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第88話 二回目 リンディは18歳(26)


耳朶を押さえながら、真っ赤な顔で口をパクパクさせる妻を見て、ルーファスは楽しげに笑う。


「……契約書の“3”。今日は子供が出来やすい日だと、お前の侍女から聞いた。そろそろ周りの希望に応えて、跡継ぎとやらを作ってもいいかと考えてな」


子供が……出来やすい?

そういえば今朝プリシラさんが、今夜旦那様と寝ると良いことがありますよって言ってたけど……それが子供のこと?

上手く想像が出来ないけど……食べる、寝る、子供の三つは、やっぱりセットなのね。


「お前のせいで、ご丁寧に歯ぎしり対策グッズまで渡された。どうやら歯に嵌めるらしい」


夫のポケットから出てきたのは、透明な歯形の道具。

身を乗り出し興味津々で見ている内に、リンディにある疑問が浮かぶ。


「……旦那様、それを着けたら、私を食べられないんじゃない? 骨になるまでなんて、とても齧れなそうだわ」

「心配するな。食べるのに歯は使わない」

「……丸飲みするの?」


ぷっと吹き出す横顔を、リンディはぽかんと見つめる。

そんなに可笑しいことを言ったのかしら……本当に私は、何も知らないんだわ。


「どうやって食べるか……知りたいなら、今晩教えてやるよ。じっくりとな」


さっきの子守唄とは全く違う……身体中がゾクリと粟立つ艶やかな声。気付けば、炎の様に燃える大きな手が、自分の頬に添えられていた。

熱い……熱過ぎて呼吸いきが出来ない。このまま身を委ねていたら、私は焦げて灰になってしまうかもしれない。

怖いのに、この熱の先を知りたいと思ってしまう。教えて欲しいと思ってしまう。だけど……



リンディは夫の手を掴み、自分の頬から下ろすと、少し距離を取った。まだ熱い頬を自分の手で冷ましながら、震える口を開く。


「19歳……19歳の誕生日が無事に終わったら……そうしたら食べてもいいわ」


……誕生日? 無事に?

ルーファスは怪訝な顔で問う。


「何故誕生日なんだ」

「……今食べられたら、私はきっと苦しくなってしまう。お別れするのが、きっともっと苦しくなってしまうと思うの」


……お別れ?

