてやろうと思った。大勢で、寄ってたかって、一人の感情を否定するのなら、そいつらの顔に、腕に、心に傷跡を残して、一片でも自分の感情を刻み付けてやろうと思った。

 だが、それすらも叶わなかった。

 ギャグ漫画みたいなオチだ。『んぐぉおおおおぉ!』と間抜けな声があがり、右手の中指と薬指に妙な温かさ。

 自分の後ろで羽交い絞めにする奴の顔面に爪を突き立てようとして、トシの鼻の穴に綺麗に指が入ったのだ。

 予想外の可能性。どうしようもなく笑いがこみ上げた。

 あんなにも激しい怒りが、こんなにもくだらない事で霧散させられた。

 頭では『笑うな』『怒り続けろ』と命じているのに、それすら可笑しくて、身体が勝手に笑いだす。

 だから、トシには感謝している。それから小さな恨みも。

 自分ではどうしようもなかった怒りを止めてくれた感謝と、怒りを殺されてしまった小さな恨み。

 どちらも正しく、自分の感情だ。


「はぁ……」

 テキストを保存して、ゴミ箱へ。PCのゴミ箱アイコンは、かなり前から溜め込んだままだ。


(人間万事塞翁が馬……)

 いつもの自分なりの言葉を探す一人遊びばかりではなく、昔の人の言葉に頼る時があっても、いいのかもしれない。

 ふと見ると、食べ頃を伺っていたカップアイスが、ドロドロに溶けていた。


「はぁぁぁぁ……」


 ドロドロのアイスを流し込み、繰り返される失敗のせめてもの反抗として、歯磨きをして寝ることにした。

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