第79話 二回目 リンディは18歳(17)
……これは人間の住める所なのだろうか。
想像以上に朽ち果てた建物に、ルーファスは絶句する。以前妻の誕生日に来た時、馬車の中からチラリと覗いたが、こうして外に出て見ると改めて凄まじい。
いや、忘れていた。あいつは人間ではなく獣だ。此処は獣の住処なのだ。
「旦那様、危険ですので、赤い色は踏まずに上って下さい」
階段に足をかけた瞬間、前を行くヨハネスから忠告される。何度も此処を訪れたことを表す彼の慣れた足取りと、ギシギシ耳障りな音にルーファスは苛立つ。
何とか無事に二階へ辿り着いた夫婦と、それぞれの護衛達。とてもドアとは思えぬ薄い板に、リンディは目を輝かせながら鍵を差し込む。
錆びたドアノブを回し開いた中からは、何やら甘い香りと、塗料の混ざった不思議な匂いがした。
結婚前にヨハネスの助けを借りながら物を整理した為、室内は綺麗に片付いている。……が、剥がれた壁紙や腐りかけた床板など、外観同様中もなかなか酷い有り様だ。
仕事で辺境へ視察に訪れた時、民家を改造した安ホテルに泊まったことがあるが、此処よりもずっと上等だったとルーファスは思う。
「さあ、どうぞ旦那様」
“どうぞ旦那様”か……その響きは悪くない。
よし、猛獣の住処とやらを、とことん偵察してやろう。もしかしたら、何か弱味を握れるかもしれない。
非日常感に溢れた目の前の空間が、ルーファスの好奇心を刺激していた。
そんな夫の横からリンディはひょこっと外へ顔を出し、二人の護衛へ呼び掛ける。
「暑いので、良かったらお二人も中へどうぞ!」
「いえ。我々は任務がございますので」
そう言うと、薄い板の左右に分かれ、ピシッと立つ。高貴な主人に仕えていると一目で分かる立派な護衛と、少し突つくだけで崩れそうなオンボロアパート。何とも奇妙な光景がそこに生まれていた。
ルーファスは妻の首根っこを掴み中に引き入れると、建て付けの悪いドアをバタンと閉める。
「……護衛を中に入れる主人が何処にいる」
「だって暑くて可哀想でしょう?」
「鍛えているから問題ない。それよりこっちが暑くて死にそうだ。護衛より、まずは“旦那様”に気を遣え」
「ああ!ごめんなさい。今涼しくしますから、そこの椅子に座っていて下さいね」
ずっと閉め切っていた部屋は、蒸し風呂状態だ。リンディは部屋中の窓を開けると、あの魔道具をルーファスの前へ置き、羽根を動かす。ひんやりと流れる心地好い風に、ルーファスは火照った顔を近付け目を閉じた。
……もし自分が居なかったら、ヨハネスは誘われるままに中へ入ったのだろうか。誰も見ていないのだ。密室で二人きり、どんな風に過ごそうとも……
怒りにカッと目を開けると、額に何かが優しく触れている。妻がハンカチで自分の汗を拭っているのだと分かると、心が凪いでいった。……と同時に、ヨハネスにもこんなことをしたのだろうかと、また怒りが沸いてくる。
不安定な自分の感情が苦しく、ルーファスは差し出された水筒に乱暴に口を付けた。
リンディも向かいの椅子に座り、別の水筒からコクリと水を飲む。古い部屋と安い家具の中であまりにも異質なオーラを放つ夫を見ながら、これは夢ではないかと、こっそり膝をつねっていた。
あの窓から彼を想って王宮を眺めていたのは、ついこの間のことなのに。『退け』と言い放った彼と結婚して夫婦になれたのは、本当に奇跡なんだわ……
「旦那様が此処に来て下さるなんて、凄く嬉しい。どうもありがとう」
にこにこと微笑みかける妻に揺さぶられ、夫はますます不安定になる。
「別に……暇だっただけだ」
「旦那様のご用事は大丈夫なの?」
「別に……今日でなくても構わない」
「そうなの。狭くて落ち着かないかもしれないけど、自由に過ごして下さいね」
リンディは髪を一つに束ね立ち上がると、クローゼットへ行き一枚のエプロンを取り出す。絵の具で汚れたそれのリボンを後ろ手にキュッと結び、くるりとこちらを向いた瞬間──
ルーファスの心臓が、今までにない程ドクドクと高鳴り、脳に熱い血液を打ち付けた。
口から何かが飛び出しそうになり、咄嗟に手で覆いながらも、妻から目が離せない。
地味な服、汚れたエプロン、そこから飛び出る華奢な手足。目線を上に移せば、無造作な金髪の中、くっきり浮かぶ白い顔と真っ青な瞳。それに……夕べ悪戯に齧った、鮮やかな薔薇色の唇。
触れたくて、触れたくて……抱き締めたくて堪らない。
突如自分を襲った激しい衝動に、苦しみを通り越して死にそうになる。
生まれて初めて知った感情。もしかして……これが?
