第81話 二回目 リンディは18歳(19)
屋敷へ向かう馬車の窓から見える光景は、一回目の人生と同じだった。
笑いながら歩く人々や、のどかな荷馬車。空も青く、草木もゆったり流れている。
あの時と違うのは、こうして弁当を広げ、夫婦として向かい合っていること。
ルーファスはうさぎらしき林檎をフォークで刺すと、眉をしかめる。半分欠けた耳とぼこぼこの身体……
「何だこれは」
「……うさぎです」
リンディはしゅんと俯く。義父デュークのことを考えながら切っていたら、こんな酷い有り様になってしまったのだ。危うく何度か指まで切りそうになった。
哀れなうさぎは白い歯に呆気なく噛み砕かれ、彼の養分となるべく胃へ落ちていく。
サンドイッチを手にはしているものの、心ここにあらずといった顔で、何処か遠くを見続ける妻。試しにそっと取り上げてみるも、全く気付く様子はない。
ぽかんと開いているその口に、ルーファスは取り上げたサンドイッチを押し込んでみた。
「ん!!?」
突如口に侵入した異物に、涙目になりながら慌てる妻。
さっきのうさぎみたいに不細工だな……
予想通りの反応にフッと満足した夫は、咳き込む寸前で手を緩め、水筒を差し出してやる。リンディはそれをごくごく飲み干すと、はあと胸を押さえた。
歯形のついた潰れたサンドイッチをしげしげと見つめながら、ルーファスは尋ねる。
「お前……父上のこと、何か知っているのか?」
「……え?」
ドキリとするリンディ。
一回目の人生では、お兄様の方が先にお父様のご病気を知っていて……屋敷へ向かう前に、私にそのことを話してくれたのだっけ。馬車の中では、震える私の手をずっと握り続けてくれていた……きっとお兄様だって、不安で一杯だったはずなのに。
二回目の人生でも、旦那様はお義父様のことを何か知っているのだろうか。
「お前、いつもやたらと父上の身体を心配しているだろう。あの魔道具でも手紙でも。何か知っているのか?」
「いえ……あのっ……知らないけど、何も知らないけど……長生き……して欲しいから、です」
長生き……
やはり知っているのではないか?
しどろもどろの妻を鋭く探るも、青い瞳の奥に浮かぶのは、ただ哀しみの色だけで……
もし何かを知っているのだとしても、そこにあるのは父を想いやる心だけだと確信した。
ルーファスはサンドイッチを脇に置くと、膝で手を固く握る。
「セドラー家の血について、お前に話しておく」
「……血? セドラー家の?」
「ああ。結婚する時に、初めて父上から聞かされた話だ。お前にはいつか俺から話をしろと言われていた」
夫の口から語られる言葉に、リンディは目を見開く。
セドラー家のルビー色の瞳を受け継ぐ男子は、非常に短命で、多くが30~40代で亡くなっていること。
義父は、子供の頃から死に備えて準備をしてきたこと。
そして……長寿の証である黒髪の女性を妻に娶った結果、その両方を受け継いだルーファスが誕生したこと。
「それじゃ……それじゃ、お義父様は……」
「ああ、もう44だ。いつその時が来てもおかしくない。セドラー家の宿命だからな」
「でも、お義父様はお医者様に診てもらっているわ。週に二回も健康診断を受けているんだから。大丈夫でしょ、ね?」
「……寿命には逆らえない。神の決めたことだ」
『いつ迎えが来てもおかしくない……私も、君だって。人の寿命は神のみぞ知る。そうだろう?』
ああ……だからお義父様はあんなことを……
どっと押し寄せた哀しみに飲み込まれそうになるも、ふと、ルーファスの手が震えていることに気付く。
あんなに淡々と話していたのに……本当は怖くて仕方がないんだ。きっと私なんかより、ずっと、ずっと。
一回目の人生では、お兄様が私を支えてくれた。
今度は私が、旦那様を支えたい。
リンディはルーファスの隣へ移動すると、震え続けるその手を取り、背中をとんとんと優しく叩いた。
「旦那様、大丈夫よ。私が一緒に居るから。可愛いうさぎも沢山作ってあげるから。なんにも怖くないわ、ね?」
いつもはツンと尖っている顔を、くしゃりと歪めながらルーファスは呟く。
「……不細工なのは要らない」
「うん!今度はちゃんと可愛く切るから!今日はごめんなさいね」
ふいと背を向けると、ごしごし目を擦り、妻の食べかけのサンドイッチに黙々と齧り付くルーファス。
広いのに小さく見えるその背中を、リンディは優しいリズムで叩き続けた。
『私が一緒に居るから』
ちらりと見えた夫の左手には、あと数粒しか砂の残っていないあの指輪。
ごめんね……旦那様。
私もきっと、あともう少ししか一緒に居られない。あと何回、うさぎを作ってあげられるかな。
夫の背を叩く自分の左手には、まだたっぷりと砂の残っている指輪。
