第93話 二回目 リンディは19歳
医師はリンディの胸元に耳を当てると、厳しい顔で言った。
「……感染症を起こしていらっしゃいます。心臓の音が弱っておりますので、積極的な治療は出来ません」
“積極的な治療は出来ません”
「……どういう意味だ?」
理解している頭ではなく、何処か別の場所から疑問を投げかける。
「先程も申し上げました通り……生と死を動かす行為は、神に背く医術の禁忌です。私の出来ることは現時点で、奥様の苦痛を和らげる処置のみです」
ルーファスはガタガタと震える手で、医師の胸ぐらを掴んだ。
「ふざけるな……! まだ生きているのに、見捨てるのか!」
「申し訳ありません……禁忌なのです。神を欺くことは出来ません」
「……欺けばいい。必要なら悪魔とだって契約してやる」
狂気を孕んだルーファスの表情に、医師は怯える。
「そのようなことは……!」
「責任なら俺が取る。治せ……治せ!!」
「出来ません!!」
回復魔力を持つ医師にとって、生と死は神聖な領域であり、禁忌を犯すことは何より恐ろしい。医師免許の剥奪はもちろん、最悪、悪魔に取り込まれ利用される場合もあるからだ。
「うう……」
苦しそうに唸るリンディを見れば、傷が痛むのか、腹の辺りに手を彷徨わせている。
その姿に、ルーファスはふと我に返り、医師から手を離す。ベッドの横にふらりと跪き、祈る様に熱い手を握った。
医師はボタンの外れた皺くちゃのシャツを整えると、まだ若い公爵へ向かい冷静に言った。
「……このままですと奥様は、苦痛でお休みになることも出来ないと思われます。少しでも楽になられる様に、ヒーリングの魔術を施させていただきます」
力なく頷くルーファスの元へ、医師は歩み寄る。隣に立つと、やりきれない想いを魔力に込め、苦しむ身体へ最大限に送った。
リンディの顔が穏やかになり、すやすやと寝息を立て始めた頃、空はもう白み始めていた。
鐘の音が聞こえる……もうお昼かな……
熱い……痛い……熱い……でも身体の芯が寒い……
複雑な苦痛に目を開くと、大好きなルビー色が見えた。
「……リンディ」
また名前を呼んでくれた……嬉しくて、顔がニヤけちゃう。
手も、ずっと繋いでくれていたの? さっきは温かくて気持ち良かったけど、今は冷たくて気持ちいい。
「苦しいか? 水を飲むか?」
「ん……」
喉の奥から何とか返事をすると、ルーファスは手を離し、ピッチャーからグラスへ水を注ぐ。
あ……離れちゃった……だったらお水なんていらなかったな。ずっと繋いでいて欲しかった。
汗でぐしゃぐしゃになった、私の頭の下に手を差し込み、少しだけ身体を起こしてくれる。
お腹に力を入れてしまったからか……痛みに「ふぬっ」と情けない声を出してしまう。
ああ、どうしよう……ルーファスが泣きそうだわ……
震えるグラスから、ネグリジェへポタポタ水が垂れる。
『大丈夫!私は大丈夫! きっと見た目は痛そうだけど、きっと見た目より全然痛くないの!』
元気にそう言いたいのに、思うように声が出ない。
お兄様も旦那様も……やっぱりどっちも優しい。
一回目も二回目も、優しい彼をこんなに心配させてしまうなんて。
乾いた唇をパクパク動かせば、ルーファスがグラスを近付けてくれた。でも上手く飲み込むことが出来ず、口の端から水が溢れていく。
それを見たルビー色の目尻からも、とうとう涙が溢れてしまった。
ごめんなさい……ちゃんと飲めなくてごめんなさい……でも、大丈夫よ。舌の上にちゃんと残っているから。これをゆっくり飲むから大丈夫。
もっとちょうだいという風に、パクパク動かしてみる。ルーファスは涙を垂れ流しながら、スプーンで必死に口の中へ水を流し続けてくれた。
喉が潤うと、今度はお腹の痛みが増してきた。あっちもこっちも……身体って、なんてワガママなんだろう。
プリシラさんが替えてくれた清潔な枕に頭を置くと、ルーファスはまた手を握ってくれた。
「待ってろ……またヒーリングの魔術で楽にしてやるから」
「寝ちゃう……?」
「ああ。よく眠れる」
「……や」
ゆっくり頭を振ってみる。くらくらしたけど、それでももう一度振った。
「いや……寝たく……ない……」
「リンディ」
「寝たら……もう……起きれな……」
「リンディ!!」
ルーファスは叫び、折角落ち着いた涙をまた溢れさせる。
こんなに哀しそうな顔をさせてしまうなら、何も言わないで大人しく寝た方が良かったかな……でも、いやなんだもの。このまま二度と起きれなかったら、いやなんだもの。
それなら、痛くても熱くても寒くても、全部我慢する。我慢……出来るかな……
「そうだ…………おい」
手を繋いだまま、ルーファスはプリシラさんの方へ向く。
「ブロッコリーを持ってこい」
「ブロッ……コリー……ですか? あの、緑色の野菜の?」
「そうだ、他に何がある。キッチンにあるありったけを、茹でて持って来い。早く」
「……はい」
プリシラさんは、急いで部屋を出ていく。
ブロッコリー……どうして……ブロッコリー?
