第80話 二回目 リンディは18歳(18)
ギシリ……
鈍い音を立てる中古のベッド。
瞬きする間の出来事に、リンディはなす術もなく、こうして仰向けに押し倒されている。
上に覆い被さっているのは、険し過ぎる程険しい顔の夫。その目付きだけで瞬殺されてしまいそうだ。
「悪かったな……ヨハネスじゃなくて」
ヨハネス? 何のこと?
きょとんと見上げる愛らしい猛獣に、危うく持って行かれそうになり、ルーファスは目を逸らす。
……騙されてたまるか!
「ヨハネスのことを兄と呼ぶなと言っただろう。主人として、馴れ馴れしい態度は一切止めろと。なのに何度も何度も“お兄様”などと……」
お兄様…………ああ!
リンディはまた口を滑らせてしまったのだと、漸く気が付いた。
「さっき言った“お兄様”は、ヨハネスのことじゃないわ。その……別の……親戚のお兄様なの」
「親戚?」
怪訝な顔で妻を見下ろすルーファス。
こいつには一体、何人“お兄様”が居るんだ。
「何処の親戚だ。お前との関係は?」
「えっと……お母様の従兄弟の……子供の……旦那さんの……再従兄弟の……その、遠すぎてよく分からないの」
キョロキョロ泳ぐ目に、夫はフッと冷たい笑みを浮かべる。
「へえ……そんな得体の知れない奴を、“お兄様”などと慕っていたのか」
「それは……」
「じゃあ“タクト”とやらは何だ。そいつも“お兄様”なのか?」
「ううん、タクトは同い年だからお兄様じゃないの。誕生日も私の方が先だし。どちらかと言ったら弟ね。あっ、さっきの涼しい魔道具ね、タクトが作ってくれたの!凄いでしょう? あのコップの魔道具も!優しくて、楽しくて、大好きな幼なじみなの」
また“大好き”か。誰にでも簡単に言いやがって。
タクト……ヨハネス……お兄様……
ああ……全部イライラする。
「タクトのお家に遊びに行くとね、タクトのお母さんがいつも手作りのドーナツを山盛り出してくれるの。それがすっごく美味しいのだけど、食べた後はお腹が重くて動けなくて。こうして二人で床に寝っ転がってコロコロって……」
コロコロと身体を捩り逃げようとする妻に、体重を掛け押さえつける。ペラペラ喋り続ける煩い口を手で覆うと、顔をぐっと近付けた。
「ヨハネスのことは、今後は“ウェン”と呼べ。“タクト”も“お兄様”も……俺の前で口に出すことは、一切禁ずる」
ふがふがと反論している様だが、何も聞こえやしない。
ふん……いい気味だ。
口から手を離すと、ぷはっと息を吐く猛獣。
動きが鈍っている間に、昨日噛んだ上唇を指でつっとなぞり、その味を思い返す。
少し甘かった気はするが……正直齧っただけではよく分からなかった。
今度は下唇をなぞり、その味を想像する
こっちは苦いかもしれない……確かめてみるか。
唇を近付けようとした時……ふわりと甘い香りが漂った。
この匂い……
くいっとエプロンの肩紐を引っ張り、胸元にこびりついている絵の具に鼻を寄せるも、塗料のツンとした匂いしかしない。
違う、これじゃない。
くんくんと鼻を動かしながら、妻の耳元を嗅ぐ。
……これだ。
甘い……ただ甘いとしか形容出来ない香り。
導かれるままに香りが濃い方へと鼻を滑らせ、真っ白な項の辺りを嗅ぎ続ける。
「やあ……」
弱々しい声にハッと身体を離しその顔を見れば、金色の睫毛の下で、青い瞳がとろんと潤んでいる。
「くすぐったあい」
ふにゃっと困った様に眉毛を下げる妻に、ルーファスの胸は射抜かれ、頭が真っ白になった。昂る熱と、遠退きそうな意識の中、必死に理性を保とうとする。
ああ……妻が猛獣なら、自分は狼かもしれない。
『男の人は裸になると、狼になって女の人を食べてしまいます』
違う……自分が妻を食べるのではなく、妻が自分を補食しようとしているのだ。これが猛獣の罠だったとは……なんと恐ろしい。
ルーファスは夕べと同じく、白い頬を両手でペシャッと挟んでみる。
こんなフグみたいな間抜け面ですら可愛いと思えるなんて……本当にどうかしている。
潰れながらも艶めく薔薇色の下唇に齧りつくと、夕べよりももっと丹念に、丁寧に味わう。
甘い……むしろ甘いからこそ猛毒なのかもしれない。
夕べの様に暴れることなく、頬を赤らめながらも大人しく従う妻。
……これも罠だな、きっと。このまま進めば、自分は妻に喰い尽くされ、骨になってしまうかもしれない。
この妖しいエプロンを取ってしまえば、狼から人間に戻れるのだろうか。期待を込めながら、腰のリボンをシュッとほどいた時──
