第78話 二回目 リンディは18歳(16)
“楽”……そうだ、確かに楽にはなれる。悪夢は見ないし、闇の男は穏やかだなのだから。
だが、侍女が妻に言ったのは、別の意味での“楽“だろう。
「一緒に寝れば、旦那様は明日の朝のフルーツをスッキリとお召し上がりになれますよって。本当?」
スッキリ……
ルーファスは脱力し、フラフラとその場にしゃがみ込む。
父上は一体、何処であんな侍女を見つけて来たのか。猛獣の扱いから有能であることは証明されているが……ある意味有能過ぎる。まだ結婚して二週間だと言うのに、えらい気の回しようだ。
気付けば妻もしゃがみ、自分の顔を心配そうに覗いていた。
「旦那様、大丈夫? やっぱり、お腹が空いたまま寝るのは辛いのね……お夕飯を食べても、まだ私を食べたいの?」
……意味が分からない。
疑問符ばかりが浮かぶルーファスを置き去りに、妻はどんどん話を進める。
「この間は、旦那様には食べられたくないだなんて、酷いことを言ってしまってごめんなさい。だって、あの時の旦那様は目がギラギラで、歯がガチガチしてて、何だか恐かったの。だけどね、この間お祭りであの人達に何処かへ連れて行かれそうになって……その時思ったの。旦那様に食べられておけば良かったなって」
“旦那様に食べられておけば良かった”
その言葉を聞いた瞬間、意思とは反対に、ルーファスの全身が熱くなる。顔には一気に血液が集まり、鼓膜までドクドクと刺激していた。そして、ある部分にも……
“反応”している自分を悟られない様に、スッと立ち上がり、妻へ背中を向ける。
「でもね、骨になるのはやっぱり嫌だわ。皮膚もお肉もなかったら、転んだりぶつかった時に痛いでしょう? 見えない部分で一番美味しそうなのはお尻なんだけど、お尻のお肉がなくなったら、痛くて座れないと思うの。あとね、指は大事だから絶対に止めてね。絵が描けなくなったら仕事にも影響してしまうし、何より辛いわ」
……ん?
無事に熱が冷め平常時へ戻った夫は、妻へ向き直る。
「だから見えない部分を少しだけ齧って欲しいの。貧血にはなるかもしれないけど、血は好きなだけ啜ってもいいわ。あさりやレバーを沢山食べるから、大丈夫!」
もしかして……
こいつの言う『食べる』の意味は……
「……おい、ちょっとこっちに座れ」
ルーファスはリンディの手を引きソファーに座らせると、向かいにドカッと腰掛け腕を組む。
「今から、『食べる』の意味を細かく説明しろ。誰が何を、どういう状態でどんな風に食べるのか。お前が理解していることを全て話せ」
リンディは「はい!」と元気よく返事をすると、丁寧に話し出した。
「男の人は裸になると、狼になって女の人を食べてしまいます。死なない様に、見えない部分の肉をガリガリと齧り、血を啜るの」
やはりそうかと、額を押さえるルーファス。
誰だ……そんな馬鹿なことを教えた奴は。
「結婚すると、夫が妻を食べるんでしょう?『お前は俺の妻だ。好きにさせろ』って。だからね、旦那様も私を食べれば、お腹が一杯になって楽になれるのかなって。でも私、白いから不味いかもしれない。味見してみて、不味かったら途中で止めてね」
味見……不味い……止める……何だか頭痛がしてきた。
「ああっ!!」
突如叫ぶリンディ。
「どちらも“寝る”や“眠る”が共通しているじゃない!」
何なんだ……
猛獣の雄叫びに、頭がガンガン揺れる。
「結婚すると、食べる為に、夜裸になって一緒に“眠る”でしょ? あと、性行為にも“寝る”が関係するんでしょ? ということは、食べることと性行為は同じなんじゃない!?」
大当たり!!……なのか?
「身体を食べると子供が出来るの? でもそうしたら、生殖器はどうやって使うの? 反応って何? まさか!生殖器を食べるのではないでしょう? だって食べてしまったら、兄弟が産まれなくなってしまうもの。……あっ!もしかして、我慢して何回かに分けて食べるの? 一人っ子のお家は、我慢出来なくて全部食べてしまったの?」
もう……もう限界だ……
ルーファスはバン!とテーブルに手を付き、リンディの瞳を覗き込む。
こいつ……やはり夫をからかっているんじゃないか?
