第84話 二回目 リンディは18歳(22)
「一緒に……寝て欲しい?」
「うん」
「どうして?」
「さあ。何を考えてるのか、僕にもよく分からないけど。一緒に寝ても、男女の仲にならないか確かめたいんじゃない? それが僕達への処分だって」
「男女の仲……」
口をつぐみ、しばらく考えを巡らすリンディと共に、ヨハネスもルーファスとの一悶着を振り返る。
ちょっと刺激し過ぎたかな……冷静にと思えば思う程、歯止めが効かなかった。
だってそうだろう。妻と一緒に寝ろだなんて……嫉妬に駆られてとはいえ、幾らなんでも酷すぎる。
大体、一護衛の自分に何を嫉妬することがあるのか。
……あの反応からして、やはりルーファス様はリンディをまだ抱いていない。抱きたくても踏ん切りがつかないと言った所だろうか。
可愛いリンディを自分から奪って、“夫”になったくせに。抱きたいならさっさと抱けばいい。愛を伝えたいなら伝えればいい。そうしたくても出来ない自分に対し、つまらない嫉妬をぶつけるなんて。これ以上残酷なことはあるか?
むしろ自分がどれだけ彼に嫉妬しているか……
あのアパートの外で、笑い声を聞いた時の気持ちが……ままごとみたいな食卓を羨む気持ちが……夜が来る度に、抱かれていなければと願う気持ちが……彼女を愛して欲しい気持ちと、手放して欲しい気持ちとの葛藤に苦しむ……この気持ちが分かるか!
もしルーファス様と、中身が入れ替われたらなんて。最近では、そんな馬鹿げたことを考える自分すら居る。
でもきっと、リンディは気付くんだろうな。外見はルーファス様でも、中身が僕であることに。そして結局は、僕の姿をしたルーファス様に気付き、愛するんだ。
ああ、想像までもが虚しい。
……ルーファス様は今、リンディをどの程度想っているのだろう。きちんと愛を自覚しているのなら、別の男と寝かせるなど絶対にしない筈だ。差し詰め玩具が自分の思い通りにならずに、ごねてる子供と言った所か。
「ヨハン兄様……怒っているの?」
知らず知らず、顔が険しくなっていたのだろうか。不安げに問うリンディへ、「怒ってないよ」と優しく微笑みかけた……つもりだが、上手く出来なかったらしい。更に下がる眉を安心させる様に、長い指で撫でてみるしか出来なかった。
その行為に、ほんの少し眉を和らげたリンディは、消え入りそうな声で呟く。
「兄様……“男女の仲”って、“男女の関係”と同じ?」
「……うん? まあ……そうだね」
「“男女の関係”って、裸になって男の人に食べられることよね?」
「……うん」
「一緒に寝ても、男女の仲にならないか確かめたいってことは……裸で一緒に寝ても、ヨハン兄様が私を食べないか、“反応”しないか確かめたいってこと?」
「まあ……そうだね」
「旦那様は、私を他の男の人に味見させたいの?」
「そう……かな?」
ヨハネスは、内心首を傾げる。
何だろう。多分間違ったことは言っていない筈なのに、妙なズレを感じる……
前にもこんな違和感を覚えたことが……
ああ、そうだ。アリエッタ王女の話をしていた時だ。
『お兄様が王女様に反応しなくて、王女様が発散して惨めになるとどうなるの?』
確かそんな様なことを……
続いて、ルーファスの言葉を思い出す。
『……違う。あいつは何も知らない。男女のことを何も知らない』
そういうことか……
知らないなら全く知らない方が都合いいだろうに。食べるだの味見だの、中途半端な知識を誰に植え付けられたのやら。
緊張感が抜けていくヨハネスの隣で、リンディは今にも泣きそうな声を上げた。
「私が不味くて食べられないから……不味くてもう要らないから、ヨハン兄様に食べさせたいの? それが処分……罰なの?」
「リンディ」
身体を起こし見下ろせば、リンディはもう手の甲で目を覆っている。
「不味いって……ルーファス様に言われたの?」
「うん……白いから不味そうって。少し唇を噛んで味見したけど、やっぱり不味いって」
そんな訳ないだろう……何言ってるんだ、あの人。
