第一話 6月25日、火曜、黒田の1。
「黒田君ってさ、何でそんなに、やる気ないの?」
昼休みの教室。食事を終え、残ったクラスメイトも疎らな時間。
受け取られる事の無かった提出忘れのプリントが、ヒラヒラと、右手の指から逃げ出そうとしている。
(まさに自分の心境だ……)
両頬を掴んできた彼女の手に、逃がすまいとする意志を感じる。
彼女の両肩に乗る長めの後ろ髪は、それぞれ一束づつ、飾り気のないゴムで留められている。
(The・真面目……)
真剣な眼差しにも、派手さのないメガネが掛けられていて、クラス委員長という肩書きに相応しい。
真面目完全武装の中に見出せる愛嬌としては、小さく低い鼻と、丸めの輪郭くらいだろうか。動画サイトで見かけた赤ちゃんの動画が思い浮かぶ。
だがその唇は、発した言葉を強くする為なのか、ほんのりと、赤い。
「はぁ……、イテーんだけど」
目に見える情報で、状況を理解することを諦め、不満を口にする。
教室の窓側を眺めていた姿勢を、無理矢理、反対に向けさせられたのだ。当然痛い。
確かに態度は悪かった。態々プリントの回収に来てくれた委員長に、彼女の方を向くことなく、机から引っ張り出したそれを、投げやりに渡そうとした。
だが『やる気がない』と他人に断じられるほどではない。必要最低限の労力で事に当たっただけだ。
あまつさえ、シュージン環視の中で強引に顔を掴まれるなど、中学生の身では耐えられない責め苦だ。
(来年には卒業。残り九ヶ月。されど人の噂は七十五日)
夏休みを挟むのが、救いと言えば救いだろうか。
「はぁ……」
物理的に逃れられないのだからと、思考に逃げてみたものの、一向に彼女の手は離してくれない。そんな膠着状態を知ってか知らずか、彼女の後ろで、冷やかすような口笛が鳴る。
呆気に取られていたクラスメイト達も、その音で我に返ったようで、ひそひそと噂話が始まる。
委員長もこれ以上は無用と判断したのか、プリントを回収して、背を向ける。
(どっちにしろ、気が重い……)
「物理はズルいっしょ」
「ルールに穴があるほうが悪い。約束どーり、アイスティーごちー」
結局は、からかわれたのだ。
女子の遊びに巻き込まれた大人しい一般モブ。クスクスと響くクラスの笑い声。教室を去る委員長のポケットからは、マスクの紐が見えていた。
(モブが、個性を持ってしまった)
物語の締めに相応しい言葉を考えて、再び窓の外でも眺めていようと思ったら、近づいてくる足音が二人分。
「なになに!? とーるサン、イインチョーとなんかあったの!?」
黒岩俊哉。サッカー部。小学校一年から中学三年までの九年間、同じクラスという、腐れ縁もここに極まれりな友人である。
「トシ……。踏み込み過ぎは、よくないんじゃなかったのか?」
友枝康成。トシと同じサッカー部で、部長をしている。世話焼きな性格。たまにその世話焼き部分がお節介になり、面倒にも感じるが、トシを緩衝材として接する分には良いヤツである。
「いや、俺はいーのよ! なんてったって、九年も苦楽を共にした親友サマよ?」
トシの軽口を、軽く鼻で笑い飛ばす。
「いや、ウザいは、ウザいぞ?」
そう言ってバッサリ斬ってやると、トシはトシで、無言の顔芸でショックを訴えてきた。
「それで? 結局なにがあったんだ?」
気の知れた仲。トシと友枝との会話で、クラス内に弁明を図るのも、一つの手段かもしれない。
だが如何せん、委員長に対する情報が少ない。
(市立ハシギ中学、三年二組。クラス委員長。クラスメイト女子Suz……)
そこで、教室に張り出されているクラス名簿の中から、彼女の名前を探す。
(Suz……す……、鈴木……結)
そんな事をしていると、友枝の顔が脱力し、苦笑が漏れた。
「いや、黒田……、おまえホンットそういうとこっ!」
(どういうトコだ……?)怪訝な顔で応える。
すると、あのトシですら、訳知り顔で腕組みして頷きだした。
「さすがに三ヶ月だぜ……。名前くらい、覚えようや……」
今まで『委員長』という呼び名で十分だったから、覚えてこなかっただけなのだが、どうやらダメらしい。
弁明を図るどころか、クラスの雰囲気が非難よりになったのを感じる。
「そうは言ってもなぁ。接点がない」
言い訳でもなんでもない、事実だけを伝える。
中学三年間で、初めて同じクラスになった人物だ。知りようがない。小学校まで遡れば、同じクラスにいた事もあったかもしれないが、そもそも出身小学校が同じかどうかも知らない。
そんな事を考えていると、友枝が不思議そうな顔をする。
「接点って、お前、美術部じゃなかったか?」
確かにそうだが、それが何か関係あるのだろうか?
