砕け散った初恋
短編『砕け散った初恋』の前半部分と内容は同じです。
一部表現を変えてあります。
その会話を聞いてしまったのは、本当にたまたまだった。
わたしは花を見るのが大好きで、その時は植え込みの傍に咲く小さな花を見ていた。
花をよく見ようとしゃがみ込んでいたのでうまく植え込みの陰に隠れて見えなかったのだろう。
婚約者の声が聞こえてきたのでわたしは思わず聞き耳を立ててしまった。
そして、聞こえてきた言葉に目を見開いた。
「『ちょうどいい』からだよ。共同経営で事業を興そうとした時に婚約者のいない同い年の男女の子供がいた。爵位は少し離れているけれどまあ許容範囲だし。家同士の繋がりを強めるのにちょうどいいからこの婚約は為ったんだ。それだけの理由だよ。向こうだってそれは承知のことだ。だいたい事業提携のための政略結婚だ。そこに愛だの恋だの持ち出すのは馬鹿げている。彼女はそのへんをきちんと弁えているから気楽だよ」
咄嗟に口を手で覆った。
叫び出さなかった自分を褒めてやりたい。
好きだった。
本当に好きだったのだ。
家同士の絆を強めるための政略結婚の相手。
だけどわたしに向けてくれるあの柔らかい笑顔が好きだったのに。
わかってしまった。
今の彼らのやりとりでわかってしまった。
彼はわたしに何の感情も抱いていないことが。
ただの政略結婚の相手。それ以上でも以下でもない。
淡々と語る声でわかってしまった。
そこに婚約者であるわたしへの愛情は一欠片もなかった。
ぱりんと音を立ててわたしの初恋は砕け散った。
もっと『ちょうどいい』相手が見つかればあっさりと何の未練もなく彼はわたしを捨てるのだろう。
うずくまる。
できるだけ小さくなるように丸くなる。
今気づかれたら、耐えられない。
彼はわたしに気づいても、今までと何も変わらないあの笑顔で何の後ろめたさもなく声をかけてくるだろう。
それともはしたないと顔をしかめるのだろうか。
どちらにせよ耐えられない。
ノークス様とご友人はわたしに気づくことなく遠ざかっていく。
その声も足音も聞こえなくなってからわたしは力なく座り込んだ。
馬鹿みたいだ。
ただの政略結婚の相手を好きになるなんて。
ーー両親みたいに仲のいい夫婦になりたいと願うなんて。
そのための努力さえも。
相手は侯爵家、わたしの家は子爵家だ。向こうの一存で簡単に婚約破棄できてしまう。
苦しい。
痛い。
胸が張り裂けそうだ。
打ち砕かれた恋心がつらい、悲しいと叫んでいる。
このまま朽ち果てられたらどんなに楽だろうか。
そんなことを考えてしまう。
ああ、でももう立ち上がれない。
立ちたくない。
このままうずくまっていたい。
動きたくない。
喉がひきつる。
叫び出したい。
思いっきり声を上げて泣いてしまいたい。
でもできない。
声は喉に絡み、涙もこぼれることはない。
ただ蹲って衝動が過ぎるのを待つことしかでない。
ああ、ああ……
今にも叫び出しそうになるのを必死に堪える。
ふと、さくさくと草を踏む音を耳が捉えた。
息を殺した。
顔も上げない。
こんな姿など誰にも見せたくない。
気づかないで。
そのまま通り過ぎて。
願い空しく、足音はわたしの目の前で止まった。
視界によく磨かれた革靴が映り込む。
どこかに行って。
お願い。
わたしに関わらないで。
そう願ってもその革靴の持ち主は動いてはくれなかった。
そして、声が降ってきた。
「助けてあげましょうか?」
顔なんて上げるつもりはなかった。
顔を見られたくなかった。
そんなことより早く立ち去ってもらいたかった。
だが何故だろう、顔を上げて声の主を見上げてしまった。
艶やかな黒髪に光を孕んだ漆黒の瞳の、わたしよりいくつか年上の青年がわたしを静かに見ていた。
読んでいただき、ありがとうございました。