見るからに甘そうな、薔薇色の唇を通し憤る。
「私、旦那様が楽になることなら何でもしてあげたい。私を食べて楽になるならって。でも不味いし……変だし、頭はおかしいし。パンを焼いてあげることと、フルーツを切ってあげることと、毎晩寝る前に手を繋いであげることしか出来ない。あと少しで死んじゃうのに……もうこれ以上幸せにしてあげられない」
あと少しで……
その悲痛な叫びに、ヨハネスは彼女の左手を握った。
「私がヨハン兄様に食べられて骨になってしまった方が……旦那様は幸せになれるの?」
……骨に。やっぱり何か誤解しているな。
切ないのに可笑しいリンディの言葉に、フッと笑いが込み上げる。
突然笑い出したヨハネスに驚き、リンディは目から手を退けた。
綺麗だな……リンディは、本当に綺麗だ。
自分を見上げるのは、涙の膜が張った清らかな青い瞳。瞬きをすれば、真珠の様な大粒の涙がホロリと零れ、金髪へ溶けていく。
濡れてキラキラと輝くそれを、長い指で一房掬う。
石鹸の香りを吸い込みながら唇を落とすと、ヨハネスはリンディを潰さぬ様に、身体の上に跨がった。
「旦那様が幸せになれるって言ったら……どうする? 僕に食べられてもいいの?」
頼む……どうか、どうか嫌だと言ってくれ。
今ならまだ、止められるから……
愚かで卑怯な自分を止められるから……
ヨハネスの願いも虚しく、薔薇色の唇から出た言葉は……
「うん……いいわ」
「心も身体も痛むかもしれないよ? ……それでもいいの?」
「うん……でも私、美味しくないの。味見をして、どうしても無理だったら、途中で残してね」
綺麗なのに可笑しくて……そして堪らなく可愛いリンディの言葉に、また笑いが込み上げる。
「残したりなんかしないよ。ちゃんと……最後まで、骨になるまで食べるから」
髪から頬へ……そして唇へ。熱い指で辿れば、高まる自分とは逆に、冷たく震えていることに気付く。
ルーファス様が彼女を愛さないなら……あと少しで消えてしまう命なら……自分が彼女を温めよう。
もう明日、二人死んでしまっても構わない。
ヨハネスは燃え上がる両手でリンディの頬を包むと、ゆっくり身体を落としていった。
暗い……真っ暗だ。
周りも、上も下も、何処を向いても暗闇ばかり。
心を無に包んでくれる、冷たくて心地好い世界。
何も、誰も居ない。自分さえも存在しない……筈なのに……
……ああ、またお前か。
黒髪で、気味の悪い赤い目の、自分にそっくりな男が一人で立っている。いつも傍にいる……話して笑っている“何か”は、何処にも居ない。
やがて、哀れむでも微笑むでもない、鋭い視線を向けられた。
……怒っている?
いつもはその場から動かず視線だけを送る男が、今日は凄まじい形相で、何かを叫びながら自分へ近付いて来る。
止めろ……来るな……こっちへ来るな!!
あともう少しで男と重なりそうになり、咄嗟に突き飛ばす。その生々しい衝撃に目を開ければ……
荒い呼吸と、汗でぐっしょり濡れた身体。ルーファスは、今までとは比較にならない恐怖と苦しみの中で喘いでいた。
最近はずっと穏やかだったのに……何故……
此処は……?
手に触れるザラついた物が、ソファーの布であることに気付く。目の前のテーブルには、白い粉の入った数本の瓶。床には割れた破片と散らばる粉。
いつの間に闇に飲まれたのか……全く記憶がない。
確かヨハネスと話して……ヨハネスが部屋を出て行って……ヨハネス……
『貴方の可愛い奥様と、一護衛である私が、一晩同じベッドで寝て宜しいのですよね?』
『ではお楽しみに』
全身から、どっと噴き出す冷たい汗。
──時計を見れば、あれから既に一時間は経っている。
ルーファスの足は勝手に跳ね上がり、革靴の底を白く染めながら、廊下へ飛び出していた。
行き先は妻の部屋。バンと乱暴に開けた扉の、更に奥の部屋には……
ランプが照らすベッドの上、華奢な身体に覆い被さる男。すっぽりと頬を包む手の隙間に見えたのは、あと僅か数cmで重なろうとしている、二つの唇だった。