可愛いと……猛獣を可愛いと……
確かに今、自分はそう感じている。
奥の部屋でキャンバスに向かい始めた妻を横目に、形だけの読書を続けるルーファス。鼓動はまだ治まらず、時折胸を押さえては深呼吸を繰り返していた。
弱味を握るどころか、新たな弱味が出来てしまった……ブロッコリーだけでも、こちらは充分不利なのに。こんなことなら図書館に行けば良かったか……いや駄目だ、可愛い猛獣をヨハネスと二人きりなんかにさせられない。
“可愛い”
何故だ……あんなに汚らしいのに。
ルーファスは本を置き、両手で頭を抱え込む。
そうか……あんな汚い女が周りに居なかったから、珍しくて動揺しているだけだ。なにせ屋敷の下女ですら、もっと小綺麗なのだから。
窓の絵を描き終わり、絵筆を置きながらふと夫を見れば、ルビー色の瞳とパチリと視線がぶつかる。
「旦那様も描いてみますか?」
塗料の甘い香りに誘われたルーファスは、気付けば白いキャンバスの前へ座っていた。
この部屋に入った時から、ずっと気になっていた香り。
初めて嗅ぐ筈なのに、懐かしいと感じるのは何故だろう……
ヨハネスの時と同じく、夫の前にずらっと画材を並べると、リンディは楽しそうに言う。
「どれでも好きなのを使って下さいね」
どれでもと言われても……
絵なんて、王都学園の芸術の授業以来だ。首席で卒業したルーファスは、どの科目も好成績を収めていたが、芸術だけが妙に足を引っ張っていたことを思い出す。絵画も彫刻も自分なりに真面目に取り組んでいたつもりだが……何が良くて何が悪いのか。判断基準の不明瞭なことで成績を付けられるのが、納得いかなかった覚えがある。
とりあえず一番描きやすそうな鉛筆を手に取ってはみたものの、何を描けばいいのやら。授業と違い、具体的な指示がないことがこんなに難しいなんて。
眉間に皺を寄せるルーファスに、リンディは一枚のキャンバスを見せた。
「これ、さっき私が描いた絵よ。そこの窓を描いたの」
空に王宮に木々。妻が指差した出窓から見える景色とその絵は、配置も何もかもが一致していた。ただ一つ違うのは……
「雪なんか降っていないぞ」
そう、まるで白い吐息までもが見えそうな、見事な雪景色だったのだ。
「暑いから降らせたくなったの。この国では一度も雪に会ったことがないけど、私の心の中では何度も会っているから」
「……変だな。在る物を描いているのに、無い物を描くなんて」
「芸術には、“変”が必要なのよ。ほら、この絵を見て」
リンディは壁から一枚のキャンバスを取り外す。
……木?
さっきの雪景色と比べると、赤子が描いたのかと思う程技術が劣る絵。
「前に此処でヨハネスが描いたの。そこの窓から見える木なんだけどね、林檎とオレンジが両方食べられる木なのよ。変だけど素敵でしょう? 大好きだから飾らせてもらってるの」
ヨハネス…………大好き……
もうルーファスの頭にはそれしか残っていない。危うく鉛筆を折りそうになりながらも、何とか耐える。
「……見てろ。もっと凄い絵を描いてやる」
闘争心をメラメラ燃やしながら、再びキャンバスへ向かい、手を動かし始めた。
ルーファスは思い出していた……学生の頃、自分のある絵を見た芸術講師が、感動して泣いていたことを。何故それが成績に反映されなかったのかは未だに謎だが。
自分の得意な絵。それは……
「よし、描けた」
自信たっぷりに鉛筆を置き、汗を拭う。
わくわくしながらキャンバスを覗いた妻は、予想通り、わあっと感嘆の雄叫びを上げた。
「……変!変ですっごく可愛い!この豚!」
「……豚?」
「“お兄様”も“旦那様”も、どちらもやっぱり絵は変なのね。“変”は芸術! “変”は素敵!」
お兄様……またヨハネスか。
握った拳に、ピキピキと青筋が立つ。今鉛筆を握っていたなら、間違いなく真っ二つに折れていただろう。
「これは豚じゃない……お前の顔だ!」
「私?」
講師を泣かせた程得意な人物画。まさか豚呼ばわりされるとは……!
「私の顔、旦那様には豚に見えているの?」
「……ああ、白豚だ。いや……白フグ……いや、獣だ、猛獣だ!!」
「猛獣……何だかあまり可愛くないわ。でも、この絵は可愛いから、凄く好き!大好き! ありがとう、旦那様」
……大好き……
なんという破壊力だろう。くらっと眩暈を起こし、イーゼルを倒しそうになる。
「ねえ旦那様、蛾とうつぼの絵も描いてくれる?」
「蛾と……うつぼ?」
一体どういう組み合わせだ。
戸惑う自分の手に、はいと鉛筆を握らせる妻。
訳が分からないが……もうこうなったら描くしかない。
シャッと手を走らせ、どうだと振り返るも、妻は折れそうな程深く首を傾げている。
「これ……本当に蛾とうつぼですか?」
「他に何に見えると言うんだ」
夫の問いに、妻の首は更に角度を増す。
「うーん……何か違う。お兄様が描いてくれた蛾とうつぼは、もっと……ほわんとしていて、もっと可愛かったの」
またお兄様……!
お兄様……ヨハン兄様……ヨハネス……!!
「そうか……悪かったな……可愛くなくて」
ルーファスは鉛筆を床に叩きつけ足で踏むと、リンディをひょいと抱き上げ、傍らのベッドへ落とした。




