第82話 二回目 リンディは18歳(20)
ヨハネスは剣の柄を握りながら、リンディの前へ立つ。
「いやあ、丁度お屋敷へ向かおうとしていたんですが……バッタリお会い出来て良かった」
……バッタリだと?
普段は穏やかな緑色の瞳を、鋭く光らせるヨハネス。
生地は上等だが、どこか品のない服に身を包んだ男。その男の中を探れば、更に下品で卑しさが滲み出ている。
……主人に近付けてはいけない人間だ。
尾行に気付けなかった己を悔やみながら、一層警戒心を強める。
「私に何かご用ですか?」
背中越しにひょこっと顔を出す主人を、ヨハネスは後ろ手でぐいと押し込める。
「ええ。私はこの辺りの病院へ医薬品を卸している問屋なんですけどね、この度、是非奥様にご紹介したい新薬がございまして」
「新薬?」
「はい……どんな進行性の癌にも効く、新薬なんです」
「……癌!?」
自分の手を突き破り前へ躍り出た主人を、ヨハネスは後ろからサッと羽交い締めにした。先日の豊漁祭の一件以来、主人の安全の為に鍛えてきた瞬発力を、存分に発揮する。
「癌が治るの!?」
「ええ。もう治療の施しようがない末期の患者も、それで完治したんですよ」
「本当? 本当に本当!?」
「もちろん。公爵家の奥方様に、嘘など吐きませんよ。……いえね、知り合いの医師伝いで聞いた話によると……」
男は急に小声になる。
「クリステン公爵……セドラー宰相殿が、癌を患っていらっしゃると」
痩せた義父の姿が浮かび、思わず涙目でこくこく頷いてしまうリンディ。それを見た男が、微かに口角を上げたのを、ヨハネスは見逃さなかった。
「私としては、我が国を導かれる尊い宰相殿に、是非新薬をお試し頂きたいと思っていまして。何せまだ承認が下りていない薬なので、在庫も非常に少ないのですが」
『セドラー家のルビー色の瞳を受け継ぐ男子は、非常に短命で、多くが30~40代で亡くなっている』
セドラー家の宿命だと……
この間、旦那様にそう聞かされたばかりだ。
だけど、だけど、もしかしたらってこともあるかもしれない。神様の決めたことには逆らえないけど、神様が気持ちを変えてくれることならあるかもしれない。あの時試しておけば良かった……ああすれば、こうすれば良かったって、もう後悔だけはしたくない。
「……欲しい。欲しいです、その薬!」
「奥様!」
ヨハネスは咄嗟に叫ぶ。護衛の分を超えていると解っていても、どうしても口を出さずにはいられない。男を鋭く見据えながら、冷静に言った。
「……約束もなしに、街中で奥様に話し掛けるなど無礼極まりない。まずは旦那様に許可を取ってからにしろ」
男は一瞬顔をひきつらせるも、すぐに元へ戻し……そこから更に眉を下げ、ガラガラと掠れた声で詫びる。
「それは……大変失礼致しました。こうして奥様と偶然お会い出来たことが嬉しくてつい。何しろ私も急いでおりましてね。もしお屋敷でお会いすることが出来なかったら、泣く泣くこの薬を持ち帰り、他の方にお譲りせねばならぬ所でしたから」
「……他の人へ?」
食い付いたリンディに、男はまたも口角を上げる。
「ええ。とある高貴なお宅の奥様も、末期の癌で苦しんでおられましてね。もしセドラー宰相殿がお受け取りにならない場合は、すぐにお譲りするお約束をしているのです。旦那様に許可を頂いてからということであれば……申し訳ありませんが、今回はこの薬はあちらの奥様に」
残念そうにポンと鞄を叩く男に、リンディは慌てて尋ねた。
「あのっ……旦那様には許可をもらっておきますから。また、新しいのを持って来てくれる?」
「それは難しいかもしれませんなあ。先程申し上げましたでしょう? 在庫が非常に少ないと」
「じゃあ、じゃあ、それを取っておいてくれる? 今日旦那様がお帰りになったら、すぐに話してみますから」
「申し訳ありませんが……それは出来ません。癌は日に日に身体を蝕みますから、苦しんでいる方に、一日でも早くお届けしたいのです。まあ……後三ヶ月程お待ち頂ければ、新しい物を入手出来るかもしれません」
そんな……三ヶ月後なんて、もう……
リンディは涙で曇る目を擦りながら、財布を取り出す。
「下さい。今すぐに、それを全部下さい」
「奥様!いけません! まずは旦那様へ……」
「ありがとうございます。ではどうぞこのままお持ち下さい」
男はヨハネスの言葉を遮り、瓶が数本入った鞄を、丸ごとリンディへ手渡す。
「用法と用量は紙に書いてありますから。……で、こちらが請求書になります」
男が差し出した請求書の金額に、ヨハネスは驚愕し再び叫ぶ。
「……いけません奥様!こんな大金!」
瓶を見てすっかり興奮したリンディの耳には、もう何も届かない。財布からありったけの紙幣を掴むと、男へ渡す。
「これで足りますか!?」
すると男の態度は一変し、小馬鹿にした様に、領収書を指で弾いた。
「足りる訳ないでしょう? どれだけ貴重な薬だと思ってるんですか。やはり今回はご縁がなかったということで」