悪寒に耐えるのに必死で、深く考えることが出来ない。しばらく戦っていると、プリシラさんがクローシュを被せた大皿を持って戻って来た。
サイドテーブルに置かれるや否や、ルーファスはクローシュを取り、フォークで刺したブロッコリーを私の口元へ運ぶ。
訳が分からず固まっていると、彼はフォークを皿に投げ捨て、素手でブロッコリーをつまむ。それを小さく裂き、再び私の口へ運んだ。
「……好きだろ? 食べろ」
ルーファス……ううん、
旦那様が……ブロッコリーを触っている……
見るのも怖がっていた、あのブロッコリーを……
『愛しいとはどんな気持ちだ?』
『優しい気持ちになります。元々持っていた優しさよりも、もっともっと』
『よく分からない』
『うーん……本当は大嫌いなのに、好きだと思えたり』
『もっと分からない』
『例えば……ブロッコリーを触ったり、料理出来る様になったり』
まさか……旦那様は……
私のことを、愛してしまったの?
私の左手の指輪には、たっぷりと輝く砂。
彼の左手の指輪には、今にも消えそうな一粒。
どっちが愛しいかなんて……もう……
彼には長生きして欲しい。
美味しい物を沢山食べて、綺麗な物を沢山見て、楽しいことを沢山経験して欲しい。……いつか出逢える大切な人と、沢山沢山笑って欲しい。
だから、その輝きを、一粒も無駄にして欲しくない。
私の為に……無駄にして欲しくない。
少し開いた口の隙間に、彼が指でブロッコリーを入れてくれる。
正直噛む力なんてなかったけれど、すごく柔らかくて、舌で転がしている内に簡単に潰れた。
大好きなもしゃもしゃなんて全くない。だけど今まで食べた中で、一番美味しくてしょっぱいブロッコリー。
「……泣く程美味しいか? まだ沢山あるぞ」
そう言う彼も泣きながら、嬉しそうに皿からお代わりをつまむ。
くたくたの緑が、ちょんと唇に当てられるけど、私は口を固く結んでゆっくり首を振った。
「……もっと食べろ。食べれば良くなるから」
もう一度首を振ると、彼は鼻を啜りながら、声を震わせる。
「食べろ……頼むから……食べてくれ……」
だめ……愛したら…………駄目……!
私は残った力を全部左手に集め、震える彼の手を思い切り叩く。愛情のかけらみたいなブロッコリーのつぶつぶが、布団に飛び散った。
後は……残った声を、全部振り絞るだけ。
「きら……い」
彼は叩かれた手をそのままに、目を丸くする。
「きらい……貴方なん……て……大嫌い…………冷たい……し、意地悪だし……乱……暴だし……顔も……怖い。最初……から……ずっと、嫌い。この世で……一番……大……嫌い……」
限界まで見開かれたルビー色の瞳から、ボロッと大粒の涙が零れた。
「出て……行って……最期くら……い……一人に……なりたい」
『瞳を見れば、その人間の本質が分かるよ。上辺だけじゃない。奥を真っ直ぐに見るんだ。いいか、ルーファス、恐れずに真っ直ぐ見るんだ』
恐れずに……真っ直ぐ見つめた青い瞳の奥。
そこには、彼女の本当の想いが、涙と共に揺れていた。
ルーファスは、涙をシャツの袖で拭い、ふっと意地悪く笑う。
「俺のことが嫌いなら……尚更一人になんかさせてやるか。ずっと手を繋いで、離さないでいてやるよ。楽になんかさせない。一生傍で苦しめてやる」
今度は青い瞳が、限界まで見開かれる。
「やめ……て……」
さっき獣並みの力で自分を叩いた左手を取れば、弱々しくも自分から逃げようとする。
逃がすものか……お前は、俺のものだ。
両手で掴み、手首から爪の先まで、余すところなく唇を落としていく。その度に彼女から零れる澄んだ涙が、自分を好きだと、愛していると……そう伝えてくれた。
では自分はどうなのだろう。
好きだとか、愛しているとか、幸せとか……
この期に及んでも、そんなことは全く分からない。
彼女を失う。それだけが、ただ、怖い。
──それからどれ位経ったか。
あんなに寝たくないと言っていたのに……目を閉じ、眉間に皺を寄せる姿に、戦慄が走る。
「……リンディ?」
炎の様な左手が、自分の手の中で痙攣し始めた。
「……奥様にはもう、魔術に耐えられるだけの体力は残っていらっしゃいません。これ程の苦痛を和らげるには、相当強い魔力をお身体に送る必要がありますが……今の弱りきったお身体では、それを受け止めきれず、却って苦痛が増してしまわれるでしょう」
沈痛な面持ちで話す医師に、ルーファスはもう掴みかかることもなく、冷静に問う。
「他に……他にないのか? こんな苦しそうな姿、見ていられない」
「……氷結花を使われますか?」
「氷結“草”ではないのか?」
「はい……」
医師はルーファスを見据えながら、重い声で説明を始めた。
“氷結花”
それは、あのルビー色の絵の具の原料である、ヘイル国の氷結草が成長したものだ。
氷結草は麻酔薬として使用される薬草で、量によっては人を死に至らしめる。
一方氷結花は、氷結草よりも麻酔薬としての効能が高い。数時間から数日、仮死状態に陥らせることが出来る上に、氷結草と違って多量摂取しても命を落とすことがない。……その代わりに、非常に副作用が強く、毒素が永久に身体に留まると言う。
「……毒素?」
「摂取した量にもよりますが……全身が火傷した様に熱く、また、刃物で切り裂かれる様に痛むと言われています。ですので、一度氷結花を服用したら最後、痛みから逃れる為に、一生服用し眠り続けなければなりません」
言い換えれば、二度と“起きてはいけない”猛毒の薬草。
氷結花を使う意味を悟ったルーファスは、それ以上を聞きたくなくて、耳を塞げと手に命ずる。だが、身体は全く動かなかった。
「……患者様の最期の苦痛を和らげる為に使用する薬草なのです。深い傷を負った方や、末期の癌を患った方が、苦しまず安らかにお休みになれるように」
苦しまず、安らかに…………
「どうしますか? お使いになられますか?」