聞き捨てならない言葉に、語気を荒げる。


「どういう意味だ」


思わず漏らしてしまった言葉に気付くも、リンディはもう、溢れる感情を抑えることが出来ない。


「私、19歳の誕生日に死んでしまうかもしれないの。どうやって死ぬのかは分からないけど……でも」


──突如、リンディの声を遮る様に、頭上でカラスが鳴き叫ぶ。

急にかげり始めた空が、ルーファスの胸にも不穏な影を落とした。


つい数分前まで、柔らかい日差しを反射していた青い瞳が、今は灰色にくすんで見える。妻の怯えた表情は、さっきの言葉が冗談ではないことを物語っていたが……

ルーファスはあえて見ない振りをして、軽い調子で言った。


「死ぬ? 猛獣みたいなお前が? 侍女の話では健康そのものらしいが」

「死ぬ理由は病気だけじゃないわ。私は……」

「止めろ!!」


恐怖に満ちた怒鳴り声が、二人の間を支配する。

リンディは少しだけ肩を震わせたものの、はあはあと息を切らす夫を、冷静に見つめていた。その様子が余計にルーファスの恐怖を掻き立て、胸を圧迫する。


「父上が亡くなったばかりなのに……縁起でもないことを言うな」

……違う。この恐怖と苦痛の原因は、父上ではない。

そう感じながらも、他に都合の良い言葉が見つからなかった。そんな軟弱な心を見透かす様に、リンディは新たな問いを投げ掛ける。


「旦那様は……もし私が死んでしまったら、苦しくなくなりますか? 私が居ない方が楽で、幸せになれますか?」


ザッと強い風が吹き、煽られた金髪が彼女の表情を覆い隠す。


言葉が……何も出てこない。

ただ、喉を絞められた様に苦しくて、それを逃す為に噛み締めた唇には血の味がした。


風が止んでも、彼女の表情は見えない。よく見れば、涙で濡れた顔に、髪の毛がベッタリと張り付いている。


抱き締めたいと想う心と、抱き締めたいと動く身体。

両方がピタリと重なり、ルーファスは目の前の命を掻き抱いた。

甘いのに、柔らかいのに、何故彼女はこんなに冷たいのだろう。……何故こんなにも哀しいのだろう。


「幸せだの……楽だの苦しいだの……そんなのどうでもいい。お前の命は俺のものだ。勝手に死ぬことは許さない。口に出すことも……二度と許さない」

「……命は神様のものでしょう? 旦那様でも逆らえないわ」

「夫を無視して妻に手を出すなら、悪魔も同然だ。そんな神なんか殺してやるよ」


神を冒涜する恐ろしい言葉に、リンディは驚き身体を離そうとするも、力強い腕がそうさせてくれない。諦めて身を委ねれば、やはりどこまでも心地好く、涙がどっと溢れる。

こんなに狂気じみた中にも安心感があるのは、彼を深く愛しているからなのだろう。

彼こそが自分の居場所なのだと、自分の命の置き場なのだと、ただ全身でそう教えてくれていた。



「それに……お前はまだ、妻らしいことを何もしていないだろう?」

「妻らしいこと?」

「パンもフルーツもまだ全然足りないし……何より夫に食べられ、跡継ぎを遺すという大事な使命がある」

「……パン、もっと焼いて欲しい? フルーツも切って欲しい?」

「ああ。妻の仕事だ」

「食べるのも私がいいの? 不味いのに?」

「ああ。何度か食べている内に、慣れて甘く感じるかもしれない」

「他にもっと美味しそうな女の人が居ても?」

「ああ。お前以外の女なんて、絶対に食べたくない」


リンディはルーファスの瞳を覗き込む。熱っぽくて、苦し気で、今にも泣きそうで……その言葉が偽りでないことを、真っ直ぐ伝えてくれていた。

一回目の人生で、初めて唇を交わしたあの日と、全く同じ瞳。


「私……旦那様の傍に居てもいい? 神様が離れろって言っても、旦那様が離れろって言うまで、傍に居てもいい?」

「もちろん」


また、熱く大きな手が、彼女の頬に添えられた。火先ほさきの様な指を伸ばし唇に触れれば、忽ち薔薇色に燃え上がりながらルーファスを誘う。


「いいだろう。望み通り、19になるまで待ってやる。……コレ以外は」


香り立つ小さな薔薇色を、一度にパクリと口に含むルーファス。

甘いな……上も、下も。だけど……もっと奥の味を知りたい。たとえ毒で麻痺しても……その先を知りたい。


金色の頭をしっかり支え覆い被さると、熱い欲望を吐息が漏れる隙間へ差し入れる。彼女の冷たい舌に触れた瞬間、切ない猛毒が骨の髄まで狂わせた。

負けてたまるか。温めて……燃やして……いっそ焦がしてしまえ。挑む内にどんどん深さを増し、とうとう痺れる程の強烈な甘さを知ってしまった。






「また手ぶらで来たのか」

「はい。やはり工面は難しいとのことです」


追い出したあの日から、ローリー・ヘイズは毎日屋敷へ来ては門の前で現状を訴え、許しを請うていた。対応する家令にも、やや疲れが見られてきている。


「立ち退きの期限まであと十日ですから、最近は相当思い詰めた顔をしています」

「十日か……」


カレンダーを目で追えば、丁度十日後のある数字が丸で囲われている。……妻の19歳の誕生日だ。

それまでに面倒なことは片付けてしまいたいのに。


「……何故、父上はあんな不誠実な領民を甘やかしていたんだ? さっさと追い出せば良かったものを」

「さあ……大旦那様も、詳しい事情は分からないと仰っていました。ただ、あれだけ頑なになるのは、きっと何かを抱えているのだろうと仰り、黙って支援を続けていらっしゃったのです」


父上のことは尊敬しているが……あの男に対しての甘い対応だけは、どうにも納得出来ない。

信用出来ないし、誠意も感じられない。眼鏡の奥の廃人の様な目に、それが表れているというのに。

甘やかし続けたことが、男を余計に増長させたのではないだろうか。


「明日から妻と首都へ戻る。王宮の仕事が忙しいから、当分は戻って来られないだろう。期日が来たら兵を送り、速やかに領地から追い出せ」

「畏まりました」


──国王陛下の容態があまり良くない。

折角男の件が片付いても、陛下に万一のことがあれば、誕生日どころではなくなるな。

ため息を吐くルーファスに、ドアの外から声が掛かる。


「旦那様、金細工職人が来ております」


間に合ったか……これで誕生日に渡せる。


妻の白く細い薬指を想うと、心のもやが晴れていき、自然と明るい笑みが浮かんでいた。





翌日の早朝、屋敷の前でルーファスは家令と向かい合う。


「留守は任せた。何かあれば魔道具で逐一連絡しろ。……くれぐれも期日には追い出せ。万一抵抗するなら、罪人として拘束して構わない」

「畏まりました」


夫婦を乗せて首都へ向かう馬車を、物陰から暗い目が睨み付けていた。


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