残り時間を大切に使わなきゃ。うさぎ以外にも沢山、旦那様の“楽”を……幸せを見つけてあげよう。
旦那様の、長い残り時間の為に。
覚悟はしていたものの、自分達を出迎える義父デュークを見て、リンディは驚きを隠せない。結婚式の時とは別人の様に痩せ細っていたからだ。頬が痩け、ルーファスと同じルビー色の瞳が、恐ろしい程に主張している。
やっぱり……やっぱりお義父様は……
「リンディ、ルーファス。急に呼び出してすまなかったね」
優しい微笑みは何も変わらないのに……
どんなに足掻いても、結局神の定めに逆らうことは出来なかったのだと、やるせなさに襲われる。
一回目の人生と同じ──
悪性の癌であと数ヶ月の命だと、そう告げられた。
二人きりで話したいとデュークに言われ、黄昏の風が吹く心地好いテラスで今、こうして向かい合っている。
「リンディ、ずっと君に訊きたかったことがあるんだ。私と初めて王宮で出会った時、君は私のことを、亡くなったお父上に似ていると言って泣いてくれたね。でも、フローラ先生……君のお母様の話では、お父上は亡くなった訳ではないし、金髪以外は私と顔も全く似ていないと」
リンディは王宮でデュークと再会した時のことを思い出し、あっ!と口を手で覆った。
「どうしてそんなことを言ったのか、教えてくれないか?」
デュークに向けられた眼差しは、変わらず優しいのにどこか神々しく……その命の終わりが近いことを示していた。
半分神である人に嘘など吐けない、吐きたくないという気持ちが、リンディの口から自然と溢れ出た。
「私……お義父様に会うのは、王宮で肖像画を描いたあの時が初めてじゃありません。本当は二回目だったんです」
「……二回目?」
「はい。信じてもらえないかもしれないけれど……私、19歳で一度死んで、今二回目の人生を送っているんです。一回目の人生では、私が6歳の時にお義父様とお母様が再婚して夫婦になりました。だから、お義父様は、私の本当のお父様だったんです」
デュークはしばらく目を丸くしていたものの、やがて何度も頷き、晴れやかな顔で義娘を見た。
「そうか……やっぱりそうだったのか……これでスッキリしたよ。何か……ずっと足りなかった人生のピースが、君達母娘に会って完成した気がしていたんだ。そうか……そうだったのか……」
「信じて……くれるの?」
リンディの顔はもう、涙でしとどに濡れている。
「もちろん。二回目に会った時に言ったじゃないか。君の様な可愛い娘が居た気がするって」
ひゅっと息を吸うと同時に、リンディは父の中へ飛び込む。涙やら鼻水でぐしゃぐしゃの顔を、痩せた温かい胸へ何度も擦りつけた。
「お父様、お父様……会いたかったの、ずっと」
「うん……私も君にずっと会いたかったよ」
「ごめんなさい……やっと会えたのに……何も出来なくて、助けられなくてごめんなさい……」
うわああと泣き叫ぶ娘を、デュークはいつまでもあやし続けていた。
この世の幸福を、全て集めた様な笑顔で……
やがて落ち着きを取り戻したリンディは、デュークから、19歳で命を落とした背景を詳しく尋ねられた。酷く心配する父を納得させるのは、それはそれは大変で……
ある魔道具の力で、ルーファスと結婚する為に、自ら一度死んで過去へ戻った。だから二回目の人生は長生き出来る。魔道具の効力が薄れてしまう為、詳しくは話せないと。
若干目は泳いでいたものの、半分は本当なのでそこまで怪しまれず、何とか押し切った。自分にしては上出来だったと、リンディは思う。
この嘘は……吐いても良かったよね?
その後、しばらく仕事を休み傍で看病したいと懇願したが、これにはデュークは首を縦に振らなかった。休日に会いに来てくれるのは構わないが、出来るだけ自分達の生活を優先して欲しいと。
泣きそうな娘の頬をつねりながら、デュークはおどけた顔で言った。
「私はこれからフローラ嬢に愛の告白をして、恋人になってもらうんだ。元夫婦だったと聞いて、俄然勇気が湧いてきたからね。……残りの日々を、出来るだけ二人きりで過ごしたいんだよ」
◇
首都へ戻り、二週間程経ったある日。
三ヶ国会議の資料制作の褒美に、リンディら画家は一日特別休暇をもらっていた。
ルーファスは通常通り仕事で留守にしている為、朝見送ってからというもの、ずっと暇を持て余している。
あともう少しで死んでしまうのに、暇だなんて勿体ない。旦那様の幸せ……そうだ! 図書館でフルーツの新しい切り方でも調べようと、ヨハネスと共に街へ繰り出した。
馬車から降り、図書館へ入ろうとした時──
「奥様、クリステン卿の奥様」
分厚い唇からニヤリと金歯を覗かせた、怪しい男が立っていた。




