第76話 二回目 リンディは18歳(14)
「一緒に……寝てもいいの?」
「端なら構わない」
リンディは透ける様な白い顔で、ふにゃりと笑いながら言った。
「ありがとうございます。旦那様」
……体調の悪い時は、きちんと礼が言えるんだな。
本当に、おかしな猛獣だ。
ルーファスは端に寄り、猛獣の寝床を用意してやった。
ベッドの端と端に横たわる二人。
「……手」
「はい」
夫のたった一言で、妻は左手を差し出す。これはルーファスが、結婚後に唯一成功した調教だ。
手を取ると、いつも通り薬指に優しく触れていく。普段より妻の肌が冷たいことに気付くと、布団の中で握り続けた。
「……あれ、不味かった」
「え?」
「あの汚いやつ、不味かった」
「……食べてくれたの!?」
「一口だけ。油っぽい割にパサパサしてるし、くどいし。何であんな物を買ったんだ?」
「温かいと美味しいの。……海を見ながら食べると、もっと美味しいの」
「冷たくても温かくても変わらないと思うが。屋台の食べ物なんて、初めて食べたからよく分からない」
「お祭りには魔法があるの。賑やかで、楽しくて、何でも美味しく感じちゃう素敵な魔法」
「騒音の中、人にぶつかりながら立ち食いすることの何がいいのか分からない」
「……いつか試してみて。旦那様も魔法をかけられてしまうと思うわ」
少しの間の後、ルーファスは口を開いた。
「来年……いや、再来年かその後か。気が向いたら、温かいのを一緒に食べてやってもいい」
こくんと喉を鳴らしながら、リンディは答える。
「私……来年の約束は出来ないの。お祭りも屋台のアイスもフライも、もう今日で最後だったかもしれない」
灯りを落とした暗い室内では、その表情は見えない。だが、一層冷たくなった妻の手に漠然とした恐怖が押し寄せ、どういうことかと問おうとした言葉は渦に飲まれた。
「だから……食べてくれて、ありがとう」
静かで、温かく……そして哀しい声が、ルーファスの胸に響く。普段の甲高く煩い声よりも、何故かずっと不快に感じた。こんな声を聞く位なら、少しだけでも一緒に祭を歩いてやれば良かっただろうか……そんな気がしてくる。
でも、もう今日は二度と戻って来ない。
ルーファスは握った手に力を込める。
「……お前を拐おうとした暴漢。拷問はせずに辺境へ送る。これ以上は譲れない」
しばらく返事を待つも、何も返って来ない。少し身体を起こし妻を覗き込めば、スヤスヤと寝息を立てていた。
本当に……よく寝る奴だな。
ルーファスの瞼も重くなり、深い眠りへ落ちていく。
温かな布団の中、手はしっかりと握ったまま──
夢の中で、リンディは一人、灰色の浜辺に居た。
いつかの様に流木に腰掛け、魚のフライを齧るも……何の味もしない。もう一口、もう一口と齧れば齧る程、心が空っぽになっていく。一人だと分かっているのに、隣に手を伸ばし、必死に誰かに触れようとしている。
指先が温かいものに触れ、はっと目を覚ますと、そこにはぼんやりと天蓋が見えた。
私……馬鹿だなあ。
兄妹だったあの日々は、宝物みたいに大切だったのに……道端の石ころみたいに簡単に捨ててしまった。
子供時代を一緒に過ごした“お兄様”は、もう何処にも居なくて、もう二度と会えないのに。
今頃やっと気付くなんて……私、本当に馬鹿だなあ……
心地好い温もりに隣を見れば、“旦那様”が眠っている。
手……ずっと握っていてくれたのね。
一回目の人生で“お兄様”と出逢い兄妹になれたのも、二回目の人生で“旦那様”と出逢い結婚出来たのも、どちらも奇跡だ。
どちらも愛しい大切な人。
ならば今は、“旦那様”を幸せにしたい。
私の残りの人生は、その為に使おう。
リンディは大きなルーファスの手を、きゅっと握り返した。
バルコニーから星を見上げるヨハネス。一度はベッドに入ったものの寝付けず、こうして夜風に当たっていた。
まだリンディの温もりが残る手を、握ったり開いたりしながらじっと見つめる。
ルーファス様に楯突くなんて……何と愚かなことをしたのだろう。理性が効かず、どうしてもあの手を離すことが出来なかった。自分の願いはリンディの寿命を伸ばすこと。その為には、彼に愛してもらわなければならないのに……
一方で、彼女を愛さずに手放して欲しい。返して欲しいと、そう思っている自分が居る。
返す……
ヨハネスは激しく首を振り、自嘲する。
何を言っているんだ。リンディは元々、ルーファス様のものだったじゃないか。元の居場所へ帰った……それだけだ。第一、自分のものだったことなんて、一度だってない。ただ……兄として純粋に慕ってくれていただけ、それだけなのに。
冷静になれ……そうでないと……
