第十話 五. 鈴木結 糸口を、手繰り寄せて
放課後の部活動。
昼休みに勢いよく決意表明したは良いものの、特に名案があるわけでもない。
(あれ? っていうか結局、なんにも話進んでなくない?)
そう思うと、なんだか無性に腹が立ってきた。昼休みは彼の勢いに押されて、いい感じにまとまった。と思わされてしまったが、冷静に考えると、してやられている。
(いっそ、簀巻きにして無理矢理に連れてきてやろうか……)
気分はSM女王様。頭の中で、泣きわめく彼に鞭を振るう様を想像すると、少しだけスッキリする。
「ユーイっ! 何考えてんのー?」
そんな事を考えていたら、千晶がやってきた。声掛けと共に私の両頬を片手でつまむものだから、私は今タコさん口だ。
「へつにー。はにもー」
上手く喋れないので、抗議の為に口でパクパクと音をたててやる。高速で。
そんな姿が面白かったのか、千晶もすぐに手を離し、ケラケラと笑っている。
「で? 結局どーなのよ。黒田クン」
「ん~、どうって言われてもなぁ~」
「……朝、アイツ謝ってたじゃん」
しっかり覚えられている。千晶の冷たい声に、ちょっと黒田君に申し訳なく思う。
(そばで聞いてたんだから、当然といば当然か……)
「アハー……。あれはまぁ、お互い? 不慮の事故? と、いいますかぁ……」
泣かされてしまった、などと言えるはずもなく、テキトーに視線を逸らして誤魔化す。
「ふ~ん。無理、してない?」
彼女の声に、不安や心配を感じる。その声に、彼女が普段『両親はいっつも喧嘩ばっかり』と、愚痴っていたのを思い出す。
一度だけ、千晶のお母さんに会った事があるが、普通の優しいお母さんだった。そんな人でも喧嘩をするのかと、挨拶する時に、少し緊張したのを覚えている。
だから彼女の不安を解消するために、指先をちょいっと摘まむ。赤ちゃんをあやすだけの、短い動画で見た動作。それにとびっきりの笑顔を加えて。
「だぁーいじょぉーぶっ。心配しないでー」
そう言って、子猫の肉球をふにふにするみたいに遊んでみる。すると彼女から「ふふっ……」なんて笑い声が聞こえた。
「もぉ……。それ私が芽衣にやってることー」
芽衣――千晶の妹さんだ。今年で小学二年生だと言っていた。
何度か私の家で、いつもの三人――私と、美紀と、千晶――でパジャマパーティーをしようとなった時に、千晶が一緒に連れてくる。最初はおっかなびっくりな様子だった。だけど慣れてくると、元気いっぱいで、おしゃべりが大好きな子だとわかる。
そんな小さな子が、親の喧嘩を見て育つ事実に、……悲しく思う。
「まっ、私らは私らで……」
そう言って、繋がっていた指から離れて、私の両頬に軽く指を添える千晶。
「楽しくやれたら、それでいいんじゃない?」
指先でこねこねと、ほっぺたを弄ばれた。
私はそれに、微笑んであげる事しか出来ないけれど、自分が今、出来る事を見つめる。
(楽しくやるために、しなきゃいけないこと……)
大きな体で、小さなノートパソコンに向かって何か作業をしている武田先生。
(聞ける事、全部聞こうっ)
小さな声で「よぉし!」と、力強く気合を入れる。千晶に目配せして、頷き、背中を押してもらう。
自分だけでわからなかった事を、知るために。
「先生」
声をかけると、武田先生は作業の手を止め、顔だけこちらを向いてくれた。エサに夢中だった小動物が、人間の存在にびっくりしている姿に似ている。
でもその顔は優し気だ。驚いて、微笑んで、ヤギが草を食べてるみたいにアゴを動かして、生徒を笑わせる事に全力なのだ。……緊張を和らげようとしてくれているのかもしれない。
(そんなに私、硬く見えてるかな……?)
