第95話 手を繋いで歩きたい
甘い……なんて良い香りなんだ……
この世で一番柔らかいものを抱き締めながら、くんくんと鼻を動かし、胸一杯に吸い込む。
「やあ……」と、くすぐったそうに自分から遠ざかろうとするが、そうはさせない。
足を絡め、腕に力を込め、強引に元の位置に戻す。
「……旦那様?」
高く可愛い声が、全身に激しい熱を灯す。
……目を開ければきっと、素晴らしい景色に暴走してしまうだろう。
固く瞼を閉じ、落ち着くまでじっと耐える。
「意地悪だから、お兄様じゃなくて旦那様かな」
「さあ……どうだろう。どっちだと思う?」
「うーん……」
「“お兄様”と“旦那様”。リンディは結局、どっちが好きなんだ?」
もう数えきれない位、何度も同じ質問をしている。幼稚な問いに、毎回素直に答えてくれる彼女が愛しくて。
「うーん……どっちも! お兄様は優しいけど時々意地悪で、旦那様は意地悪だけど時々優しくて……だからどっちも選べない。どっちもルーファスだから、どっちも好き!」
駄目だ……全然熱が冷めない。むしろ沸騰寸前だ。
絡めていた足をそっと離す。
「あっ……でも、昨日結婚したんだから、結局旦那様になったのかあ。ねえ、何て呼んで欲しい? お兄様? 旦那様? それとも、ルーファス様? 二人きりの時なら、呼び捨てでもいいんでしょう?」
真剣に悩むリンディが可笑しくて……ひたすら可愛い。
「どれでもいいよ。好きな呼び方で」
うーんとまだ悩み続けるリンディがじれったく、堪らず瞼を開ける。
そこには、甘い香りを放つ真っ白な項。
少し後ろに下がり、視野を広げれば、布団からはみ出した真っ白な肩と胸。
妻のその素肌は、カーテン越しのぼやけた朝日の中でも、目が眩む程の白さを誇っていた。
これは……想像以上に素晴らし過ぎる。
「ねえ!」
急にくるっとこちらへ向くリンディに、驚き固まる。
自分は今、どんな顔をしているのだろう……邪な気持ちが透けて見えているのではないか?
……いや、邪とはなんだ! 夫が妻を望んで何が悪い。
心の中でそう叫んでいると、妻が捲った布団が、獣並みの威力で顔を直撃する。
知らなかった……扱い次第で、布団も凶器になるんだな。
涙目を擦り、再び開けると……そこには更なる絶景が広がっていた。
身動ぎ一つ出来ない夫を放置し、リンディは横になったまま、その神々しい裸体をじっくりと観察している。
「……全部、全部あるわ!」
全部……ある?
「あのね、私、起きたら身体の何処かが無くなってるって。無くなってもいいやって、覚悟してたの。でも、旦那様はやっぱり舐めるばかりで齧らなかったから、もしかしたら全部残してくれたのかなって。ほら! 変な痣は沢山あるけど、手も指も足も胸も首も、全部残っているわ。ありがとう、旦那様!」
“ありがとう” か……いや、こちらこそ。
「でも、旦那様はまだお腹が空いているんじゃない? 大丈夫?」
そりゃあ……起きた瞬間から……あの甘い香りを嗅いだ瞬間から、空腹に決まっているじゃないか。
正直に答えたら最後、襲い掛かってしまうと、自分を必死に抑制する。
リンディは「あっ!」と叫びながら跳ね起きるも、途中で腹を押さえ、うっと蹲る。
「リンディ!」
自分も慌てて跳ね起き、その華奢な背を支える。
随分加減はしたつもりだったが、やはり負担が大きかったか……
うん、今夜は我慢して、別々に寝よう。
あれこれ心配する自分を余所に、リンディの口から飛びたしたのは、思いもよらぬ元気な質問だった。
「ねえ、お兄様。もしかして、私の内臓を食べたの?」
ない……ぞう……
「こんなにお腹が痛いのに、全然噛まれた痕がないんだもの。……ああ、そっかあ! “見えない部分を齧る”って、昔お兄様が教えてくれたものね!」
『リンディに教えてあげる。……男は裸になると、狼になって女を食べてしまうんだ。死なない様に、見えない部分の肉をガリガリと齧り、血を啜る』
「どうだろう……夢中で食べたから、よく覚えていない」
「きっとそうよ! あっ……でも……」
……まだ何か?
