第92話 二回目 リンディは18~19歳
腕の血流が止まりそうな、凄まじい力を掛けてくる彼女。全身でしがみついていると言った表現が相応しいだろうか。
いつもと違う様子に驚きながらも、ルーファスは自分の腕に絡み付く彼女を冷静に剥がし、震える両手と自分の両手を繋いで向かい合った。
「……これでいいか?」
夫婦らしく、もっと密着してやろうとしたのに……何故子供みたいに手を繋ぎたがるのだろう。
繋いだ手を見てこくりと頷く姿は、いつにも増してあどけない。こんな彼女を、明日自分のものにするのだと思うと、妙な背徳感すら覚える。
「月を見るんじゃなかったのか?」
手を見つめ続けるばかりで、空になど目もくれない彼女に、ルーファスは問う。
リンディはぶんぶん首を振った後、小さな声で呟いた。
「旦那様……あのね、旦那様のこと…………ファスって、ルーファスって呼んでもいい?」
自分の問いには答えず、逆に全く関係のない質問を投げ掛けられたルーファスは戸惑う。
……ルーファス……
高い声で呟かれた自分の名は、慣れ親しんだ音とは違い、特別な響きで胸に広がっていく。
初めて呼ばれたからか? では、二回目はどうなのだろう?
試しにもう一度……呼んでみて欲しい。
ルーファスは緩んだ表情を元へ戻すと、軽く咳払いをしながら言う。
「夫を呼び捨てにするとは感心しないな。だが……二人きりの時なら、特別に許可してやる」
「……いいの?」
「ああ、特別だ。気が変わるかもしれないから、呼ぶならさっさと呼べ」
ふにゃりと崩れた彼女の顔は、今にも泣きそうで。その中で、小さな薔薇色の唇だけが、嬉しそうに開いた。
「ルーファス……ルーファス、ルーファス……」
やはり、何度呼ばれても特別な響きだ。熱くて……甘くて……楽で……苦しい。
もっと呼んで欲しい、複雑な自分の胸と向き合いたいと思うのに、彼女は満足したのか、それきり口をつぐんでしまう。
「……もういいのか?」
「うん……二回目は呼べた……ちゃんと呼べたから」
二回目?
「ありがとう……ルーファス」
キラキラ輝く青い瞳は、月明かりやら街灯やらを反射し、自分へ放つ。大き過ぎるその光からは、煌めく涙の糸が幾筋も流れ、彼女の笑顔をくっきりと浮き立たせている。
やっぱり…………楽だ。
自分の胸は、苦しさの向こうで、確かに喜んでいる。
両手を繋ぎ合ったまま、ルーファスは背を屈め、リンディの唇へ向かう。
互いの胸の間には、繋いだ拳一つ分。
強く抱き締めて……口内も身体も、隙間なく溶けてしまいたいのに。この固い距離が、ルーファスにブレーキをかける。それでもこの手を離す気にはなれず、唇の表面だけを優しく味わうとそっと離した。
夫婦なのに……ままごとみたいなキスだな。
なんとなく可笑しくなり、ルーファスはふっと笑う。
そういえば……俺もこいつを名前で呼んだことがなかったな。
あいつ、こいつ、お前、猛獣……ああ、ブロッコリー女だった時もあったな。
出逢いから今までのページがパラパラと捲れ、最後に何の色も背景もない、一人の女性が現れた。
“リンディ”
そう呼ぼうとした瞬間、また複雑な感情がずくんと胸に疼く。
明日……ベッドの中で呼んでやろう。そうしたら、一体どんな反応を見せるのだろうか。自分が感じた様に、彼女の耳にも特別に響くのか……響いてくれたら……嬉しい。
リンディは自分の右手を持ち上げ、上に重なるルーファスの左手を確認する。薬指の弱い光を見て頷くと、スッと離し、まだ繋がれたままの片手を引っ張る。
「……おい!」
急に歩き出すリンディに驚くも、ルーファスは従い付いて行く。