少しだけ、そんな事を考えていた私に、先生は優しく「なんだい?」と声をかけてくれた。
「えっと、その……お話、を……聞いても、いいですか……?」
ちょっと失礼な考えまで見透かされてる気がして、恥ずかしくなる。話の詳細がすっぽ抜けてしまったので、指でチョイチョイと、廊下側をさす。
すると先生は、ゆっくりと重たそうな体を、椅子から立ち上がらせて「アイテテテっ」なんて言う。
(……やっぱり、おもしろい先生)
先生と連れたって廊下に出る。目的はもちろん、彼の作品だ。
ただ『絵』というよりも『作品』と呼ぶべきそれは、夏のまだ高い夕方の日差しから、校舎内の影で守られるように飾られている。
先生が、廊下の照明を点けて戻ってくる。
少しの期待をしてみるが、照明の明りの元でも、初めて見た時の感動は戻らなかった。
「黒田君の事?」
「……はい」
どこから話すべきかを考えて、考える時間がもったいなくて、支離滅裂に言葉にする。
黒田君にお願いして、拒絶された。
甘い期待ばかり見ていて、何もわからなかった自分。
それでも描いて欲しかった気持ちと、その理由。
今は、この『絵』を見ても、最初の感動が見えなくなってしまった事。
それでも残った、描いて欲しいという……欲。
……それでも描きたいものがないという、彼。
いったいどうしたらいいのか、分からなくて、彼の『作品』を、先生に教えてもらいたい。と、伝えた。
「……ふぅーむ」
いつもの面白い先生が、あの時『覚悟』を聞いてきた先生に変わる。
「描きたいものってなると、ある日突然見つかるかもしれないし、見つからないかもしれない。もちろんその為には、色んなとこ出歩いてみないと、わかんないよね?」
いつもはゆったりとしている先生が、授業の時みたいに話し出した。
「それと、君の理由の方だけど。やっている事は説明出来るよ? でも君の理由は、そういうのじゃあ、ないんじゃないかな?」
そう言いながらも、一つ一つ、丁寧に教えてくれる先生。
作品の手前の情景から。両サイドにクレヨンで描かれた木の幹。貼り絵の道と、木に生い茂る葉。
視点の低さから、子供の頃の記憶ではないだろうか。
その奥の人々。色鉛筆で展望台らしき場所と集まった人たちを描いている。人の姿は一人一色。背格好と男女が分かる程度の影の様に描いている。
されにその奥、展望台から見える街並みはボールペンの赤・青・黒で、輪郭だけを細部まできっちり描きこでいる。
そして習字の墨で描いた山々。紺の画用紙に穴を空けた夜空と、裏側の白い画用紙で表現する星々。
すべてに覆いかぶさる水彩の花火。
「まぁ、クレヨンは水彩を弾いちゃってるけど」
そこで先生は改めて作品全体を見て「うん」と頷いて、言葉を続けた。
「おもしろいよね。やりたい事、やってみたい事、やれる事。いっぺんに詰め込んだ感じだ」
そう言う武田先生は、いつもより饒舌で、楽しそうだ。
「子供の頃は細部があやふやだけど、視野が広い。大人になるにつれて細かく描き込めるのに、視野は狭い。全ては画用紙という世界の中で、遠くの星に手は届かないけれど、花火の光は全てに届いてる」
真面目な顔で作品に向き合っていた先生が、こちらを向いてニッコリ笑う。
「そんな風に考えさせられちゃったら、大人の負けだよね?」
(『負け』って言う割には、嬉しそう……)
先生の解説を聞いて、改めて作品を見る。
最初に感じた感動と、同じかわからない。けれど、何か新しいものが、芽生えた気がする。
「すごいよね」
本当にそうだと思う。でも、先生のその言葉は、違っていた。
「いつもは、最優秀賞も出るか出ないかってコンクールなのに、この年は入賞枠全部埋まっちゃったんだって。仕方ないから、佳作賞を用意したらしいよ」
「え?」
(それは、……どうなんだろう?)
普通なら、それが理由で描かないのか、とも思う。けれど彼の場合は、なんだか違う気がする……。
そんな風に考え込む私を見て、何故か先生は満足そうな顔をしている。
「まぁ、描かない理由なんて勝手な想像だよ。本当に描きたいものが特にないだけかもしれないし。あるいは、見ようとしていないのか」
先生が『今日の授業はここまで』と、言外に発する。そしたらまるで、タイミングを計っていたように美術室の扉が開いて「先生」と、部長の千草さんが顔を出した。
「ミサキさんが呼んでますよ」
千草さんが用件を話すと、先生は「はいはーい」なんて軽い調子で応えて、美術室に戻っていった。
私もその後を追おうとすると、千草さんがこちらに来て、私の前に立ちはだかる。
「あの、えーっと……」
普段あまり、話す機会がない人なので、どう接したものか悩む。
千草楓さん。家はたしか茶道教室をやっているらしい。主要道路から住宅街の入り口にある、茶道教室と書かれた看板のある和風な一軒家がそうなのではと、噂を聞いた事があるくらいだ。
出で立ちはまさに清純和風お嬢様。長くて綺麗なストレートの髪を、校則に則って簡素に束ねてある。
そんな人を前にすると、なんだか自分まで背筋が伸びてしまう。
「黒田くん、ね……」
唐突に彼の名前を呼ばれて、千草さんを見れば、彼女は彼の作品を凝視していた。
「変な人よ」
と、視線だけでこちらの様子を伺いながら、顔と体は作品を見たままだ。
なんと返したものか悩み、そうして黙っている事こそ、彼女の空気に取り込まれているようで、少し怖い。
また視線を作品に戻して、彼女が語りだす。
曰く「筆をテキトーに振って、飛び散る絵の具を眺める」だとか「グー握りで筆が痛むんじゃないかってほど強く線を引いたかと思ったら、持ち手の先を摘まんでヘロヘロの波線やら何やらを描いたり」だとか、美術部に来ていた頃の、彼の話を聞かせてくれた。
(私の知らない、彼のこと……)
「キャンバスにバケツで水をぶちまけてもいいか、なんて先生に訊いていた時は、さすがに呆れたわ」
口元に手を当て、クスクスと笑う彼女に、私は呆けていた。
ひとしきり笑うと、彼女は私に背を向け、一度だけ振り返る。
「私、あなたとお友達になりたいわ」
見えない水をぶちまけられた気分の私に「他意はないから」とだけ残して、千草さんは美術室に戻っていった。
(え……、私この後、部室に戻るの……?)
嘆いたところでカバンは部室の中。先生に話を聞くだけのはずが、余計な闖入者に心をかき乱されるのであった。