ぐうううううう……
ぎゅるるるるる……
けたたましい合唱が響いた。
そっと歯を離し、何事かと互いの目を覗き込んだ後、視線をゆっくりと互いの腹へ移動させる。
と同時に、正午を告げる澄んだ鐘の音が、風に乗って窓から流れ込んで来た。
「お昼よ!!」
リンディは獣並みの腕力で夫を突き飛ばすと、ガバッと跳ね起き、テーブルへ飛んで行く。
持ってきたバスケットからあれこれ並べ終わると、ベッドで項垂れる夫をぐいぐい引っ張り、椅子に座らせた。
「さあ、私なんかよりもずっと美味しいお弁当を食べましょう!夜でも裸でもないのに私を齧るなんて、旦那様ったら、よっぽどお腹がペコペコなんでしょう?」
毒を食らったせいで、まだ“反応”が治まらぬ身体。ルーファスは情けない程小さく縮こまりながら、とりあえず頷いておいた。
少しずつ落ち着きを取り戻し、確認したテーブルの上には……サンドイッチにチキンにカットフルーツ。優に二~三人前はあるのではないかというその量に驚く。幾ら猛獣でも、こんなに食べたら胃が破裂するだろう。
「沢山ありますから、遠慮せずに食べて下さいね」
「……沢山過ぎるだろう。これを一人で食べるつもりだったのか」
それは……と言いかけ、リンディは口をつぐむ。
よく分からないが、最近の夫はヨハネスの名を出すと途端に機嫌が悪くなる。本当はヨハネスに差し入れるつもりで多目に作ったのだが……ここは言わない方がいいと、リンディにしては珍しく地雷を未然に避けた。
そういえば昨日、『夫以外にフルーツをカットすることは禁止する』って契約書を変更されたのに。すっかり忘れていたわ。これは絶対に言えない……
「……ええ!絵を描くとお腹が空くから、つい作り過ぎてしまったの。えーと……ほら、旦那様の好きなうさぎも、沢山居るのよ」
パカッと開いた平たい瓶の中には、朝食と同じく、色々なフルーツのうさぎが遊んでいる。
思わず前のめりになりかけたルーファスは、ゴホンと咳払いをして誤魔化すも、その口元は綻んでいた。
リンディはそんな夫を見て、ふふっと微笑む。
「やっぱり旦那様は、うさぎがお好きなのね。お祭りでもないのに、立ったままお行儀悪くつまみ食いされた位ですもの」
……何も言えない。
ルーファスはフォークで林檎のうさぎを刺すと、渋い顔で口に放り込む。
「でもね、明日の朝食は、うさぎはお休みして白鳥を作ろうかと思っているの」
「白鳥? そんなもの作れるのか?」
「ええ、林檎で!少し量が多くなってしまうから、一緒に食べられたら嬉しいのだけど……あっ、でも、寂しい訳じゃないから駄目? ただ一緒に食べたいって、そんな理由じゃ駄目?」
チラッと見た夫の顔は、さっきうさぎを見た時よりも、もっと分かりやすく綻んでいる。
「別に……煩くしないならいい」
「ありがとう!今朝はね、お弁当作りで忙しくて、一緒に食べられなかったから。だから凄く嬉しい!」
何も言わず、うさぎを全て飲み込むと、ルーファスはサンドイッチを指差した。
「……それ、寄越せ」
「はい!」
自分が手渡したサンドイッチに、品良く口を付ける夫。キラリと光る白い歯を見ている内に、身体に熱が甦り、リンディは慌てて目を伏せた。
……狼になるのは、本当に男の人だけなの?
さっき……旦那様の綺麗な唇を齧ってみたいって、私も味見をしてみたいって、そう思ってしまったのに。
やっぱり私は変なんだな……旦那様の言う通り、私は猛獣なのかもしれない。
はあと甘い息を吐きながら、リンディはオレンジのうさぎに口付けた。
薄い板を通して伝わる和やかな雰囲気から、ヨハネスは意識を逸らし続ける。
ほんの数週間前まで……温かな彼女の隣は、自分の居場所だった。可愛い妹に幸せになって欲しい、ルーファス様と愛を交わし寿命を伸ばして欲しいと、心からそう思っていた筈なのに。失った今、こんなにも辛いなんて思いもしなかった。
これは罰だろうか……
本当はルーファス様の居場所だと知りながら、我が物顔で居続けたことへの。ルーファス様を哀れむ振りをしながら、優越感に浸っていたことへの……
◇
それから数ヶ月が経ち、三ヶ国会議を無事に終えた王宮が、落ち着きを取り戻し始めた頃──
デュークから一通の手紙が届いた。
『直接会って話したいことがある。夫婦揃って、至急帰って来て欲しい』と……
最近コップの魔道具では、なかなか連絡の取れなかった義父。凍てつく様な恐怖が、リンディの全身を駆け巡った。




