表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
83/98

第82話 二回目 リンディは18歳(20)


ヨハネスは剣の柄を握りながら、リンディの前へ立つ。


「いやあ、丁度お屋敷へ向かおうとしていたんですが……バッタリお会い出来て良かった」


……バッタリだと?

普段は穏やかな緑色の瞳を、鋭く光らせるヨハネス。


生地は上等だが、どこか品のない服に身を包んだ男。その男の中を探れば、更に下品で卑しさが滲み出ている。

……主人に近付けてはいけない人間だ。

尾行に気付けなかった己を悔やみながら、一層警戒心を強める。


「私に何かご用ですか?」


背中越しにひょこっと顔を出す主人を、ヨハネスは後ろ手でぐいと押し込める。


「ええ。私はこの辺りの病院へ医薬品を卸している問屋なんですけどね、この度、是非奥様にご紹介したい新薬がございまして」

「新薬?」

「はい……どんな進行性の癌にも効く、新薬なんです」

「……癌!?」


自分の手を突き破り前へ躍り出た主人を、ヨハネスは後ろからサッと羽交い締めにした。先日の豊漁祭の一件以来、主人の安全の為に鍛えてきた瞬発力を、存分に発揮する。


「癌が治るの!?」

「ええ。もう治療の施しようがない末期の患者も、それで完治したんですよ」

「本当? 本当に本当!?」

「もちろん。公爵家の奥方様に、嘘など吐きませんよ。……いえね、知り合いの医師伝いで聞いた話によると……」

男は急に小声になる。

「クリステン公爵……セドラー宰相殿が、癌を患っていらっしゃると」


痩せた義父の姿が浮かび、思わず涙目でこくこく頷いてしまうリンディ。それを見た男が、微かに口角を上げたのを、ヨハネスは見逃さなかった。


「私としては、我が国を導かれる尊い宰相殿に、是非新薬をお試し頂きたいと思っていまして。何せまだ承認が下りていない薬なので、在庫も非常に少ないのですが」



『セドラー家のルビー色の瞳を受け継ぐ男子は、非常に短命で、多くが30~40代で亡くなっている』



セドラー家の宿命だと……

この間、旦那様にそう聞かされたばかりだ。

だけど、だけど、もしかしたらってこともあるかもしれない。神様の決めたことには逆らえないけど、神様が気持ちを変えてくれることならあるかもしれない。あの時試しておけば良かった……ああすれば、こうすれば良かったって、もう後悔だけはしたくない。


「……欲しい。欲しいです、その薬!」

「奥様!」


ヨハネスは咄嗟に叫ぶ。護衛の分を超えていると解っていても、どうしても口を出さずにはいられない。男を鋭く見据えながら、冷静に言った。

「……約束もなしに、街中で奥様に話し掛けるなど無礼極まりない。まずは旦那様に許可を取ってからにしろ」


男は一瞬顔をひきつらせるも、すぐに元へ戻し……そこから更に眉を下げ、ガラガラと掠れた声で詫びる。


「それは……大変失礼致しました。こうして奥様と偶然お会い出来たことが嬉しくてつい。何しろ私も急いでおりましてね。もしお屋敷でお会いすることが出来なかったら、泣く泣くこの薬を持ち帰り、他の方にお譲りせねばならぬ所でしたから」

「……他の人へ?」


食い付いたリンディに、男はまたも口角を上げる。


「ええ。とある高貴なお宅の奥様も、末期の癌で苦しんでおられましてね。もしセドラー宰相殿がお受け取りにならない場合は、すぐにお譲りするお約束をしているのです。旦那様に許可を頂いてからということであれば……申し訳ありませんが、今回はこの薬はあちらの奥様に」


残念そうにポンと鞄を叩く男に、リンディは慌てて尋ねた。


「あのっ……旦那様には許可をもらっておきますから。また、新しいのを持って来てくれる?」

「それは難しいかもしれませんなあ。先程申し上げましたでしょう? 在庫が非常に少ないと」

「じゃあ、じゃあ、それを取っておいてくれる? 今日旦那様がお帰りになったら、すぐに話してみますから」

「申し訳ありませんが……それは出来ません。癌は日に日に身体を蝕みますから、苦しんでいる方に、一日でも早くお届けしたいのです。まあ……後三ヶ月程お待ち頂ければ、新しい物を入手出来るかもしれません」


そんな……三ヶ月後なんて、もう……


リンディは涙で曇る目を擦りながら、財布を取り出す。

「下さい。今すぐに、それを全部下さい」

「奥様!いけません! まずは旦那様へ……」

「ありがとうございます。ではどうぞこのままお持ち下さい」

男はヨハネスの言葉を遮り、瓶が数本入った鞄を、丸ごとリンディへ手渡す。


「用法と用量は紙に書いてありますから。……で、こちらが請求書になります」

男が差し出した請求書の金額に、ヨハネスは驚愕し再び叫ぶ。

「……いけません奥様!こんな大金!」


瓶を見てすっかり興奮したリンディの耳には、もう何も届かない。財布からありったけの紙幣を掴むと、男へ渡す。

「これで足りますか!?」

すると男の態度は一変し、小馬鹿にした様に、領収書を指で弾いた。

「足りる訳ないでしょう? どれだけ貴重な薬だと思ってるんですか。やはり今回はご縁がなかったということで」

そう言い鞄を取り上げようとするも、リンディは手に獣並みの力を込め、絶対に離さない。


「今、そこの銀行でお金を全部下ろして来ますから!待ってて、此処で待ってて!」

「奥様!」


鞄を抱いて銀行へ飛んでいく後ろ姿に、男は卑しさを顔中に浮かべながらほくそ笑んだ。




数分後、リンディが男へ渡したのは、給料のおよそ三ヶ月分の現金。ルーファスと結婚してからは生活費に使うこともなくなったので、あの安アパートの家賃以外は、こうして丸々銀行に預けていた。