「どうやって食べたの? すごく痛かった時、旦那様の顔は確か上にあったんだけど。口じゃないならどこで齧ったの? 下にも歯があるの?」
もう……限界だ……
煩い薔薇色の唇を塞ぐと、痛い位に深く味わってやる。呼吸が出来なくて苦しいのか、腕を押されるも、容赦はしない。
青い瞳を潤ませ大人しくなった彼女に、“お兄様”の口調で、優しく……優しく囁いた。
「前に言っただろう? 食べるのに歯は使わないと。そんなに知りたいなら、どんな風に食べるか教えてあげるよ。もう一度……明るい場所で……じっくりとね」
妖しくギラギラ光るルビー色の瞳。
違う……これは“お兄様”じゃない。
“お兄様”のフリをした“旦那様”だわ。
もう、どっちでもいいけど……
彼から与えられる色々な刺激に、次第に何も考えられなくなってしまった。
裸のままでいると、夜だけじゃなく、朝も食べられてしまうのね。……今夜からは、食べ終わったらすぐに服を着てもらおう。
その後リンディは、夫の実践を交えた講義により、『食べる』の本当の意味を漸く知った。
◇
一回目の人生の、両親が結婚式を挙げた日に戻った、三回目の二人──
あの後ルーファスは、リンディの手を引き、両親と親戚らが和やかに歓談する広間に駆け込んだ。
『父上、私はこの結婚には大賛成ですが、リンディとは兄妹になりたくありません! 絶対に、養子縁組はしないでください! まだ、届出は提出されていませんよね?』
息を切らせながら、大人びた物言いで父親に迫る息子に、広間はざわつく。
『……何故だ? 何故リンディと兄妹になりたくないんだ?』
『愛しているからです。一人の女性として』
まだ8歳の子供の発言に、一層ざわついた。
『彼女を将来、私の妻として迎えたいのです。ですので、妹ではなく、正式な婚約者としてお認めください。認めていただけないのでしたら、私は生涯独身を貫きます。彼女以外の女性を愛することなど、あり得ないでしょうから』
しんと静まり返る広間。
親戚らが集まる場での、息子のこの発言。
デュークとフローラは視線を交わし、これはただごとではないと頷き合った。
『ルーファス……お前の意思は分かった。リンディ、君はどうなんだ?』
きょとんと首を傾げるか、ままごとみたいな返事が返ってくるだろうとの予想は見事に裏切られる。
リンディはルーファスの隣で涙を流しながらも、真剣な顔で両親へ想いを伝えた。
『私も、ルーファス様を一人の男性として愛しています。彼の妹ではなく、彼の妻として、将来このセドラー家に迎えてください』
しっかりしたリンディの返事に、ルーファスも涙を流す。
目の錯覚だろうか……
見た目は幼い子供なのに、大人の男女に見える二人。
人々は、不思議な感覚に包まれていた。
その後、夫婦会議と親族会議を経て、養子縁組は一旦保留。表向きは兄妹として育て、成長してもまだ二人の意思が変わらなければ、正式な婚約者として認める方向で、意見は一致した。
和やかな広間を掻き乱した後、ルーファスの丁寧な説明により、此処が天国ではなく三回目の人生であることを理解したリンディ。
逆に、指輪を作った職人のこと、職人が指輪に込めた想い、またヨハネスがその職人の孫であったことを、リンディから説明される。
指輪を嵌めた夫婦に課される、試練と効果について詳しく訊いていた時……二人はやっと、自分の指輪の変化に気が付いた。
“尚、指輪に愛された者達に限り、互いの砂を分け合うことが出来る”
ルーファスの指輪の砂は増え、リンディの指輪の砂は減っている。小さな手を並べてみると、全く同じ輝きを放っていた。
『寿命を奪ってしまってごめんなさい』と泣き出すリンディとは反対に、ルーファスは嬉し泣きをする。
何せ彼は愛する女性の死を二回も経験したのだ。三回目もそれを覚悟の上で願ったのに、まさか彼女の寿命を延ばすことが出来たなんて! 遺される苦しみを二度と味わわずに済む……最高のご褒美じゃないか。
もし職人がこの場に居たら、抱き締めてキスの雨を降らせていただろう。
自分の想いを伝え、泣きじゃくるリンディをどうにか宥めたルーファスは、彼女の二回目の人生の冒険談に聴き入る。
モリーが運んでくれた、晴れの日の豪華なおやつを食べながら、希望に満ちた三回目の人生がスタートした。
ルーファスが13歳を迎えた年、リンディは正式に婚約者として認められ、内外に発表された。
