第十一話 六. 鈴木結 明るい土曜日
土曜日の朝。朝食を食べ終えたら、お母さんのお手伝い。
「おかあさーん。お風呂の洗剤の詰め替えるやつどこー?」
「いつもの洗濯物カゴ置いてる棚にない?」
「そこに無いから聞いてるんだけどっ」
「じゃあ……、洗面台の下の戸棚かしら? そこにも無かったら教えて。買ってくるからっ」
「わかったー」
脱衣所の洗面台。その下の戸棚を探す。
(えーっと……、排水口の洗浄剤と、フローリング用のウェットシート二つ、石鹸三つ……、あった!)
雑多に放り込まれたとしか思えない戸棚の奥。そこに、目的の物が二つあった。
綺麗に整理整頓、必要最低限の物だけ置かれた脱衣所と見比べて、少しおかしくなる。なんだか、ママの隙を見つけた気分だ。
(お昼に千晶たちと出かける時、百円ショップに寄ろうかな?)
自分の部屋にも活用している整理整頓の動画を思い出して、今日の予定を追加する。
「さて、掃除そうじーっと」
詰め替え洗剤を容器に移して掃除していく。
浴槽の掃除は今までにも手伝うことがあったが『本格的にお手伝いするなら、床面もおねがいね』と、言われてしまった。確かに深く気にしていなかったが、床や壁の所々に赤い汚れがある。
(カビかな?)
床を手持ちブラシで、壁は白いキューブ状のスポンジで磨く。
「よし。……ん~、これも掃除しておいた方がいいよね……」
お風呂の鏡。周りを綺麗にしたことで、その水垢が気になってしまった。
「鏡もこれでいいのかな?」
手に持った白いキューブ状のスポンジで、試しに磨いてみる。
「おぉ、意外と落ちる」
文明の力に少し感動。
ただし、お風呂掃除が終わった後でお母さんに聞くと、ダメだったらしい。
くもり止めのコーティングが剥がれるのだとか。
お母さんは『小さな失敗を重ねて、学んでいけばいいからね』と、教えてくれた。
*
自室の掃除も終わらせて、昼食後。ママから「そろそろ千晶ちゃん達との待ち合わせ、準備しないといけないんじゃない?」なんて、わかりきった事を心配されて準備を始める。
(ママは心配しすぎっ)
この間の一緒にお風呂に入った件があるので、強くは言えない。それでも心配されすぎると、甘えて自立出来なくなってしまう。
大人と子供の中間地点。これが思春期ということかもしれない。
自室に戻って、用意しておいた服に着替える。
家と学校用の地味なヘアゴムで簡単に留めていた髪をほどく。代わりにお出かけ用の赤いヘアゴムで、ポニーテールにする。
(千晶も美紀も、髪は短いから被りを気にしなくてヨシ)
だからと言って、自由すぎるチャレンジャーな結び方はよろしくない。
(いっそ私も短くしようかな……)
ふと考えて、今は関係ない彼の視線を思い出す。
(んっ……!くぅぅぅっ!!)
変なダメージを受けてしまった。
「はぁ……」
彼に私のため息を聞かせてやりたい気分だ。私にだって、考えてる事はいっぱいあるんだぞ、と。
気を取り直して、お出かけ準備の続き。買い物予定なので、カバン選び。
(って言っても、二つしかないんだけどねぇ……)
小さいオシャレ鞄と、大きい実用鞄。
用意しておいた服に合わせるならオシャレ鞄だが、急遽追加した買い物用なら実用鞄だ。
卓上時計を見れば、着替える時間はない。仕方がなく、実用鞄を選ぶ。
(カバンも時間があったら見てみるか……)
ただしその発言権は、遅刻をしない者にしか与えられない。
(なんてね)
最後にメガネ。今かけている普段の物、とは別のメガネケースに少し触れ……。
(ん~、やっぱり普段通りっ)
誕生日に、パパにお願いして買ってもらった、赤い縁のメガネ。パパは『なんで二つも?』なんて言っていたが、お母さんの援護で買ってもらえた。まだ家族のいる前でしか、かけたことがない、お出かけ用。
結という名前は、パパが決めてくれたらしいのに、全然わかっていない。
(男の人って……)
そこまで考えて、また同じアヤマチを踏みそうになる思考を、頭を振って追い出す。
最近の私は、なんだか変だ。
時計を見れば、家を出ないといけない時間。部屋の姿見鏡には、頭を振ったせいで少し前髪の乱れた私。階下からはママの「ユイ~?」と心配する声。
ポニーテールを選んだ少し前の自分に感謝して、走る決心をする。
玄関に用意しておいた、先週買った靴を横に置いて、普段のスニーカーを履く。
(お披露目はまたいつか、かな)
結果、ちぐはぐになってしまったコーディネートで家を出る。
「いってきまーす」
小さな失敗だらけの思春期に、笑うしかない。
*