男は紙幣を数え溜め息を吐くと、請求書をピラピラと揺らす。

「奥様……数字が見えないんですか? これっぽっちで足りる訳がないでしょう。まさか公爵家の奥方ともあろう方が、これしか用意出来ないとは」

「ごめんなさい……私、今これだけしか。一緒にお屋敷に来てくれればもう少し」

その言葉に、途端に警戒心を露にする男。頭をポリポリ掻くと、わざとらしい程神妙な面持ちで言った。


「まあ……私ら国民が、どれだけ宰相殿にお世話になったかを考えればね。今こそ、そのご恩をお返しする時なのかもしれません。いいでしょう、この金と……奥様が今身に着けていらっしゃる装飾品で、手を打つことにしましょう」

「装飾品……」


男はリンディの指やら首元を見て、顎をしゃくる。


「分かったわ!」

「奥様!」

もうこうして何度叫んだことだろう。ヨハネスの必死の制止も虚しく、リンディはパールとサファイアのネックレス、揃いのバレッタ……そして、あの指輪の上に光る、本物の金の結婚指輪までも、迷わず抜き取り男へ差し出した。

男はほくほく顔でそれらを懐にしまうと、まだ粘れると踏んだのか、今度はリンディの鞄を覗き込む。


「他に何かお持ちではないですか? 幾らご恩返しと言えども、私も生活がかかっていますから。これだけでは少し……ねえ」


どうしよう……もう、お金に替わる物なんて……

あ……

お義父様の病を知ってから、御守り代わりに持ち歩いている物……大切な、大切な……でも……


リンディの表情から何かを察した男は、声を張り上げる。

「仕方ないですね……他にないのでしたら、やはり薬は」

「あります!!」

勢いよく手を挙げると、リンディは鞄から絹の小袋を取り出す。その紐をほどくと、ルビー色の紙が巻かれたチューブが、コロンと出てきた。


何だそれはと言う風に、男は怪訝な顔をする。

「これはヘイル国の珍しい絵の具なんです。値段は詳しくは分からないけど……お母様が、馬一頭と交換出来る位だって。まだ一度も蓋を開けていないし、価値はあると思います」

「へえ……」

キラリと目を光らせながら、チューブを引ったくり、懐にしまう男。


お義父様がくれた絵の具……優しくて、温かくて、世界にたった一つしかない絵の具……

でも、これでもしお義父様の命が救えるなら……例え私が死んでも、旦那様は一人ぼっちにならない。この絵の具は、その為にもらったのかもしれない。


手から消えた宝物に泣きそうになるも、リンディは歯を食いしばった。


「では……その薬は気持ち良くお渡し致しましょう。本当はまだ全然足りませんがね。宰相殿のご回復を、遠くから祈っておりますよ」






──その夜、見るからに怪しげな瓶と請求書が並ぶテーブルを、ルーファスはバン!と力任せに叩いた。


「……こんな法外な値段の薬がある訳ないだろう。この “0” の数が見えないのか。首都の一等地で家が一軒買える額だぞ」


怒鳴っている訳ではないのに、夫の低いその声は、ビリビリと身の毛がよだつ程恐ろしい。

リンディは縮こまり、震える口から何とか言葉を発する。


「ごめんなさい……私、数字はよく見ていなくて……見たとしても100以上はモヤモヤしてよく解らないし、とにかく沢山お金を用意しなくちゃって」

「……解らないだと?」


ルーファスは鼻で笑うと、請求書を指でつまみヒラリと落とす。


「ろくに確認もせず銀行で金を下ろし、ありったけの装飾品……結婚指輪まで差し出したと?」

「それだけじゃないの……お義父様が誕生日に下さった絵の具まで……」


それだけ(・・)? 結婚指輪を、夫婦の証をそれだけ(・・)だと?

目の前でほろほろと涙を流す妻に怒りしか沸かず、その矛先は、隣のヨハネスへと向かう。


「お前、何故止めなかった」

「……申し訳ありません」


違う……

深く頭を下げるヨハネスに、リンディは首を振る。

ヨハン兄様は、ずっと私に何か喋り続けてくれていた。私が聞けなかった……聞かなかっただけだわ。


「違う、違うの。ヨハン兄様は、きっと私を止めてくれようとしてたの! 私が聞かなかっただけ、だから私が悪いの」

ヨハネスの腕に手を置き、必死に庇うリンディ。また、“兄様”と呼んでいることにも気付かず……


ルーファスはスッと立ち上がると、自分の左手を突き出し、冷たい唇を開いた。


「この純金の結婚指輪にどれだけの価値があると思っているんだ。簡単な計算も出来ない、正常な判断も出来ない。たかが護衛に制止され、挙げ句にそれも聞けない。お前……前から思っていたが、本当に頭がおかしいんじゃないのか?」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