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第83話 二回目 リンディは18歳(21)


頭が……おかしい……


夫から放たれた一言は、鋭い矢になって心臓を貫く。それは一回目の人生で、本当に心臓に矢を受けた時と同じ……いや、それ以上の痛みだった。


どうしてだろう。頭がおかしいなんて、もうとっくに分かりきっているのに。何で旦那様に言われると、こんなに痛くて苦しいんだろう。



『君は変なんかじゃないよ、リンディ』

『でも……みんなとは全然違うわ』

『違って当たり前だろ。君はこの世に一人しか居ないんだから』

『違ってもいいの?』

『もちろん。君は特別な子だよ。何しろ、僕に大嫌いなブロッコリーを食べさせたんだから』



『君は、君のままでいいんだよ』



あまりの激痛に、心も身体も硬直し動けなくなる。


「……おい」


呼び掛けにも答えず、リンディは虚ろな瞳から、ただ涙を流し続ける。それは豊漁祭の、あの砂浜で座り込んだ時とよく似ていた。


ルーファスは胸を押さえる。

心臓が痛い……針で、剣で串刺しにされた様に痛い……

もうこれ以上、見たくない。


「出ていけ」


冷たい声に、リンディの身体はますます硬くなる。


「……出ていけ!!」


それでも動けず震え出す身体を、ヨハネスは何の許可も取らずに抱き上げ、ルーファスを振り返ることなく部屋を後にした。



一人残されたルーファスは、苛立たしげに瓶を開けると、白い粉を手に取り出し舌で掬う。砂糖と薄荷と……とにかく明らかに薬ではない。ただの安っぽい菓子だ。


こんな物の為に、簡単に結婚指輪を渡した……しかも指輪を失ったことより、父からもらった絵の具を失ったことの方を悔やんでいる。

おまけにヨハン“兄様”を庇い、ヨハン“兄様”に抱かれ部屋を出ていった。

一番気を遣わなければならない夫を差し置いて……あいつは一体、誰の物なんだ!?


胸の奥底から沸き出る黒いものは、瞬く間に全身を支配していく。ルーファスは瓶を掴み、力一杯床に投げつける。飛び散る破片と白い粉を、目障りな護衛に重ねながら、ギリギリと足で踏みつけた。





まだ震え続ける身体をベッドに寝かせ、侍女に後を任せたヨハネスは、その足で再びルーファスの元へ向かう。


落ち着け……冷静に……リンディの為に……


ドアの前に立つと、さっきまでリンディを抱いていた手を握り締める。彼のしなやかな体躯は、静かな怒りに満ちていた。




「……大旦那様をお救いしたい一心でされたこと。どうかそのお気持ちを汲み、奥様をお許し下さい。元はといえば、尾行に気付かなかった私に全ての責めがあります。如何様にもご処分を」


深く下げられるミルクティー色の頭に、ルーファスは乾いた笑みを漏らす。


「護衛と主人が互いを必死に庇い合う……滑稽で反吐が出そうだ」


ルーファスは頭を下げ続けるヨハネスに近付き、髪を掴んで強引に上を向かせた。


「いいだろう、二人まとめて処分してやるよ。……お前、今夜あの女と寝ろ」

「……は?」


耳を疑う言葉に、瞼が切れそうな程目を見張るヨハネス。


「あの女と一晩同じベッドで寝て、何もないなら許してやる。だがもし手を出したら……前にも言った通り、目の前で可愛い“妹”を殺してやる」



──少しの間の後、ヨハネスは目を糸よりも細くしながら、フッと冷笑を浮かべた。その表情の変化に戸惑うルーファスの手を振り払い、乱れた髪を直すと堂々と言う。


「貴方はとことん哀れな人ですね」

「……何だと?」

「“もし手を出したら”? 好きな女と一晩同じベッドで寝て、手を出さない男なんているか。ああそうだ、リンディはとっくに“妹”なんかじゃない。姦通罪? 上等だ。あの柔らかくて甘い身体を思う存分抱いた後、二人で一緒に死んでやりますよ。貴方に殺される前にね」

「……お前!!」


胸ぐらを掴むルーファスの手を、またしても簡単に振り払い、ヨハネスは続ける。


「形ばかりの気の毒な“夫”は、まだ“妻”の肌を知らないのでしょう? ああ、肌どころか唇すら知らないのか。たまに話して、たまに食事する程度の同居人ですからね。ままごとみたいにパンだのフルーツだのって……そのくせ嫉妬だけは夫面して一人前に」


殴り掛かるも簡単に避けられ、ルーファスは自分で撒き散らした粉の上に倒れ込む。ついた拍子に破片で切れた手からは、赤い血がじわりと滲んでいく。


「まさか本当に、あのアパートで私達が何もなかったと。そう思ってるんじゃないですよね? 嘘だと分かって、見逃してくれていただけですよね? まあ……見逃すも何も、結婚前のことをどうこう言われる筋合いはありませんが。彼女の“監視”を任せたのは、他ならぬ貴方ですし。それを承知で結婚したんでしょう」


