第85話 二回目 リンディは18歳(23)
ヨハネスがルーファスに気付き顔を上げるのと、リンディがヨハネスを突き飛ばすのとは、ほぼ同時だった。
気を取られている上に不安定な姿勢で跨がる身体を、思い切り押されたのだから堪ったもんじゃない。
優秀な身体能力は生かされず、ヨハネスは熱を抱えたまま反り返り、呆気なくベッドの下に転げ落ちた。
それでも落ちる瞬間に、咄嗟に受け身を取ったのは流石だと、ルーファスは頭の何処かで冷静に感心していた。
が……少し乱れたリンディの髪と、白い鎖骨の覗くネグリジェ姿を見て、カッと血が上る。
ヨハネスへ掴みかかろうとした所へ、高い叫び声がキンと鼓膜を貫いた。
「駄目……やっぱり食べちゃ駄目!!」
リンディはベッドから飛び降り、まだ体勢の整っていないヨハネスの傍へ、ペタリと座り込んだ。
「やっぱり……やっぱり私、旦那様じゃないと食べられたくない。痛いのも、骨になるのも、やっぱり旦那様がいい! 不味いなら美味しくなる様に頑張る。だから……ごめんなさい、ごめんなさい……ヨハン兄様。無理に食べてもらおうとして、本当にごめんなさい」
無理に……か。
まだ燻る熱を誤魔化す様に、身体を捻りながら起こす。
無理にどころか、食べる気満々で居たのに……まだ味見すらしていないのだから、空腹で仕方がない。身体も、心も……からっぽだ。
でもこうしてキッパリと拒絶され、何処かホッとしている自分もいた。彼女はたとえ一時でも、自分のものにはなり得ない。彼女を温めるのも、命の砂を守るのも、ルーファス様以外にはあり得ないのだと。
そんなこと、当然分かっていたのに……我を忘れそうになっていた。危うく自分のエゴで、彼女を失うところだった。
「ふっ……」
口から息を漏らし、片手で顔を覆うヨハネスを、リンディは心配そうに覗き込む。
「ヨハン兄様……突き飛ばしてしまってごめんなさい。どこか痛い?」
下を向いたつむじから、サラサラ流れ落ちるミルクティー色の髪。それを撫でようと伸ばした華奢な手を、ルーファスはがしっと掴み、ヨハネスから遠ざけた。
「……旦那様!」
そこで初めて夫の存在に気付いたリンディは、驚き目を丸くする。
いつの間に? ……いつから居たの?
「“処分”は終わりだ。出ていけ」
ヨハネスへ向かい吐き捨てる声は冷たいものの、不思議とその顔は穏やかだ。いや、むしろ……嬉しそうに見えるのは気のせいだろうか。
旦那様……もう……怒ってない?
ヨハネスは立ち上がり、なるべく表情を見られない様に礼をすると、すっと部屋を出ていった。
薄明かりが灯し続ける静かな部屋に、手を握ったまま立ち尽くす二人。
恐る恐る見上げた夫の顔は、ツンとそっぽを向いている上に、影になっていてよく見えない。沈黙が沈黙に重なり、重苦しい空気ばかりが流れていった。
「契約書の “5”……忘れていた」
低い呟きでそれを破ったルーファスは、握っていた妻の左手を、自分の胸まで引き寄せる。
固い胸板の向こうでドクドクと波打つ鼓動が、手を伝い、リンディの胸にも激しく連鎖する。
さっきとは別の恐怖で、リンディは夫の顔を見上げることが出来ない。見上げたら最後……自分は忽ち骨になってしまう、そんな警報が鳴っていた。
無意識にきゅっと握っていた手の指を、ルーファスは一本ずつ、丁寧にほぐしていく。
いつもよりもっと柔らかく、優しい羽の感触で。
長い指で薬指をつまむと、ふわりと持ち上げ、ルビー色の瞳に近付ける。角度を変え眺めた後、指輪ごと覆い隠す様に、両手ですっぽり包まれる。
「こっちの砂は……もう少しでなくなりそうだ」
自分の指輪に淡々と語りかけるルーファス。
「砂が全部無くなったら……外れて楽になれると。前はそう思っていた。でも今は、見る度に何か不吉な予感がして、胸がざわざわする」
リンディは無言で、彼の指輪に残る数粒を眺めている。
「お前はどう思う? 楽になれると思うか? それとも」
「楽になれるわ」
自分でも驚く程抑揚のない声で、ルーファスの言葉を遮る。パッと手を振り払うと、笑顔をつくり、自分の薬指をヒラヒラと見せた。
「見て! こんなに綺麗な砂なんだもの。流れ星が落ちる時、願い事を叶えてくれるみたいに……この砂も消えたら、きっと楽に、幸せになれるわ」
何かを抑えた声と、焦点の合わない青い瞳。
言いようのない恐怖が込み上げたルーファスは、宙を舞う妻の手を掴むと、再び自分の両手に閉じ込めた。
「……自分にとって、何が楽で、何が幸せなのか……最近もっと分からなくなった」
リンディは苦い唾をこくりと飲むと、ルーファスの指輪を見ながら尋ねた。
「旦那様は……私と結婚して、楽になりましたか? ほんの少しでも、楽になれましたか?」
『……お前と結婚することで、俺は楽になる』
『楽?』
『ああ。少なくとも、縁談話に悩まされることはなくなるからな。それに……』
彼女へ求婚をした、あの夕暮れの会話が、ルーファスの中に甦る。
光から……彼女から逃げてはいけない。
恐れずに、真っ直ぐ。
そう覚悟し試してみた結果……彼女と居ることで、母の悪夢に魘されることも、不完全な闇に苦しむこともなくなった。ついさっきまでは……
あんな風に闇の男に苦しめられたのは、結婚して以来初めてだった。
……あの男は何故あんなに怒っていたのだろう。
……隣に“何か”が居なかったから?