三回目ということもあり、アリエッタ王女に関してのルーファスの動きは、リンディも驚く程に素早かった。
宰相である父デュークを通して、早くからヘイル国への留学と降嫁を国王に勧めていた為、王女とは顔を合わすことなく穏便に排除することに成功した。
進学はそれぞれ一回目、二回目と同じルートを辿り、ルーファスは高等部から王都学園へ。リンディは中等部からランネ学園へ。
卒業後も同じく王宮へ勤めることになった。
二回目では、一人で人生の選択に怯えてきたリンディだが、三回目は二人で一緒に道を選んで来た。
再び会えた人も、二度と会えないかもしれない人も……今までの人生で巡り逢った人達とは、尊い縁で結ばれている。
きっと何処かで繋がっているのだと……そう考えたら、二回目の様な恐怖は感じなくなった。
そして指折り数えていた、リンディ18歳の誕生日。
成人すると同時に結婚式を挙げ、二回目の人生よりも半年程早く、二人は正式な夫婦となった。
◇
「どうして私にも記憶が残ったのかしら。願ったのは旦那様なのに」
「……ご褒美かもな。リンディが頑張ったから」
汗ばんだ額に張り付く長い金髪を、目に入らない様分けてやりながら答える。
「でも私……やっぱり馬鹿だわ。旦那様みたいに上手く時を戻していたら、二回目の人生であんなに苦労しなくて良かったのに。何だか随分遠回りしてしまったみたい」
散々食べられてくたくたの筈なのに、リンディのお喋りは止まらない。
「いや、僕はいいとこ取りしただけだよ。二回目の人生でリンディが頑張ってくれたから、こんな最高のご褒美をもらえたんだ」
左手を並べ、同じ輝きを放つ指輪を見つめる。
「でも、本当にこれで良かったのかしら……」
「いいに決まっているだろう。君が居なければ、たとえ生きていたって、僕は死んだも同然なんだから」
正確には分からないが、砂の残り具合からして、寿命は50歳前後という所だろうか。
それだけ生きれば充分だ。それに……
「三回目の人生だぞ? 一回目と二回目と、合わせたらもう何年生きたと思う?」
「えっと旦那様は……21+21+20……違う、二回目は7歳から、三回目は8歳からだから……えっと……」
難しい顔で指を折り、計算を始めるリンディ。
ルーファスはふっと笑うと、眉間の皺を長い指でなぞり、優しく言った。
「いいよ、計算なんかしなくて。とにかく沢山生きたってことだ」
「……そっかあ」
リンディは眉間から彼の指をつと取ると、そのまま鼻の下へと真っ直ぐ滑らせ、愛しげに唇を寄せる。
それだけで、何とも表現出来ない温もりが、さざ波の様に、互いの胸へ広がっていった。
今日はずっと、こうしてベッドの中に居たい……
心地好い疲労感に微睡んでいると、昼を告げる鐘の音色が流れて来た。
「……お昼よ!」
学習したのか……布団で素肌を隠し、“内臓”に負担をかけぬ様、そろそろと起き上がるリンディ。
ルーファスは薄目を開けて、その動きを楽しんでいたが、起きろと言う風に激しく揺さぶられた。
……仕方ない。本当はもう少し一緒に寝ていたかったが、さっきから腹の虫も気になっていた所だ。
「ねえ、私、パンを焼いて、フルーツをカットするわ。可愛いうさぎを沢山!」
「……今日は無理しなくていいのに」
「無理なんかじゃないわ。旦那様と一緒に食べたいの」
ルビー色の瞳は忽ち細められ、リンディしか知らない極上の微笑みに変わる。ふにゃりと緩んだ彼女の頬を弄びながら、ルーファスは楽しそうに答えた。
「じゃあ、僕はスープを作るよ。ブロッコリーも沢山茹でてあげる」
「うわあ、嬉しい!」
子供のままごとみたいな食卓。
いつか夢見た、幸せな一日の始まり。
「お腹が一杯になったら何をしたい? リンディの好きなこと、何でも叶えてあげるよ」
「……嬉しい! じゃあね、お庭を散歩したい」
「そんなことでいいのか?」
「うん!」
空よりも海よりも青い瞳はキラキラ輝き、真っ白な肌はほんのり色づく。
僕しか知らない……甘い極上の唇は、薔薇色の笑みを湛えながら、ふわりと鮮やかに花開いた。
「ルーファスと手を繋いで、一緒に歩きたい!」
~完~
本編はこちらが最終話ですが、番外編を二話上げて、完結となります。
(ヨハネスに会いに行くお話と、三回目の19歳の誕生日のお話です)
長い物語をお読みいただき、本当にありがとうございました。