「でもユイが遅刻って、珍しいよねぇ~」
それぞれが買い物を終え、ファミレスのドリンクバーで休憩中、千晶からのチクチク攻撃をもらった。訳を話せという事だろう。
「まぁまぁ、電車には間に合ったんだから、いーんじゃない?」
美紀のフォローが心に沁みる。いま食べてるバニラアイスくらい。
「んふっ、別に、カバン選びに悩んだだけだって」
スプーンを咥えたままだったので、変な息が漏れた。カバンもさっき、少し見て周ったのだから嘘ではない。
しかし千晶は納得していないようで、ジト目で「ホントかなぁ~?」なんて、まだ疑っている。チョコレートアイスの付いたスプーンを私に向けて、くるくる回す。からかう気満々の笑み。
美紀の方はと言えば、唇を突き出して、少し面白くなさそうな顔。どうやらタダでフォローしてくれた訳ではないようだ。
「そんなことより! は~な~びっ! 七月七日の! 西区の! 二人は行かないのーっ?」
しびれを切らした美紀が言う。そういえば以前から、どうするか聞かれていた。
『色んなとこ出歩いてみないと、わかんないよね?』
(色んなとこ、かぁ……)
武田先生に言われた事を思い出し、少し考える。
説明を受けた内容は『全てに届く花火・子供の頃の記憶・子供の視野・細部まで描き込む大人視点・画用紙の世界』
おおよそ、そのような内容だったと思う。
(花火……誘って、来てくれるかな……?)
「私はちょーっとパスっ」
千晶が、顔の前で両手を合わせて、申し訳なさそうな顔で言う。
「えぇ~……」
それに対して美紀が脱力するようにテーブルに突っ伏して、縋るような目で私を見つめてきた。
「んー、私も……ごめんっ!」
私も千晶に続いて謝罪すれば、美紀の顔がますます渋くなった。
「あたしら、三年だよ? 思い出作る機会なんてもうあんまりないのに……」
美紀の子供みたいに拗ねる姿は、彼女をバレー部部長として慕う後輩たちには想像出来ないだろう。
そして、だからこそなのだとも思う。彼女が同じバレー部や他の友達ではなく、私たちと思い出作りをしたいと言うのは。
「あーっと……、ほらっ! 十五日! 南区の方だったらさ、私……は、行けるからっ!」
「私も私も!」
千晶のアイコンタクトで、美紀のご機嫌取り。
すると美紀は、ケロっとした表情でご満悦。自分のパンケーキを切り分けて「絶対だよ~」と、私たちに差し出してきた。女の友情とは、戦場である。
*
夕方。家に帰ると、お母さんから「お風呂のお湯を入れておいて」と頼まれた。洗面台下の戸棚の整理をしたいので、私はお母さんにタイマーをセットしてもらうように頼む。
「入れてるよ~!」
廊下に顔だけ出して、リビングに伝えるために大き目の声をだす。
扉越しの小さな「はーい」というお母さんの声を聞いて、作業開始。
(空間を意識して……)
動画で視聴した内容を思い出しながら、百円ショップで買った簡易棚や収納ボックスを配置する。
「よしっ」
戸棚から出した日用品を整理して、自分の仕事に満足。
「おわったー? お、すごいじゃなーい」
「私だって、いつまでも子供じゃありませんっ?」
小さい子供を褒めるみたいなママに、少しだけ反抗。
「じゃあ次はお料理、手伝ってもらおうかしらー?」
あっさり引き下がって次の仕事を追加するママ。
「冷蔵庫にゼリー買ってあるからねっ」
と、満面の笑顔でウィンクするお母さん。
一人二役の大立ち回りに、思わず笑ってしまう。
*
「ただいまー」
タイマーが鳴ったので、お風呂のお湯を止めに行くと、パパが帰ってきた。
「おかえりー。お風呂もう沸いてるからー」
お湯を先に止めて、玄関で靴を脱いでいるパパのところに行き、上着と鞄を預かる。
「パパたちの部屋に持っていっとくね」
「へっ? あ、あぁ……」
パパの呆けた顔にしてやったり。少しだけ成長できた私を実感して、パパたちの部屋に向かう。
「鞄……は、ここでいいかな?」
部屋に入ってすぐ、左手。私が小さい頃に使っていたらしいベビーチェアがある。
記憶にはあんまり無いが、パパのスマホに同じような当時の写真が何枚も入っている。
お母さんが椅子を処分しようと言っても、私が恥ずかしいから写真を一枚だけにして欲しいと頼んでも、頑なにパパは拒否してしまう。
仕方がないからパパの鞄置きとして使っているのだが、部屋の内装に全然あっていない。
(……変なこだわり。もっと現実見ればいいのにっ)
なんだかムカつくので、パパの上着に消臭スプレーをたっぷりかけてやる。
そこでふと閃いた。
(さすがに本人にかけたら怒られるかな……?)
