第86話 二回目 リンディは18歳(24)
医師や使用人達の話によると……デュークは亡くなる前のひと月を、本当に穏やかに過ごしていたらしい。身体は思うように動かせず、臥せったままの日もあったが、とにかくよく笑っていたと。そしてその傍には、いつもフローラが居たと、ルーファスは聞かされた。
暗い部屋の中、蝋燭の灯りが照らす父の顔を、ぼんやりと見つめる夫婦。一回目の人生と違うのは、自分達が兄妹から夫婦になったことと、デュークの胸のタイに、リンディの刺繍がないことだけだった。
肖像画を描いたあの時とは別人の様に、穏やかで幸福な寝顔に、リンディはそっと触れる。
義父から母を奪ってしまった二回目の人生……自分が幸せになりたいが為に、義父を不幸にしてしまった二回目の人生。
母と再会し、恋に落ち、最期は幸せに逝けたのだろうか。
一回目の人生で父を失った後、もう一度だけでいいから、少しだけでもいいから会いたいと、毎日毎日考えていた。
二回目の人生で生きている姿に会えた時、話が出来た時、本当に本当に嬉しかったけど……今は、会わなければ良かったとさえ思う。
大切な人との別れを、二回も乗り越えなければいけない。想像を絶するその苦しみに、リンディの涙の器はひび割れ、もう上手く泣くことも出来なくなっていた。
時折父の顔に触れながら、ただぼんやりとする妻。あんなに父に懐いていたのだから、もっと取り乱したり、泣きわめくかと思っていた。セドラー家の宿命のことは理解していたとはいえ……いざ、この時を迎えた彼女は、驚く程に冷静だった。
父を映す青い瞳は、空よりも海よりも遥かに透明で、無機質な硝子玉の様だ。何となく、生きている自分よりも、旅立った父に近い気がして……
このまま遠くへ離れてしまうのではないかと、背筋が凍り付く。
白い左手を掴み、自分の両手の中に力強く包むが、彼女はぼんやりしたまま何の反応も示さない。
冷たい……何て冷たい手だろう。
擦ってもまだ冷たい指先に、唇を当て吐息をかける。それでも自分を見ない彼女に恐怖を覚え、気付けば腕に抱き寄せていた。
無事に葬儀が終わった夜、喪服のまま芝生に転がるリンディ。一回目の人生で、自分の部屋の中庭だった此処で、いつかの様に藍色の空を見上げる。
二回目の18歳になったあの日、自分を祝福してくれていた眩しい星は、今は哀しく瞬く塵だ。
「リンディ」
ベルの音と共に聞こえる母フローラの声も、あの日と変わらない。
これは悪夢だろうか……
目を瞑り開ければ、あの日に戻って元気な父に会えるだろうか……
でもそうしたら、また別れの苦しみを味わわなければいけない。
きっと私は、大切な人を失くす度に、何度も何度もこうして愚かなことを考えるのだろう。
もう、別れは一度きりでいい。
辛くても、やりきれなくても……たった一度だから、何とかその苦しみを乗り越えられるのだ。
生も死も、たった一度だからこそ尊い。
どんなに文明の針が進もうとも……神の領域を超えてはいけなかったのだ。
リンディは左手を伸ばし、禁忌を冒したその指輪と、高く尊い星を重ねた。
いつの間にか、自分と同じ喪服姿の母も、ごろんと隣に寝転がっている。母娘二人、空を見上げながら、しばらく深い呼吸を繰り返す。
「素敵な恋をしたわ……」
歌うかの様な、優しく美しい声色で、フローラは呟く。
「出会うべきだった大切な人に出会っていない。その人を探し求めている気がするって、前に話したのを覚えている?」
リンディは顔だけ母の方へ向け、こくりと頷いた。
「デューク様と出会ってね、“幸せ”の隙間がピッタリ埋まったの。“幸せ”が完成したと言った方がいいかしら。この先どんな良いことがあっても、きっとこれ以上の幸せはないと思うから」
「……もう会えないのに? 話したり触れたり出来ないのに? こんなに苦しいなら、出会わなければ良かったって、そんな風に思ったりしない?」
フローラはふふっと笑うと、芝生に置かれた娘の手を握る。
「全然思わないわ。だってあの人に出会わなかったら、ずっと何かが足りないままだったもの。あの人を失う苦しみだって……私の“幸せ”には、全部必要なことだったのよ」
「苦しくても……幸せなの?」
「もちろん。人を愛するってね、案外苦しいことの方が多いかもしれないわよ。切ない胸に向き合ったら最後、自分の爪で必死に掻きむしらなければならないのだから。いつかはこうして、どちらかが先にお別れしなければいけないしね」
