9 失恋しました
「うう。失恋。失恋って、ああ、失恋!」
「うるさいぞ。妹よ」
「ううっ。お兄様あ。妹が振られて立ち直れないのに、なんてひどい言葉を!!」
意気揚々と告白したのに、あっさりと断られてしまい、立ち直ることができない。
エルヴィールはさめざめと泣いて、ハンカチで顔を覆った。
「むしろよく言ったな。相手の仕事中に告白するお前に驚きだ。潜入捜査の邪魔をしなかっただけ良かったが。まさか、夜会の招待状が、あの夜会だったとはなあ」
兄のオーバンは額を押さえてため息混じりだ。
あの夜会の日、ドラゴン騎士団である兄も、あの場にいたのである。ドラゴンの卵が競売に出ることを知らされていたドラゴン騎士団は、もしもの場合戦いになるかもしれないことを想定して待機していたのだ。
赤いマントの騎士たち。潜入捜査を行っていた騎士たちからの情報だ。
騎士の中でも管理部と呼ばれる者たち。表に出てこず、事務的な仕事を行っているとされていた者たちは、その実、裏で潜入捜査を行う者たちだった。
しかも騎士たちの中でも優秀な者が集まり、ドラゴンに騎乗できる者もいた。
それらをまとめるのが、あの黒髪の男、アレクサンドル・ルドバイヤンである。
「騎士の皆様はそれをご存知なんですか?」
「もちろん一部の者だけだよ。ドラゴン騎士団は行動を共にすることがあるから知っているけれど、騎士たち全員が知るわけじゃない」
「婚約者すら知らないものなんですね」
婚約者のドロテアはその事実を知らなかった。父親も知らなかったのだろう。違法な商品を扱う夜会を開いていた罪で捕えられてしまった。潜入捜査専門の騎士だと分かっていればさすがに気にする。
「アレクサンドルは普段目立たないように過ごしているからな」
「あまり変わりないように思えますけれど」
猫背にはしていたが、引き締まった筋肉や顔の輪郭をみれば、そこまで違うようには見えない。
(声音も同じだったわ)
音量は大小あるが、声質は同じ。聞いていれば気付くだろう。婚約していたのならば聞き慣れているはずだ。
「まったく印象が違うんだから、気付かない者の方が多いと思うぞ。あと、筋肉で判別するのはお前だけだ」
手のひらを見せてもらえば、間違いなく判別できるのだが。エルヴィールは自分の手のひらを握ったり開いたりして、同じところにある肉刺を眺める。
それを眺めて、やはり大きくため息をついた。
「愛していた方が罪を背負い、その方を捕えるなど、どれだけ心を痛めているでしょうか」
「痛める。痛めるなあ?」
「お父上が開いた夜会で、婚約者の方もその実態をご存知だったのですから、重い罪ではなくとも許されざることなんですわよね」
「それは当然だ。知っていて招待できる者を選別していたのだから」
ドロテアの父親だけでなく、ドロテアも違法を知っていながら招待状を出していた。その選別を彼女自身も行っていたのだ。かく言うエルヴィールの元婚約者も彼女からの招待状を得ていた。
あの夜会では違法な商品の競売だけでなく、怪しげな薬なども売っていたようで、あの夜会の実態を知っている者は多かった。知らず参加したエルヴィールのような者は少なく、ほとんどが理解して参加していたのである。
「お前の元婚約者とは結婚しなくて正解だったな。父上も調べが甘かったと反省していた」
「借金があったとは存じませんでした」
元婚約者は借金返済のためエルヴィールの父親に近付き、その財産を得ようとしていたようだ。
夜会についても分かっていて、エルヴィールに招待状を渡した。お金に困っていた元婚約者は、あろうことか、夜会を斡旋していたのだ。誘っても問題なさそうな者たちをドロテアの父親に紹介していたわけである。
「お前にドラゴンでも買わせる気だったのかもな」
「冗談ではありません!」
「そう思いもしないと考えるような、頭の弱いやつだったんだ。良かったよ。お前がそんなのに嫁がないで」
「おかげで出会いはありましたが、結局独り身です」
エルヴィールは思い出したと、しくしく嘆き始める。悲しみで胸の痛みがひどくなった気がした。
「そんなにアレクサンドルがいいのか?」
問われてエルヴィールは即座に頷く。良くないと思う理由を教えてほしい。
「ですが、アレクサンドル様は婚約者のドロテア様を愛していたはず。きっと心を痛めて、ううっ」
「痛めていないと思うぞ」
「どうしてそう思われるのですか! ドロテア様がおっしゃっていたんですよ。アレクサンドル様の方から婚約の申し出があって、身分も財産もドロテア様に捧ぐと!」
「いや、言わないだろう」
兄はきっぱりと言い放つ。
「バリエンダル家がアレクサンドルの高い身分や、王の覚えが良いという理由で選んだんだろう。アレクサンドルは王族の血筋だし、アレクサンドルのいる騎士団はドラゴン騎士団より地位が高い。ただ表立って目立たないだけだ。その申し出を受けたのは、前々からバリエンダル家は怪しいとされていたからだろう」
「そう、なんですか?」
「怪しいから婚約を受けたんだ。アレクサンドルは何も考えずに犯罪を犯すような家を相手に選んだりはしない」
「そんなものですか」
「そんなものだよ。それで、話を戻すけれど、そんなにアレクサンドルがいいのか?」
「もちろんです! 動き方。部下への命令。周囲への牽制。体の形。お顔も好きです。でも、前髪で隠していただいた方がいいですわ。ちゃんと顔を見たら照れてしまいますもの」
エルヴィールは考えただけで頬が紅潮するのを感じた。胸が痛むような気がしたのは、恋だと分からなかったからだ。
「こんなに苦しいとは思いませんでした。ああ、思い出しただけで、涙が」
失恋の痛手が深すぎると、エルヴィールは胸を押さえてソファーに突っ伏した。
もうこのまま起き上がりたくない。髪の毛がもじゃもじゃになるほどソファーに頭を擦っていれば、いい加減やめろと兄に叱られた。
「そろそろ客が来る。用意をしておくといい」
「お客様ですか?」