そう言い鞄を取り上げようとするも、リンディは手に獣並みの力を込め、絶対に離さない。
「今、そこの銀行でお金を全部下ろして来ますから!待ってて、此処で待ってて!」
「奥様!」
鞄を抱いて銀行へ飛んでいく後ろ姿に、男は卑しさを顔中に浮かべながらほくそ笑んだ。
数分後、リンディが男へ渡したのは、給料のおよそ三ヶ月分の現金。ルーファスと結婚してからは生活費に使うこともなくなったので、あの安アパートの家賃以外は、こうして丸々銀行に預けていた。
男は紙幣を数え溜め息を吐くと、請求書をピラピラと揺らす。
「奥様……数字が見えないんですか? これっぽっちで足りる訳がないでしょう。まさか公爵家の奥方ともあろう方が、これしか用意出来ないとは」
「ごめんなさい……私、今これだけしか。一緒にお屋敷に来てくれればもう少し」
その言葉に、途端に警戒心を露にする男。頭をポリポリ掻くと、わざとらしい程神妙な面持ちで言った。
「まあ……私ら国民が、どれだけ宰相殿にお世話になったかを考えればね。今こそ、そのご恩をお返しする時なのかもしれません。いいでしょう、この金と……奥様が今身に着けていらっしゃる装飾品で、手を打つことにしましょう」
「装飾品……」
男はリンディの指やら首元を見て、顎をしゃくる。
「分かったわ!」
「奥様!」
もうこうして何度叫んだことだろう。ヨハネスの必死の制止も虚しく、リンディはパールとサファイアのネックレス、揃いのバレッタ……そして、あの指輪の上に光る、本物の金の結婚指輪までも、迷わず抜き取り男へ差し出した。
男はほくほく顔でそれらを懐にしまうと、まだ粘れると踏んだのか、今度はリンディの鞄を覗き込む。
「他に何かお持ちではないですか? 幾らご恩返しと言えども、私も生活がかかっていますから。これだけでは少し……ねえ」
どうしよう……もう、お金に替わる物なんて……
あ……
お義父様の病を知ってから、御守り代わりに持ち歩いている物……大切な、大切な……でも……
リンディの表情から何かを察した男は、声を張り上げる。
「仕方ないですね……他にないのでしたら、やはり薬は」
「あります!!」
勢いよく手を挙げると、リンディは鞄から絹の小袋を取り出す。その紐をほどくと、ルビー色の紙が巻かれたチューブが、コロンと出てきた。
何だそれはと言う風に、男は怪訝な顔をする。
「これはヘイル国の珍しい絵の具なんです。値段は詳しくは分からないけど……お母様が、馬一頭と交換出来る位だって。まだ一度も蓋を開けていないし、価値はあると思います」
「へえ……」
キラリと目を光らせながら、チューブを引ったくり、懐にしまう男。
お義父様がくれた絵の具……優しくて、温かくて、世界にたった一つしかない絵の具……
でも、これでもしお義父様の命が救えるなら……例え私が死んでも、旦那様は一人ぼっちにならない。この絵の具は、その為にもらったのかもしれない。
手から消えた宝物に泣きそうになるも、リンディは歯を食いしばった。
「では……その薬は気持ち良くお渡し致しましょう。本当はまだ全然足りませんがね。宰相殿のご回復を、遠くから祈っておりますよ」
──その夜、見るからに怪しげな瓶と請求書が並ぶテーブルを、ルーファスはバン!と力任せに叩いた。
「……こんな法外な値段の薬がある訳ないだろう。この “0” の数が見えないのか。首都の一等地で家が一軒買える額だぞ」
怒鳴っている訳ではないのに、夫の低いその声は、ビリビリと身の毛がよだつ程恐ろしい。
リンディは縮こまり、震える口から何とか言葉を発する。
「ごめんなさい……私、数字はよく見ていなくて……見たとしても100以上はモヤモヤしてよく解らないし、とにかく沢山お金を用意しなくちゃって」
「……解らないだと?」
ルーファスは鼻で笑うと、請求書を指でつまみヒラリと落とす。
「ろくに確認もせず銀行で金を下ろし、ありったけの装飾品……結婚指輪まで差し出したと?」
「それだけじゃないの……お義父様が誕生日に下さった絵の具まで……」
それだけ? 結婚指輪を、夫婦の証をそれだけだと?
目の前でほろほろと涙を流す妻に怒りしか沸かず、その矛先は、隣のヨハネスへと向かう。
「お前、何故止めなかった」
「……申し訳ありません」
違う……
深く頭を下げるヨハネスに、リンディは首を振る。
ヨハン兄様は、ずっと私に何か喋り続けてくれていた。私が聞けなかった……聞かなかっただけだわ。
「違う、違うの。ヨハン兄様は、きっと私を止めてくれようとしてたの! 私が聞かなかっただけ、だから私が悪いの」
ヨハネスの腕に手を置き、必死に庇うリンディ。また、“兄様”と呼んでいることにも気付かず……
ルーファスはスッと立ち上がると、自分の左手を突き出し、冷たい唇を開いた。
「この純金の結婚指輪にどれだけの価値があると思っているんだ。簡単な計算も出来ない、正常な判断も出来ない。たかが護衛に制止され、挙げ句にそれも聞けない。お前……前から思っていたが、本当に頭がおかしいんじゃないのか?」