あと半年程で、彼女を失うことになる。
自分の勝手な想いのせいで、彼女の命を危険に晒す訳にはいかない。
バルコニーから部屋へ戻ると、ヨハネスはピッチャーから水を注ぎ、ぐいと飲み干す。
……ルーファス様は、本当にリンディを抱いたのだろうか。どちらからも全く、そんな空気は感じないが。
だが……あの女性への不信感と嫌悪感の塊だった彼が、リンディとは普通に会話をし、同じ部屋で過ごし、手を握ることも出来る。更に今日は砂浜に座り込んだリンディを抱いて、大勢に見られることも厭わず、馬車までの距離を歩いた。
彼の中で、何かが変化しているのは確かだ。
いや……変化しているというより、心が徐々に元の場所へ帰っていると言った方が正しいだろう。
ソファーにドサリと腰を下ろすと、背に凭れ高い天井を仰ぐ。
抱かれていなければ……せめて身体だけでも、結ばれていなければいいのにと。まだそんなことを考えている自分に、つくづく嫌気がさす。
護衛の仕事がなければ……強い酒を飲んで、何も分からなくなる位に酔ってしまえるのに。
彼女を抱き締めた時の、あの柔らかさと甘い香りは、いつまで経ってもヨハネスの中から消えることはなかった。
首都へ戻り、新居で新しい生活を始めたリンディとルーファス。
二人が住む屋敷は国王の私的財産で、結婚祝いにと贈られた物だ。やや小さめだが、さすが国王の見立てだけあり、インテリアも内装も非常に凝っていた。
『海』がテーマだというこの屋敷は、コバルトブルーの屋根に始まり、二枚貝の形の洗面台や、海や砂浜の壁画、更には真珠や珊瑚が使われた特注の家具や小物が置かれている。また、庭には美しい人魚の彫刻が佇む噴水まであった。
芸術を愛する国王の感性は見事にリンディにも刺さり、あのオンボロアパートに次ぐ、新しい城となった。
「旦那様!今朝は一緒にお食事をしましょう?」
「契約書の “2” 」
リンディは契約書の控えを広げ、“2” の補足をトントンと指差す。
「『寂しい時は食卓を共にする』って書いてあるでしょ? 私、今朝は寂しいの」
「俺は寂しくないから無効だ」
「どっちが寂しい時とは書いてないわ。私が寂しいんだから有効よ」
……策士め。
リンディがこれにサインをするまでに、ルーファスは散々面倒な質問攻めにあった。早く終わらせたいとばかりに補足をよく確認もせず、契約を交わしてしまったのだ。
「……ブロッコリーはいいのか」
「お昼とおやつに沢山食べるから大丈夫!」
そう言うとリンディは、夫の返事も聞かず、テーブルの向かいにさっさと腰を下ろす。
三ヶ国会議を控え仕事が多忙な今、余計なエネルギーは使いたくないと、ルーファスは大人しく妻に従った。
朝食が運ばれると、真っ先にパンに手を付けるルーファス。千切って一口運ぶと、満足げに頷く。
この屋敷で暮らし始めてから、パンの味が変わった。何処がどうとは分からないが、とにかく味が違う。調理しているシェフは実家から連れて来たベテランで、その味にも慣れている筈なのに……パンだけは違った。
原材料を変えているのか? まあ、口に合うのだから理由はどうでも良い。
柔らかい顔でパンを頬張るルーファスに、リンディは目を細めていた。
その週の休日、屋敷の廊下に響く甲高い声。発生元を辿っていくと、キッチンからだということが分かり、ルーファスは中へ入って行った。
シェフと何やら話しながら、ナイフで林檎の皮を剥いている妻。皿には葉や花や、色々な形のフルーツが乗っている。何処かでこれを見たような……レストラン……それとも園遊会だったか?
「……何をしている」
突如現れた主人に、シェフは頭を下げる。リンディはにっこり笑いながら、林檎のうさぎを見せた。
「フルーツをカットしていたんです。可愛いでしょう?」
「お前が食べるのか」
「ううん。ヨハネスにあげるの。風邪気味で喉が痛いから、フルーツが食べたいんですって。シェフが剥いていたんだけど、私もお手伝いさせてもらってるの」
ヨハネス……
ルーファスの顔がひきつる。
「奥様は本当にお上手ですね。私でもここまで美しくは切れません。食べてしまうのが勿体ない」
「ヨハネスもそう言ってたけど、慣れたらパクパク食べてくれたわ」
笑い合う二人に、ルーファスは不機嫌に問う。
「……あいつは何処でそれを食べたんだ」
「ああ、私のアパートです。いつもお昼にフルーツを出していたの」
夫が纏い出した冷気に、妻は全く気付かない。うさぎを花畑の中心に置くと、よし!と手を拭いた。
「うさぎは簡単だけど、初めてだからきっと喜んでくれるわ」
皿を持ち上げようとした瞬間、ルーファスはうさぎをガッと掴み、自分の口に放り込んだ。