友枝に倣い、不思議そうな顔で応える。
「いや、委員長も美術部だって。そっちでなんか、あったんじゃねーの?」
だとすれば、ますます分からない。
「俺、幽霊部員だぞ? 部活に顔出してたのなんて、一年の頃の半年くらいだったし」
委員長が美術部だったのを初めて知った事を考えれば、自分が顔を出さなくなった後に、彼女が入部したのではないだろうか。自分の側からも、彼女の側からも、お互いを認識する機会など、ないはずだが……。
友枝と二人で眉間に皺を寄せあっていると、トシが間に手刀を挟んできた。
「お前ほら、アレがあったじゃん。あのナントカの賞取っただかなんだか。アレって美術室前の廊下に、ずっと飾られてないっけ?」
(あぁ。アレ……)疑問も眉間の皺も、溶解した。
一年の頃のお遊び。ただソレを作ってみたいが為に、美術部に入部した。ナントカな美術コンクールの自由創作部門で、佳作賞を取ったらしいが、自分には興味のない事だった。ただ、そのせいなのか、作って満足して退部しようとしたら、引き留められたのだ。それゆえの幽霊部員。
「ある日見つけた絵画! 大人たちにも認められる出来栄え! あぁ! 黒田透さんってどんな方なのカシラ~っ!」
などと、自分の体を抱きしめてクネクネしだすトシ。
そんなトシにあきれて、友枝がツッコミをいれる。
「いや、委員長だぜ? それは、なくないか……?」
だが、トシはその主張を譲らなかった。チッチッチッと、人差し指を立てて左右に振るという古典的なマンガの真似をして、言い放つ。
「君ら甘いねぇ~。真面目で堅物。責任感のつよ~い女ほど、白馬の王子様に憧れてるもんだぜぇ~」
『ゴフッ』と、こちらの話に聞き耳を立てていた女子グループの一つで、咳き込む音が聞こえた。
一瞬、そちらに視線を送りそうになるが『言わぬが花』という言葉を思い出して、トシに続きを促す。
「だって、ウチのねーちゃんがそうだし」
友枝と二人で顔を見合わせ、納得する。友枝の家は男ばかりの四人兄弟。自分は一人っ子だ。女性の話というものには疎い。
それに比べてトシの家には姉がいる。長女、長男、そして末っ子のトシの三人姉弟だと言っていた。女性理解という面で、姉がいるのは大きいのかもしれない。
「ちょっとクロイワー。みさとの事、あんまイジめんなー」と、ニヤニヤ笑うクラスメイト女子Sak。
そしてそれを必死で止める『みさと』と呼ばれたクラスメイト女子In。
その周囲のクラスメイト女子Asと、Nisと、Sas。
別のところでは、坊主頭の野球部、クラスメイト男子HamとMisが肘で小突きあっている。
関わりはないが、自分と同じ窓眺め組のクラスメイト男子NakとWakは、最初に一瞥しただけで、興味もなさそうだ。
(一旦、弁明タイムは終わりかな……?)
6月25日。曇りのち雨の予報を裏切った、晴れ間すら見える疎らな雲。月曜以上の憂鬱に苛まれる火曜。マンガやアニメのように、天気は自分の気持ちを代弁してくれない。
(吹き抜ける風も、晴れ渡る空もない、ガラス越しの世界。窓の水垢だけが、心の拠り所……)
『フンッ』と、思わず鼻で笑ってしまい、トシと友枝に怪訝な顔をされるが、首を振って『なんでもない』ことを伝える。
誰に言うでもない、一人遊び。