邪悪な閃きに「ふふっ」と、思わず楽しくて、次にお買い物する時は制汗スプレーを買ってあげよう、と思う。
ふと、パパの上着を持っていた手を嗅いで、しかめっ面のフレーメン反応。人間はその器官が退化しているという話だが、臭いものは臭い。
「とりあえず、手ぇ洗おっ」
*
「今日はね、ユイが晩御飯手伝ってくれたのよ」
パパ、ママ、私の順でお風呂に入ったら、家族揃って晩御飯。
ママの言葉に、パパの視線が食卓の上を巡る。パパの手が奇跡的にナスの肉味噌炒めを引き当て、取り皿に移す。
「う~んっ! すごい! おいしい!!」
パパが、テレビみたいな大げさなリアクションをする。
(……恥ずかしいから減点1)
「別に具材切ったくらいじゃ、味は変わらないでしょ」
「へ? あれ?」
「ママが付き合いはじめた時は、具材が大きすぎるだの小さすぎるだの、甘すぎる、辛すぎるって、うるさかったのにねっ」
「ウワッ、なにそれっ! サイテーじゃんっ」
そこまで言って、パパがあまりにもションボリ顔をするので、お母さんが「あんまりイジメすぎると拗ねちゃうから、ここまでね」と、ウィンクしながら教えてくれた。
「まぁでも、どんなにパパが拗ねても、おかあさんには必殺技があるからねっ!」
なんて言うのは、『お母さん』なつもりの『ママ』である。
*
食事が終わり、21時ごろまで一家団欒を過ごしたら、自室で勉強の時間。
パパから借りたポータブルCDプレーヤーで音楽を聴きながら勉強をするのが、最近のお気に入り。
(いま使える物ならまだしも、ベビーチェアはさすがに……っ)
「集中集中!」
パンパンっと、頬を叩く。変な自分との付き合い方も、少しづつ慣れてきた。
しばらく勉強を進めていると、スマホに通知が来た。千晶からだ。時刻は22時。
『いま、通話いける?』
イツモノやつだ。ペンを置き、私から通話を掛ける。
「もしもーし」
『ごめん、寝てた?』
「ううん。勉強ちゅう」
『そっか……。そーだよねぇ……勉強しなきゃだよねぇ……』
現実に対して、したくない。つまりは逃避したいのだろう。
「いいんじゃない? 勉強しない日があってもっ」
『ありがと。まぁ……、毎度の事なんだけどねぇ……。私も、いいかげん慣れろって、話よねぇ~』
「……」
毎度の事――千晶のお父さんとお母さんの喧嘩の事だ。
『アッハハー……。ごめん。重いよねぇ』
「ううん。そうじゃない。そうじゃなくて……」
自分の思いが、言葉にならなくて、もどかしい。
世界のどこかにあるはずの、世界のどこかにはあって欲しい言葉。
それを知らない自分が、悔しかった。
『へへっ……。ごめん。暗い話……、やっぱやめ――』
「たぶん!」
諦めようとする彼女に、言葉も知らないのに、制止をかけた。
「たぶん……、慣れちゃ、ダメ、な、ことも……ある。と……思う」
薄い糸。
水でふやけて、今にも解けそうな、そんな何か。
力を込めれば、千切れてしまいそうな何かを『思う』という言葉で、緩く、結ぶ。
『フフッ。ありがと……』
スンッと、鼻をすする音。片耳だけつけたイヤホンからは『涙の数だけ強くなれる』という歌詞。
涙を流した後に、家族が待っていてくれた私。家族が原因で苦悩する千晶。
言葉だけでは足りない気がして、耳から聴こえる歌を軽く口ずさむ。
『ちょっとやめてよぉー。泣いちゃうじゃん』
そういう彼女の声は、何だか楽しそうな『へひひ』なんて音が漏れている。
少しだけ元気の出た千晶が『なんだっけ、その曲?』と聞くので、ハードカバーの本のようなケースの裏面と、プレーヤーのトラックナンバー表示で曲名を教える。
「お父さんから借りたCDの曲。たぶん昔のヤツ」
その後は他愛ない話で盛り上がった。時刻は23時過ぎ。
私が「シンデレラの魔法は24時までらしいよ」と茶化せば、千晶が『シンデレラタイムは個人で違いますコトヨ?』なんて言って、話を終える合図。
『おやすみ』
「うん、おやすみ」
そう言って通話を切る。
(出来る事なら良い夢を……)
そんな無責任な願いは、乙女チックが過ぎるだろうか。