「もう月はいいのか?」
呼び掛けるも返答はない。手を引かれるままに、華奢な背中の後をさくさく進み、角へ差し掛かったその時──
影が、自分達の前へ飛び出した。
たった数秒の出来事が、リンディの目には、まるでスローモーションに見えた。
光る物が、影からルーファスめがけて突き出される。それが刃物だと気付くや否や、繋いでいた手を振りほどき、彼の前へ滑り込んだ。
一回目の人生で、心臓に矢が刺さった時のあの痛みが甦る。ならば……と咄嗟に背伸びをし、心臓よりやや下の位置で、その衝撃を受け止めた。
だけど……
やっぱり痛い。何とか呼吸は出来るけど、痛いのは痛い……
立っていられず、煉瓦の地面に激突しそうになったけど、柔らかいものが受け止めてくれた。
腕の中……横たわる彼女の、クリーム色のブラウスに、じわりと血が滲んでいく。
……一体、何が起こったのだろう。
「はっ……はははっ……いい気味だ! 死ね! 死にやがれ!」
狂った様に叫ぶ影を、目の前で護衛が取り押さえている。この影……何処かで見たことが……ああ、ローリー・ヘイズに似ているな……
「リンディ!」
ヨハネスの叫び声に、再び腕を見下ろせば、彼女の青い瞳は焦点が合わず、薔薇色の唇は白くなっていく。
ヨハネスはナイフが刺さったままの腹に手をかざすと、魔力を送る。すると血が止まったのか、ブラウスの赤い染みが落ち着いた。
「……応急処置です。自分の魔力ではこの位しか……早く医師に!」
そうだ……
何が起こったかはよく分からないが、彼女の腹にナイフが刺さって、血が出ている。早く医師に診せないと。
だが……焦れば焦る程、足にも腕にも全く力が入らない。
神経が遮断されてしまったのではと思う程に。
動け……動け…………動け!
必死に身体に命令し、彼女を抱いたままふらりと立ち上がる。
……何と重いのだろう。前に浜辺で抱いた時は、羽の様に軽かったのに。
今はこんなに……彼女はこんなに、重い。
馬車に乗り込んだ後は、自分に代わり、ヨハネスがもう一人の護衛や御者にテキパキと指示を出す。
屋敷へ向かい、やっと車輪が回り始めるまでの時間が、何と長く感じたことか……
揺れる馬車の中、氷の様な頬に手を当てれば、微かにすり寄せてくる。
「…………ンディ」
初めてその名を呼べば、白い唇が嬉しそうに微笑んだ。
嬉しいな……ルーファスが、私の名前を呼んでくれている。一緒に家へ帰れる。
これでお腹が痛くなければ、最高なのに。
死ぬのは明日の筈なのに。おかしいな……何で今日こんなに痛いんだろう。
でも、何となく分かった気がする。私がこの世に生を受けた意味……たったの19歳で幕を閉じる意味。
一回目も、二回目も────
きっと、ルーファスを守る為だったんだ。
屋敷に着くとベッドに寝かされ、何とか浅い呼吸を繰り返す。
痛いけど、一回目と違って呼吸は出来るし、眩暈はするけど、意識もはっきりしている。
あの時、咄嗟に背伸びして正解だったかも。
身体中寒くてゾクゾクするけど……手はずっと温かい。
あっ……そっかあ。ルーファスが繋いでくれているからだ。嬉しい……家に着いても、ずっと離れなくていいなんて。でも……
「うさ……ぎ……」
え? と、ルーファスが口元に耳を寄せる。
ふふっ、黒い髪の毛がくすぐったい。
「うさぎ……つくれな……て……ごめ……ね」
沢山作ってあげたかったのにな。
ルーファスは何も言わないけれど、繋いでいる手がガタガタと震え出した。
怒ってる? それとも寒いのかな……私みたいに怪我してなければいいけど……大丈夫かな……