ヨハネスはしゃがむと、傷付いたルーファスの手を緑色の光で包み、勝ち誇った様に笑う。


「つまり“夫”である貴方よりも、“兄”である私の方が……実質、奥様とは“夫婦”に近いという訳です」

「……違う。あいつは何も知らない。男女のことを何も知らない。嘘を吐くな!!」

「女はしたたかなんですよ。清純なフリをして、幾らだって男を誘える」


男を…………


ルーファスの脳裏に浮かんだのは、幼い自分を忘れ、男との愛欲に溺れた母。幼い自分を捨て、あっさりと命を絶った母。

カッと燃え上がる激情に、目の前の長い足を掴んで押し倒す。咄嗟に受け身を取るも、背中に響くその衝撃に、ヨハネスは顔をしかめた。


「あいつは、母とは違う……絶対に違う!!」


ルビー色の瞳には、激しい怒りと……それ以上の痛みが揺らぎ、暗い熱を帯びている。それはヨハネスにまでじわじわと侵食し、暗く熱い言葉となって跳ね返った。


「それは……明日の朝、奥様がどんな顔をなさっているかでお分かりになるでしょう。一晩じっくりかけて、貴方の知らない“女”の顔を引き出して差し上げますよ。……まさか、クリステン卿ともあられる方が、前言撤回などなさらないですよね? 貴方の可愛い奥様と、一護衛である私が、一晩同じベッドで寝て宜しいのですよね?」


ついには哀しみまで湛え出したルーファスの瞳に、ヨハネスは呆れ顔で息を吐く。ズキズキする背中を擦りながら立ち上がると、「ではお楽しみに」と言い残し、颯爽と去って行った。





寝支度を済ませると、リンディの部屋へと廊下を歩くヨハネス。幸い誰とも擦れ違わなかったが、他ならぬ彼女の夫から命を受けたのだ。何も疚しいことはないと、堂々とドアを開けた。


ベッドのある奥の小部屋からは、ランプの灯りが漏れ、家具の影を映している。

……あれからどうしただろう。ちゃんと着替えて寝かせてもらっただろうか。

まるで幼い妹を気遣う様な考えに、可笑しさが込み上げる。ついさっき、逆のことを言ったくせに……別の意図でこの部屋に来たくせに。


チラリと見えたベッドは、布団が大きく捲られており、人の気配はない。……不浄か? と足を踏み込んだ瞬間、床に広がる光景に、ヨハネスは息を呑んだ。


桜貝色の長い毛足の絨毯には、何かが書かれた紙が何枚も散らばっている。その一枚に、血の染みを作りながら横たわる身体。


……リンディ!!

ゾッとし覗き込むも、金色の長い睫毛を伏せ、ふがふがと寝息を立てている。鼻の下は赤黒く固まった血で塞がり、呼吸をするのも辛そうだ。


何だ……鼻血か。

血は止まっているが、念の為手をかざし、粘膜を保護しておく。

絵でも描いていたのか? と手に取った紙には、何かの計算式らしき数字がビッシリと書き込まれていた。


これは……


算術は割と得意である筈のヨハネスでも解けない、超難問だ。合っているのか分からないが、その全てにきちんと答えが記入されている。周りを見るも、特に問題集らしき本は見当たらない。


うーんと苦し気に仰向けになる様子にハッとし、ヨハネスは枕元にあったタオルを濡らし、鼻を拭いてやる。少し力を入れ過ぎたのか……その刺激に、青い瞳がパチリと開く。しばし見つめ合った後、リンディは鼻の下に手をやりながら、たどたどしく言った。


「……ヨハ……兄様?」

「起こしてごめん……鼻血……出ていたから」


血で汚れたタオルと、スンと鼻に抜ける生臭い臭い。ああと頷き身体を起こそうとするも、寝起きで力が入らず、くたりと床へ戻った。

ヨハネスはその頼りない背中に手を回し、軽々と抱き上げるとベッドへ運んだ。糊のきいたシーツへ横たえ、自分も隣に寝転がると、布団を掛けた腹の辺りをそっと叩く。


トントンと伝わる優しい温もりに、リンディの寝ぼけ眼は再び落ちそうになるも……

あることに気付き、バッとそれをこじ開けた。

自分の腹を叩く手を取り止めさせると、くるりと体勢を変え、その持ち主へ呼び掛ける。


「ヨハン兄様!?」

「うん」

「何で此処に!?」

「命令されたから。ルーファス様にね」

「……旦那様に?」

「うん。今晩君と、一緒に寝て欲しいってさ」


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