明るい調子とは反対に、震え始めた母の手。リンディはごろんと身体を向け、両手で強く握り返した。
「こんなに苦しいのも、こんなに哀しいのも……あの人を沢山愛していたから。だから私は幸せ……幸せだったわ。でも……やっぱり……すっごく寂しい」
パタパタと芝生を濡らし、濃い草の香りを立ち昇らせる母の涙。
一回目の人生では気丈に振る舞っていた母の、裸の部分に触れた気がして……こうして泣いてくれたことに、何処か安堵する。
リンディは幼い時と変わらぬ仕草でピタリと寄り添い、震える母をいつまでも撫で続けた。
一回目と全く同じ日、同じ時刻に神に召されたデューク。
それは自分も、決して寿命から逃れられないことを意味しており……恋人に次いで娘に先立たれる母を思うと、激しく胸が痛んだ。
◇
クリステン公爵となったルーファスは、落ち着くまでは首都へは戻らず、セドラー家の屋敷から仕事へ通うことにした。契約書の “5” がある為、リンディにも此処から通えと命じ、離れることを許さない。
毎朝早く起き、二時間程かけて王宮へ通うのは大変だったが、ルーファスはこの通勤時間が好きだった。
ことことと揺れる馬車の中、微睡む妻の肩を抱き、自分も瞼を閉じるフリをする。彼女がぐっすり眠ってしまえば、手だって自由に握れたし……白い頬や、薔薇色の唇……色々な所に触れ、遊ぶことも出来た。
詐欺に遭ったあの日以来、遠かった距離が、この狭い車内ではぐっと縮まる。それが嬉しかった。
その一方で、見えない距離は広がっている気がしていたが……なるべく考えない様にしながら、ただこの時間に身を委ねる。
彼女と居ると楽で、そして苦しい。
もっと話したい。もっと一緒に居たい。もっと……触れたい。そう思うことも、それを素直に言えないことも苦しかった。
パンは香ばしいし、うさぎのフルーツは甘酸っぱくて嬉しくなる。
毎晩手を握ればぐっすり眠れる。
だけど今は、それだけでは楽になれず、むしろ苦しくなる。
パンもフルーツも、同じテーブルに向かい合って一緒に食べたら?
握った手を引き寄せて、唇を落とし、肌を重ねたら?
きっと楽になれるのかもしれない。では、何故楽になるのだろうと考えると、答えが出ずにまた苦しくなる。
闇の男は、あれから自分に背中を向け、こちらを振り向かなくなった。怒っているのか、穏やかなのか、その表情は一切窺えない。
“無”であることが堪らなく不気味で……いっそ恐怖でも構わないから感じたいとすら思う。
おかしいな。自分は闇に包まれたかったんじゃないのか。何も無い、感じない世界に居たかった筈なのに。
彼女と会って、闇が不完全になり、彼女と結婚して、闇が穏やかになり……“苦しみ”と“楽”を繰り返した結果、今は、苦しみの方が勝っている。
彼女がもし、自分の前から消えてしまったら、何もなかたった頃に戻って、何もなかった様に楽になれるのだろう。けれど、果たしてそれは、自分の“幸せ”なのだろうか。
くるんと上を向く金色の睫毛をなぞれば、くすぐったそうに震える瞼。さりげない鼻をキュッとつまめば眉間に皺を寄せ、薔薇色の唇をつつけば、少しそれを尖らせ、またふにゃりと元へ戻る様を楽しむ。寝息と共に漏れる吐息は、やはり甘く……猛毒を含んでいるのだろう。
誘われるままに柔らかい身体を腕に抱けば、毒の香りに包まれ、胸がギュウと苦しくなる。苦しいと分かっているのに離れたくない。
……離したくない。
また自然と、“楽”に変わる時が来るのかもしれない。
それまでは傍で、苦しみに耐えてみよう。
数週間後のとある休日。
亡き父デュークの机で、執務を行うルーファス。セドラー家の宿命について打ち明けられる大分前から、領地や屋敷の管理、事業のあれこれまで、父から細かく教わっていた。今思えば、遺された息子が困らない為にと……その一心だったのだろう。
今や自分はセドラー家の当主であり、公爵であり、そして大臣だ。認められればいずれは宰相となり、王太子殿下を支えていくかもしれない。
父亡き後、この立場に一人立たされることに怯えていたが、いざその時が来てしまえば、意外にもすんなり受け入れられていた。
父の代から引き継ぐ優秀な家令もおり、今の所大きな不安は感じていない。
ただ一つの問題を除いては──
「旦那様、表でローリー・ヘイズが謁見を求めております」
またか……とルーファスは額を押さえ、重苦しい気持ちで立ち上がった。




