名乗り合いと残念な気持ち
リーリエ視点です。
何故か開いた口から言葉は出ずにまた閉じてしまった。
どうしたのだろう? と少しだけ首を傾げる。
彼はそれには何の反応もせずに少し考える様子を見せた。
大人しく待つ。
少しして彼は手帳を取り出すと何か書き込み、そのページにペンを挟んで、わたしのほうに落とした。
そろりと窺うと小さく頷かれたので素早く拾った。
ペンの挟まれたページを開く。
サージェス・トラント
それだけが書かれていた。
それが彼の名前なのだろう。
トラント家ならフワル家にもユフィニー家にも特に敵対してはいない。
とっさに思ったのはそんなことだった。
って待って、トラント家は侯爵家だ。
いくらノークス様の婚約者とはいえ、子爵令嬢のわたしが気軽に話していい相手ではない。
ノークス様のご友人であれば話は違うだろうが、ノークス様からもフワル侯爵夫人からもトラント家と付き合いがあるとは聞いていないのでその線は薄いだろう。
敵対している家の者でなかったことにはとりあえず安堵するが、自身の振る舞いを振り返ってしまう。
失礼なことはしてないわよね!?
駄目だ、落ち着け。
たぶん、大丈夫。彼も怒った様子はなかったから大丈夫だ。
彼ーーと呼ぶのも失礼だから、心の中ではサージェス様と呼ばせていただこう。
もちろん、口には出さないように注意しないと。
それよりも今ここで待たせているほうが問題かもしれない。
慌ててペンを握る。
名前を書こうとして動きを止めた。
駄目だ。
名前を書く時には慎重に。
下に何か書類が隠されたりしていないかもしっかり確認しなさい。
フワル侯爵夫人の言葉が思い出される。
これはサージェス様の手帳だ。勝手に見るわけにはいかない。
疑うわけではない。
だけど、確認しなければ名前など書けない。
わたしは意を決してサージェス様を見上げて人差し指を立てた後でページを捲る動作をして許可を求めた。
すぐに察してくれたサージェス様が頷いて許可をくださった。
慎重に前後一ページだけ捲って確認する。
大丈夫だ。何も書かれていないし、紙も複写できるようなものではない。
そっとサージェス様の下に自分の名前を書いた。
ペンを挟む。
そしてできるだけ腕を伸ばしてサージェス様の近くの地面に置いた。
何事もなかったかのように拾う姿にほっとする。
間違っていなかったようだ。
彼が手帳を開き、わたしの名前を視線が辿るのを緊張して見つめた。
少しだけ、そう、ほんの少しだけ、わたしが子爵家の者だと知ってサージェス様が手のひらを返したらどうしようと不安だった。
高位貴族の中には下位貴族のことを見下す者もいるのだ。
たぶん、この方はそんなことはなさらないとは思うのだけど。
だけどサージェス様は動揺したように瞳を揺らしている。
侯爵家の嫡男の婚約者が子爵家の者だと思わなかったのだろうか?
今までのやりとりは忘れてくれ、と言われるだろうか?
いえ、それは構わないのだけど。
そもそもがサージェス様にはわたしに手を差し伸べる理由などないのだから。
ただーーもし下位貴族だと知って見下すような方だったのだとしたら、少し、そうほんの少し残念だ。
わたしの人を見る目はやはり曇っていたということなのだろう。
それならむしろわたしのほうからやはりお断りしたほうがいいのかもしれない。
そう思った時、不意にこちらを見たサージェス様と目が合った。
読んでいただき、ありがとうございました。