……別に俺のせいじゃない。そもそも“何か”が何なのかも分からないのに。
彼女と結婚して、確かに楽にはなった。
だけど……
「苦しい」
「……え?」
下を向いたままの、金色の頭がピクリと震える。
「楽にはなったけど……何か……何処かが、ずっと苦しい」
「……私と一緒に居ると、苦しいの?」
「さあ……どうだろう。でも……そういうことなんだろうな」
自分でもよく分からない。ただ、ありのままを答えた瞬間、彼女の手が急速に冷えていくのを感じた。
「“楽”が幸せなら、“苦しい”は……幸せじゃない?」
「そう……だろうな」
苦しみが幸せである訳がない。
「……そっかあ」
頭が小刻みに震え続けるだけで、彼女の表情は全く見えない。顎に手をかけ上を向かせようとするも、また手を振り払われ、ぴょんと跳ねながらベットへ戻っていった。頭まで潜り込んだ布団は、小さな山になっている。
「……おい」
近付き、布団から一房だけはみ出した金髪を引っ張ってみるも……何の反応もない。
カサリと何かを踏み目線を落とせば、絨毯の上には紙が何枚も散らばっている。この異様な光景に、何故今まで気が付かなかったのだろう。それ程逆上していたのかと、改めて自分が可笑しくなった。
赤黒く染まった物を一枚拾い、ルーファスは慌てて叫ぶ。
「おい! 血……紙に血が……!」
「はなぢ……」
鼻にかかった声が、布団の山から微かに聞こえる。
「……鼻血?」
「うん……よく出ちゃうの。頭が一杯になって、絡まると出ちゃうの。数字は嫌い……大嫌い」
数字……
確かに何かの計算式と答えが、ビッシリと書き込まれていた。ザッと確認した所、全て答えも合っている。
ルーファス自身、何度も解いた覚えがある。これは……名門王都学園、高等部の入学試験の過去問題だ。
「何で簡単な計算も出来ないのに、こんな難問が解けるんだ」
ルーファスは疑問をそのまま口にした。
「覚えていたから。一度……問題集を見て覚えていたから。でも、計算は出来ないの。覚えられるけど、解くことは出来ないの」
覚える……嘘だろ。こんな複雑な公式を、一度見ただけで、だと?
他の紙も拾い集めれば、そこには王都学園の入試レベルの過去問題が、何年分も書かれている。他にも、ただ数字を羅列している物や、幼い子供向けの算術、更には何かの魔道具の計算式まであり……確かに解いていると言うよりは、覚えた数字をただ書き綴っていると言う方が正しそうだ。
それが本当なら……驚異的な記憶力だ。
布団の山を見下ろし、ルーファスは信じられないとばかりに首を振る。
「ごめんなさい……私、変なの。頭がおかしいの。迷惑をかけてごめんなさい。金の指輪や、ネックレスやバレッタも。セドラー家のお金で買った物なのに……価値も分からずに、勝手に渡してしまって、ごめんなさい」
「……もう二度と、夫の許可無しに勝手なことをするな」
「はい」
まだ鼻血が残っているのか、スンと辛そうに鼻を啜る音の後、耳を疑う言葉が聞こえた。
「私……酷いことをしてしまったわ。他にもあの薬を待っている奥様が居たのに、お義父様に先に飲んで欲しいって。それしか考えていなかった。だから、神様が怒って、大切な絵の具を取り上げてしまったんだわ」
……は?
ルーファスは目を点にする。額をしばらく押さえた後、やや声を張り、キッパリと言った。
「あれは薬じゃない。偽物だ」
「にせ……もの?」
布団の中から、半分覗いた青い瞳。ゆらゆらと潤み、目の周りが赤く染まっていることから、こっそり泣いていたことが分かる。
妻は……やっぱり彼女は、頭がおかしい。
本来人間に備わっている筈の、生きる為に必要な防衛機能が、悉く欠如している。
虚栄心、自尊心、悪心、そして……猜疑心。
恐ろしい程に純粋な心を、これ以上傷付けたくない……
自然と開いた口からは、こんな嘘が飛び出していた。
「癌を直接治す効果はない。あの瓶の中身は、癌患者の免疫力を高める栄養剤だ。……父上には、明日送っておく」
「栄養剤……? 少しだけでも身体が楽になる?」
「ああ。食事が摂れない時も、水に混ぜて手軽に飲める」
「そっかあ……じゃあ……少しだけでも良かった」
ほんの少しだけ、和らぐ妻の目元。涙を拭ってやろうか迷っている内に、またひょっこり布団に潜ってしまった。
「……結婚指輪、もう二度と他人に渡さないと約束するなら、特別に同じ物をもう一度作ってやる」
「ううん……いいの。勿体ないから、もう指輪は要らない。この砂の指輪があるから、もう他には何も要らないの。……おやすみなさい」
まるで拒絶されている様な、堅い言葉に胸が痛む。
ルーファスは拾った紙をまとめて近くのドレッサーへ置くと、ランプを消し、そっと部屋を後にした。
その日から、リンディが自らルーファスに接触することはなくなった。以前の様に、一緒に食事をしようと誘われることもない。フルーツのうさぎや花が遊ぶ皿を、ルーファスは一人、ため息を吐きながら眺めていた。
そして、ひと月後──
二回目の人生で、一番哀しい知らせが、リンディの元へ届いた。