猛獣のペースに飲まれるな……恐れずに……真っ直ぐ瞳を見ろ。
勇気を出して覗いた青い瞳の奥は、ただただ、ただただ空っぽだった。
本当に……本当に何も知らないのか……
脱力し、フラフラとソファーに崩れた。
いつの間にか傍に来ていた妻が、上目遣いで自分の手を握っている。
「ねえ旦那様、私に本当のことを教えて下さい。もう大人なのに、何も知らなくて恥ずかしいの。プリシラさんとかヨハネスとか……色々考えたんだけど、今更誰にも聞けなくて」
“ヨハネス”
今日この口からその名が出たのは何回目だろう。
プツリと何かが切れ、妻の手を振り払うと、白い頬を両手でペシャッと挟み込む。フグに似た間抜け面に溜飲が下がると、潰れながらもツンと尖っている薔薇色の上唇を、ガブッと噛んでやった。
「ん~~~~!!!」
両手をバタバタさせ、暴れる猛獣……いや、白いフグ。
フグの頭を固定しながら、反応を楽しむ様にガブガブと噛み続けた。
白から赤いフグになった所で歯を離すと、舌をベッと出し、「不味い」と言い捨てる。小さな身体を担ぎ、スタスタと部屋のドアまで歩いて行くと、顔を近付け妖しい声で囁いた。
「……いつか食べながら教えてやるよ。もう少しまともな味になったらな」
ドアを開けると、枕ごとポイと廊下へ放り投げた。
枕を抱きながら、よろよろと自分の部屋へ戻って来たリンディ。
一体……何が起こったの?
じんじんする上唇に触れると、慌てて鏡の前へ飛んで行く。やや赤くなってはいるものの、千切れてもないし、穴も空いていないことにホッとした。
でも……
私、舐めても齧っても不味いのね……
一回目の人生で、お兄様が私を美味しいと言ってくれたのは、やっぱり嘘だったんだ。
熱い唇を押さえながら、はああとベッドへ沈み込む。どうしたら美味しくなるのかと考えている内に、浅い眠りを繰り返し、気付けば朝を迎えていた。
翌朝、給仕が運んだ朝食を見て、ルーファスは知らず知らず顔を綻ばせる。ガラス皿の上、苺の薔薇とハートの中で、仲良く遊ぶ三羽のうさぎ。林檎だけでなく、くるんと耳の曲がった、キウイとオレンジのうさぎまで。
すぐにでも手を付けたいのを我慢し、しばらく待ってやるも、妻はやって来ない。
……何だ。今朝は一緒に食べてやってもいいと思っていたのに。夕べ噛んで脅かしたからか?
ふん……猛獣も、やっと夫に恐れおののいたらしい。これを機に大人しくなるといいが。
しんと静かな室内。ソーサーにカップを置く音だけが響き、空虚感が広がる。
こういう時にあれを使うのか……契約書 “2” の補足。
『寂しい時は食卓を……』
そこまで考え、まさかと首を振る。フォークを取ると、苺のハートを刺し口に入れた。
朝食後、図書館に行く為玄関へ向かっていると、背後から甲高い鼻唄と軽快な足音が迫って来る。
長い足をピタリと止め振り返れば、地味な麦わら帽子に茶色の服といった出で立ちの妻が、バスケットを下げて立っている。
「……何だ。連れて行かないぞ」
“反応”のコントロール法について調べに行くのだ。
誰にも……特に妻には、絶対に知られてはいけない。
リンディは、鼻唄の延長の様な明るい調子で答えた。
「行きませんよ。私、アパートへ行くんです」
「アパート?」
「ええ!絵を描きに。久しぶりに窓に会いたいの」
結婚前にリンディが住んでいたアパートは、あの窓と別れたくないという彼女の懇願により、現在も契約したままになっている。家具も画材もそのままなので、いつでもアトリエとして使用出来る状態だ。
「奥様、馬車の用意が整いました」
ヨハネスの呼び掛けが広間に響く。
「ありがとう!じゃあ、旦那様も何処かへいってらっしゃいませ。またね」
適当な挨拶でさっさと外へ出ようとする妻の腕を掴み、自分の方へ引き寄せるルーファス。
「まさか……ヨハネスと一緒に行くんじゃないだろうな」
「行きますよ。だって私の護衛ですから」
今度はヨハネスを睨みながら問う。
「お前、風邪を引いているんじゃないのか」
「はい。軽い喉の痛みだけですので、奥様には移さないかと。護衛の任務にも一切支障はございません」
ヨハネスと……アパート……二人で……ヨハネスと……
「……行く」
夫の言葉に、きょとんと小首を傾げるリンディ。
「俺も一緒に行ってやる。アパートに」