考えている内に眠くなってきて、ぼんやりする視界を閉じてしまった。
激痛を感じ目を開けると、誰かが私のお腹に手をかざしていた。そこに心臓があるみたいにドクドク痛んだけれど、だんだん和らいで、スースーした不思議な感覚に包まれる。その後で、何とか我慢出来る程度の鈍い痛みに変わった。
あ……ナイフ、抜いてくれたんだ。
安心した途端に眠くなり、また目を閉じてしまう。
でも意識は手放せず、何となく話し声に耳を傾けていた。
「……急所は外れていますが、内部は損傷しています。回復魔力で止血と最低限の処置は行いましたが、完全に治療することは出来ません」
「どういうことだ」
「生と死を動かす行為は、神に背く医術の禁忌です。この様な、死に直結する重い外傷の場合は、最低限の処置しか行ってはならないのです」
「……神とかそんなのどうでもいい! こいつの命は夫である俺のものだ! 治せ……必ず助けろ!」
「ご容赦ください……後は奥様の生命力にかけるしかないのです。また、万一助かったとしても、何らかの後遺症が残る可能性が高いことを、覚悟なさってください」
やっぱり……神様の意思には逆らえない。
一回目は心臓に矢が刺さって、ほぼ即死。
二回目は心臓は外れたけれど、じわじわと命が削れていく。
どちらにしても予定どおり、明日の夜に、私は死んでしまう。
この痛みは、一回目の人生で受けた拷問の分かな……こんな所まで同じにしてくれなくていいのに。
でも、やっぱり神様は優しい。
柔らかいベッドの上で、傍にはルーファスが居てくれるんだもの。二回目の方が、ずっと幸せ。
少し瞼を開ければ、さっきよりも澄んだ視界に、曇ったルビー色が浮かんでいた。
──家令からの連絡によると、兵と向かったローリー・ヘイズの家は悲惨な状態だったと言う。年老いた父親の遺体と、離れの納屋には身元不明の男性の死体。負傷しながらも命からがら逃げ出した彼の妻の話によれば、思い詰めた夫が、刃物で家族を刺したとのことだった。
共に働き何とか生計を立ててきた父親は、数年前から痴呆症を患い、目が離せない状態に。
納屋の男性はローリー・ヘイズの実兄で、生まれつき心身が不自由だった為、繋いで閉じ込め、世間からその存在を隠していたと。
そして妻は、兄の世話と介護疲れで酷い鬱状態になり、何も出来なくなってしまったと言う。
ローリー・ヘイズの家は、昔、祖父が貧しさのあまり呪術に手を出したことがあり、未だに近所から村八分にされていた。病人ばかりなのは呪術を使ったせいだと……更なる偏見を恐れて、誰にも相談出来ずにいたらしい。
そんな家族の歪みが、全てローリー・ヘイズ一人の肩にのし掛かっていたのだ。
『前の公爵様は待って下さいましたのに、息子である貴方様はなんと非情なことを』
父は正しかった……
詳しい事情は知らなくとも、彼が抱えている闇を感じていたのだ。
浅はかな自分が執拗に責めたばかりに、彼の闇を狂気と殺意に変え、リンディの命を危険に晒してしまった。
医師の処置を受けた後、少し目が開いただけで、また眠り続けているリンディ。
ルーファスは、血の気のない真っ白な顔に何度も手をかざしては、呼吸をしていることを確認する。
途方もなく長い一日に時計を見れば、既に日付は変わり大分経っていた。
19歳か…………
冷たい手に額を寄せ、唇を当て、そうしている内に、だんだん温かくなっていることに気付く。
このまま快方に向かうかと期待したのも束の間、それは燃える様な熱さに変わっていった。
……熱?
さっきより呼吸も荒く、胸が苦しそうに上下している。
「医師……医師を!!」




