ハンカチの理由
リーリエ視点です。
馬車にはすでに侍女が戻っていた。
子爵令嬢であるわたしには専属の侍女というものはいない。
今日は買い物に出ていたのたが、使いを頼まれた侍女が近くで用事を済ませる間に一言言付けて少しだけ散歩に出ていたのだ。
ここは王立図書館であり、その敷地内であれば、一人でいたところで不名誉な噂を立てられるようなことはないから。
使用人に用事を言いつけて一時的に一人になる貴族はそれなりに散見されるためだ。
御者の手を借りてわたしが乗り込めば、馬車はゆっくりと動き出した。
「お嬢様、遅かったですね。心配しました」
「ごめんなさい。ちょっと……」
うまい言い訳が思いつかずに口ごもる。
侍女が訝しげな顔になる。
「お嬢様、何かありましたか?」
わたしはかぶりを振る。
それで納得されるわけはないので追及される前にわたしはハンカチを取り出して侍女に差し出した。
「このハンカチを洗っておいてもらえる?」
「お嬢様、このハンカチは……?」
「目にゴミが入ってしまって涙が止まらなくなってしまった時に親切な方が貸してくださったのよ」
「まあ、目にゴミが。大丈夫でしたか?」
「ええ」
心配そうな侍女に大丈夫だと微笑む。
「もし違和感があればすぐにおっしゃってくださいね」
「ええ、ありがとう。今のところは大丈夫だから」
「それはようございました。ですが、万が一ということもありますので」
「わかったわ。違和感があったら必ず言うわ」
そう言うとようやく侍女の表情が和らぐ。
「ではそのために戻りが遅かったのですね」
わたしは曖昧に頷いておく。
なるほどと侍女は一人で勝手に納得してくれる。
「それでその方はハンカチを渡してすぐに立ち去ってしまわれたのですか?」
思いがけないことを聞かれて一瞬思考が止まったが、すぐに思考を巡らせる。
すぐに立ち去ったと言うべきか、その場に留まっていたと言うべきか。
すぐに立ち去ったとなると冷たい人間だと思われかねない。
それなら当たり障りのない表現で伝えておいたほうがいい。
「涙が止まるまで傍にいてくれたの。もちろん適切な距離だったわ」
「常識のある方でよかったですわ。お嬢様の涙を見せないように盾になってくださったのでしょうか?」
そういうことにしておいたほうがいいだろう。
事実、心を守る盾になってくれていたのだから。
ノークス様の本音はショックだったが、取り乱さずに済んだのはそっと寄り添ってくれたサージェス様のお陰だ。
あの時、サージェス様が声をかけてくださらなかったら、あのままずっとうずくまってあの場にいたかもしれない。
本当にサージェス様には感謝しかない。
「ええ。誰も近づけないようにしてくださったの」
「まあ、親切な方ですね。どちらのお屋敷の方でしょう?」
そう訊いてくるのはごくごく自然なことだ。
言い淀めば勘ぐられるかもしれない。
知らないでは済まされない。
意を決して告げる。
「トワイト家の、サージェス様よ」
侍女が動揺する。
気持ちはわかる。
わたしも知った時は動揺してしまった。
「トワイト家と言えば侯爵家、サージェス様と言えば御嫡男様ですよね!?」
「ええ、そうね」
「そんな方が何故!?」
わかる。
やっぱりそう思うのが普通よね。
わたしはサージェス様の名前を知るのが遅かったのでその疑問を抱くには遅すぎた。
そもそも本当はサージェス様の姿を見た時にわからなければならなかったのだ。
フワル侯爵夫人に知られれば叱責されるだろう。
「わからないわ。優しい方なのかもしれないわね」
実際に優しい方ではあるけれど。
高位貴族の中には下位貴族など歯牙にもかけない者たちも多いのだ。
ノークス様もわたしには親切にしてくださるけれど、そういう一面がおありだ。
それが高位貴族のあり方だと理解している。
だけどサージェス様は特に交流のないわたしにも親切にしてくれて、それはしがない子爵令嬢だと知った後も変わらなかった。
根本的に優しい人なのだと思う。
そうでなければ捨ておくか、何の変哲もない無地のハンカチを渡してその場を立ち去るだろう。
だがサージェス様はわたしの傍にいてくれた。
わたしの弱みにつけ込むこともなく、心に寄り添ってくれた。
そんなこと本質的に優しくないとできないことだ。
ましてや「力になる」などと口にできることではない。
「そうかもしれませんね。お嬢様に親切にしてくださったのですから」
「ええ」
「しかしトワイト家ですか」
困ったような顔で侍女は言う。
特に敵対したり何かで争ったりしていることはないはずだけれど。
それともわたしの見落としている何かがあるのだろうか?
「どのようにしてハンカチを返されるのです? 特に親交はありませんよね?」
どうやらわたしの考えすぎだったようだ。
侍女は単純にハンカチの返却方法を心配しただけだったようだ。
でも確かに普通ならその心配は正しい。
ハンカチ一つでも疎かにできない。
ハンカチ一枚で利用されたり、陥れられたりすることだってあり得るのだ。
こちらには何の二心もありませんと示すためにもハンカチは返さなければならない。
「何とかなると思うわ。ほら、どこかでばったり会うかもしれないし」
我ながら説得力がない。
当然ながら侍女の表情も晴れない。
だからあえて苦笑してみせる。
「うまくハンカチを返す機会を得られなかったら、その時に方法を考えるわ」
そうとしか言えない。
まさかもうその算段ができているとは口が裂けても言えるわけがない。
「まあいざとなればお礼のお手紙をつけてトワイト侯爵家に届けるしかありませんね」
「そうね」
「あ、旦那様と奥様にはしっかりとお伝えしておいてくださいね」
「ええ、もちろん、そのつもりよ」
さすがに両親には伝えておかないとまずいだろう。
サージェス様のハンカチがある状態で何かあれば大騒ぎになってしまうかもしれない。
正直に言えば、両親に伝えておく必要性の認識が抜け落ちていた。
彼女が言ってくれて助かった。
感謝を込めて侍女に微笑みかけた。
読んでいただき、ありがとうございました。




